隣の空き地のボウボウの草を刈りましょう
私の家といっても借家なんですが、その庭は直接道路に接していないで、別の人の空き地を隔てて道路に面しております。
その空き地(外側にはフェンスも仕切りもなく、有るのは我が家との境界にあるフェンスのみです)が、基本的には草ぼうぼうで、年に二回ぐらい草刈りや除草剤を撒いたりしに来られるのですが、来られる直前は、1メートル近い草が生えていますし、刈った後は枯れ草の山。
草花で綺麗にしている自慢の私の庭が、道路から見にくいし、見えたとしても雑草越しの景観で、ちっとも風情のある景色に見えないんです。
そこで仕方なく?この空き地の雑草の草刈りをしようと思い立ち、一年ほど前から実行に移しました。
最初は悪戦苦闘で、雑草が蔓を伸ばして根を張っていくような草がたくさんあり、強烈な根を張っていました。それを一つずつ一つずつスコップで掘り上げ、根から引っこ抜いていきました。毎日この作業が出来るわけでもありませんので、1ヶ月ほどかかって、綺麗に整地をいたしました。
それでも2~3ヶ月すると新しい草が伸び出すので、伸び始めたなと思ったら、人と土に優しい除草剤(草の葉と根にだけ作用)を散布しました。
きれいな空き地に花を植えましょう
その空き地がある程度綺麗になると、この広大な空き地を何か少しデコレーションしたくなってきました。
空き地のほんの隅っこの小さな一角に、花を植えました。その道を通る人が思わず目を留めて下さればいいなと思って……。
一本が二本に、二本が三本にと、段々増え、花壇も空き地の隅っこの一角ですが右と左の二カ所になりました。近所の奥様方も喜んで下さり、良いことをしているという気持ちになっていました。
来年のためにと、ユリの球根も何本か植えました。
空き地の地主に花を植えていることの了解を求める
そんな状態であったつい先頃、この空き地の地主が草刈りにやってきました。私の隣の空き地は私が草抜きをしているので、草が生えていないことは承知のはずなのですが、更にその隣の大きな空き地もその方の所有で、そこは以前同様雑草が生え放題なので、草刈り機で除草に来られたのでした。
勝手に花を植えていることに若干の後ろめたさもありましたので、「花を植えさせていただいている」ことを告げ、了解を求めました。しかしその方は、「何もしないでくれ」ということで、花を植えたりすることは了解を得ることが出来ませんでした。
私は悄然として、その空き地にあった花たちをスコップで掘り出し、自分の家の庭に移動をさせました。
部屋に帰ってきた私の心には、その地主に対する不平不満の思いが沸々と込み上げてきます。
「あんたはキチンと除草が出来るのか? 年に1回や2回じゃ足らんで!」とか、「雑草が生えてきたら、言いに行くで!」とか、「除草剤は、私の家の花にかからんように撒いてや!」とか「人様の悦ぶことを考えんといけないんじゃないの?」・・・等々、1時間、2時間、色んな用事をしながらも、頭の中はこのことばかりがぐるぐる回っています。
毒饅頭を食べてはいけない
そんなとき突然に、「あんた(私のこと)が草刈りを、今まで通りにやったら良いだけや!」という言葉が頭の中に浮かんできます。「えっ?」と一瞬絶句するような思いになりましたが、しばらく思考を停止した後に、「そうか、そういうことなんか」と、心が納得をいたしました。
私は、自分の善?なる行為を否定されたと思ってしまい、その否定した人を悪人と見なし、不平不満、批判非難の嵐をぶちまけていたのでした。
自分に悪意を持っている人の言葉でも、「毒を食べてはいけない。そんなときは聞き流せばいい」と高橋信次先生はお教え下さっていますのに、毒の入っていない饅頭を、毒入りと思い込んで、そのありもしない毒を食べてしまっていたのでした。
こんな思い方をしているようでは、決して心美人になんかなれるものではありません。守護・指導霊様が余りに哀れな私を見るに見かね、「いい加減にしなさい!」と、喝を入れて下さったのではないでしょうか。
私は昔から、自分の思い通りにならない方向に持って行く人のことを、極端に仕返しというか、実際にはそんな行動はしないのですが、仕返し的なことをどんどん思ってしまう癖があるようです。
高橋信次先生のみ教えの中の「正見……正しく思うこと」に関し、「自分の中にわだかまりがあると正しく思うことが出来ない」と教えていただいております。
まさしくその通りであります。
「良いことをしている」「近所の人も喜んでいる」「だからあなたはOKすべきだ」……これらは、独りよがり、自分中心の考え、わだかまりであり、この思いこそが私の考え方を偏らせていたのだということに気づかせていただきました。
不平不満を持ち、非難の嵐を浴びせたこの方が、神様のお遣いで、今現在の私の心の間違い、癖を正しに来て下さった方だということになります。有り難うございます、でなければならないのでしょう。
正思、正しく思うということは、自分の思いの中に、思いこみがあっては、正しく思えないということを学ばせていただきました。全ての方、全ての出来事が、自分の心のひずみを矯正する糧になるのだと思わせていただきました。