時間に縛られる、追いかけられるという心理の根源はどこにあるのか?

tokei

普通の車道でのヒヤリ体験

 先日私は、「時間に縛られる」というテーマの投稿をいたしました。先生面をして、縛られている状態からの解放をお勧めしました。恰も自分はそれを超越しているかのような書き方をしました。でも、実は、私もがんじがらめに縛られている、その一人ということであります。今でも当たり前のようにエレベーターの「閉」ボタンを、我先にと押してしまいます。

 さて先日、いつも通る道を車で走っておりました。国道ではありませんが、2車線あり、交通量も少ないので、みんな平気で80キロぐらいで走っている道路で、私もご多分に漏れず、さして急ぐ用事もないのにスピード違反で捕まるようなスピードを出していました。

 走っているその先の交差点は、左車線が直進、右車線は右折専用になっていますので、左車線を突っ走っていました。前方に大型のトラックが止まっているのが見えました。右車線に車線変更をしようとウインカーをつけ、右にハンドルを切ろうとすると、その右車線を猛スピードで走り抜いていく車がありました。私は急いで左にハンドルを切り、元の車線に戻りましたが、急ハンドルであったため、車の右車輪が浮き上がるような状態ながら、危機一髪、交通事故を免れました。

 後方を確認しなかったわけではありませんが、普段はミラー確認と直接振り返っての目視もするのですが、この時は右車線には自分のスピードに付いてくる車はいなかったという先入観があり、目視確認を省略して、ミラーの確認だけでハンドルを切ろうとしてしまいました。私が確認したときは、猛スピードの後続車は急接近して、丁度ミラーの死角であったのだと思います。

偶然か必然か? 運が良かったのか、救いの手を差し伸べていただいたのか?

 こんな時人は、運が良かっただとか、たまたま良いタイミングで気がついたとか思うかもしれませんが、私は、守護・指導霊様からのお導きによりお救いをいただいたのだと思っております。そしてこのことを今後の生活の糧にしなさいと言って下さっているのだと思っています。

  高橋信次先生も、「偶然は一切ない。全ては必然である」とお導き下さっています。

 このことから考えて、天のお導きを受け取ることが出来て、事故を免れたことは運が良かった、ということは出来るかもしれませんが、受け取るには受け取るだけの原因がなければならないし、このような状況に出合うには、それなりの意味、必然性もなければならないはずでありましょう。

 先述しましたように、私も時間に縛られている一人でありまして、それを自覚し、また例えば人様からのご指摘も受け、時間から解放されよう、車のスピードを出すことはやめようと決心しても、いつか元の木阿弥になってしまいます。

 これも高橋信次先生が言っておられるカルマ(業)的なエネルギーが、自分の思いとは裏腹に強力に働くからでありましょう。高橋信次先生は、「分かっちゃいるけど、やめられない」のが業のエネルギーだとお教え下さっています。そしてそのエネルギーから解放される方法は、「反省によってそのエネルギーを生み出した根源に遡り、その根を引き抜くことである」と、お教え下さっています。

事故寸前の出来事の意味と反省で浮かんできた幼い頃の出来事

 時間に縛られ、ふと気がついて、「何でこんなに気が逸っているのだろう?」とか、スピードを出して車を走らせているとき、ふと、「何のために一分や二分の時間を争っているのだろう?」と我に返るときがありますが、次の日になるとまた、同じことを繰り返しています。

 こんな状態でこのような事故寸前の出来事に出会でくわしたということは、『キチンと反省をして、その堂々巡りの輪廻の輪から抜け出しなさい、時間に縛られない、スピードに縛られない自由の境涯に抜け出しなさい』と、お教え下さったものと受け止めさせていただきました。

 その日の夜、さっそく、反省をしました。このような根深い自分の行動の根源が、そんなに簡単に見つかるのだろうかという思いがありましたが、現在から過去の出来事、特に幼いときの自分の思いと行動を探っていきました。

 色んな思いが頭の中を駆けめぐりましたが、「これだ!」という出来事にたどり着きました。それは、小学校の3、4年生の頃、登校前の家の部屋の片隅で、必死になって宿題をやっている姿がありました。もう登校の時間が来ています。でも、『この宿題をしないと……』という必死の思いで、昨日するのを忘れていた宿題をしています。

 また、学校の休憩時間。次の学科の教科書を出したとたん、宿題をしてこなかったことに気づきます。始業のチャイムが鳴るまでに宿題を終わらさなければならないと、気ばかり焦って、心臓は早鐘のごとく打ち、絶体絶命の心境になっています。

 このような体験はまだまだあります。

 学校に着いて今日は朝礼の日。その時宿題を忘れていたことに気づき、朝礼までの数分間、必死で宿題をする。朝礼が始まるので校庭に集まるように、マイクで招集が掛かる。教室にいるのは自分一人、胸が締め付けられるような思いで耐えれる限界まで宿題をやる。

 何をそんなに恐れていたのか?

 先生から怒られるのはイヤだ。また立たされて、皆の軽蔑の視線にさらされる。今まで比較的良い子であったのに、いっぺんに悪い子に見られてしまう……、このように人の目を気にする、人の評価を気にする幼い子供であったようです。

時間に縛られる根源はどこにあったのか?

 『急いで急いで。もう学校へ行かないと!』『もう時間がないよ、始業のチャイムが鳴るよ!』『何をもたもたしてる! もっと早く、もっと急いで!』

 人からどう思われるか、ダメ人間と思われるということの恐怖感が、急がなければならないという性格を心に植え付けてしまったようです。これが時間に縛られ、もっと急いでと駆り立てられる私の性格が造り上げられた根源なのでしょう。

 駆り立てられる根源、せき立てられる根源が分かったのですから、そのような思いが出てきたときは、「ああ、また出てきているな……。あの昔の体験が今出てきているんだな……。冷静な対応をしよう」と思えばいいのでしょう。

 高橋信次先生は、このことに関し、次のようにお教え下さっています。

 『・・・その人の業となって動いているので、原因をつかみ、自覚しても出てくるものである。原因が不明の時はすぐそれに乗ってしまうが、原因が分かっておれば冷静に対処できよう。
 業の活動は時が経つと静かになるので、それまでじっと待つしかない。こうして業のリンネはそれに乗ってしまうといつまでもそれにふり回されるが、乗らないで放っておくと、ついにはまったく現われなくなってくる』

 いつも申し上げております、自分の発する思いを第三者の目で見る、想念観察、止観ということが出来ないと、自分の持っている欠点の解決のための一歩も踏み出すことが出来ません。

 このブログではこのことを訴え続けております。どなたかお一人でもそのことを心に留めていただけ、実践に進んでいただけたら、大きな悦びでございます。

 お読み下さいまして、有り難う御座いました。

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