多くの人が家庭内での人間関係で悩んで居られます。しかし、多くの人がそれを深刻には受け止めておられないようですね。
多くの人が人間関係で悩んで居られるようです。その原因は一体なんでしょうか?
特に家族間の人間関係がうまくいかないと、人生は暗闇のようになってしまいます。
「いや、俺は外で、やりがいのある仕事もあるし、友達もたくさんいるし、家は寝るために帰るようなものだから……」という方もいらっしゃるかもしれませんね?
でもそれは、じっくりと自分の来し方を振り返ってみれば、単なる強がりにしか過ぎないのではないでしょうか? 心の中はヒューヒューと北風が吹いていることでしょう。その冷たさに耐えきれないから、そんな強がりで自分の心をごまかしているに過ぎないのではないでしょうか?
また、殊更に問題がないから、うまくいっていると思っている人も、沢山いらっしゃることでしょう。でも、それは人間関係がうまくいっているのではなく、問題が表面化していないというだけのことに過ぎないのではないのでしょうか?
何か事が起これば、「そんな風に思っていたの?」というような言葉が、相手の方から機関銃のように出てくるかも知れませんね?
そのような人間関係に問題がある最大の原因は、会話が少ないということに帰結するのかも知れません。
会社でも、家庭でも、会話が弾んでいれば、きっと意思の疎通もうまくいき、互いがお互いを理解し合うというようになっていくことでしょう。
会話が少ないからこそ、「きっと、こう思っているはずだ」とか、「こんなことを言うと嫌がられるんじゃないか?」とか、自分一人の思考の中で、ああだ、こうだと思いを巡らしてしまいがちです。
会話が苦手な人は往々にして、こういう悪循環に陥ってしまうようであります。
会話が苦手な人はどうしてそうなってしまったのでしょうか?
色々な人間関係がありますが、特に大事で且つ深刻なのが、親子の人間関係であり、夫婦の人間関係でありましょう
もし家庭での人間関係、コミュニケーションがうまくいかない場合はどうでしょう?
旦那さんの多くの人はサラリーマンでしょう。上司に叱咤激励され、身も心もクタクタになりながらも、仕事が終われば、楽しい我が家に帰れる、妻と可愛い子供たちが待ってくれているという状況であればきっと、会社での疲れも吹っ飛んでいくことでしょう。
でも現実は家に帰っても、一応は夕飯の準備はしてくれていても、会話のないぶっきらぼうに見える奥さんと、子供たちは自分の部屋でゲーム三昧。自分たちを養ってくれている父親が帰ってきたことにも気がつかない。
奥さんは奥さんで、「毎日毎日、食事の準備が大変。たまには出張でも行ってくれたら楽なのに…」などと心の中は愚痴三昧?
これがもし、玄関に入るなり子供たちが飛び出してきて、「お父さん、お帰り。今日のご飯はハンバーグだよ」と、鞄を持って運んでくれたりするような家庭だったら、どんなに励みになることでしょう。
こんな家庭は間違いなく、奥さんも満面の笑顔で、「今日は暑かったからビール飲む?」などと聞いてくれることでしょう。ビールが毎日の方は、「お疲れ様」と、聞くこともなくビールを注いで下さることでしょう。
これはご主人だけではありません。奥さんであっても、小さなお子さんであっても、大きく成長した成人の子供さんであっても、そのご両親であっても、温かい人間関係に包まれていれば、居心地がいいもので、外にいるより早く家に帰ってきたいと思うものでしょう。
子供であっても、ご主人であっても、真っ直ぐ家に帰りたくない、などと思って道草を食ったりするのは100%、その家が楽しくないからであります。多くの方が、このような経験をお持ちのようであります。
家庭の中では、同じような波長が支配しますので、一人が笑顔であれば全員が笑顔に、一人がぶっきらぼうであったら全員がぶっきらぼうになってしまいます。強い波長に同化してしまうのです。
その原因は、大きな意味では家族一人一人の責任ではあるのですが、やはり主導権を握っている大人、ご主人と奥さんの普段のあり方が、如何にあるかということになってしまうのでしょう。
成人した子供のいる家庭がそうである場合は、第一原因は親であるとしましても、それを修正しようとしない子供にも責任があると言えるのでしょう。
ここに書いたような家庭は、極々一般的な家庭というつもりで書いていますので、事実は小説よりも奇なりというような凄まじい家庭もあることとは思います。でも、そこまで行くには、それなりの理由も、段階もあったことでしょうが、始まりはほんの一寸した会話がないという不調和だったかもしれませんね?
どうして良いか分からない現代の人々
よく結婚を迎えて、「どんな家庭を作りたいですか?」という質問に、「明るい、笑いの絶えない家庭にしたいです」とか、「平穏にみんながテーブルを囲んでご飯を食べて、朝を迎えて行ってらっしゃいというような、普通の家庭ですね」とか言っておられます。
テレビのインタビューなどでは、その先のことはまず聞かないんですが、そう言われる方に、「今まで過ごしてこられた家庭は、そんな家庭でしたか?」と聞くと、どんな返事が返ってくることでしょう。
奥様になる方も、ご主人になる方も、「今まで育ってきた家庭が理想なので、それを目指していきます」などと答えられる方が果たしてどれだけ居られることでしょう。
私事ですが、
私は七人の兄弟姉妹と祖母と叔父夫婦一家が同居している大家族の中で育ちました。普通に考えると、大家族であれば、最近のテレビなどでよく見るように、ワイワイガヤガヤ、とても楽しいというか、賑やかな感じがするものですが、それも両親、特に母親のあり方が、やはり家庭の雰囲気を決めてしまうようであります。
母は総勢13人の炊事、洗濯などの世話をしなければならない立場にあり、父は寡黙な人で必要なこと以外は喋らず、食事が済めば自分の部屋に引きこもるという人であったため、家庭の中は火が消えたような状況で、会話が無く、いつもひっそりと、冷たい空気が流れているようでした。
その反作用でもあったのでしょうか、私も結婚するときは確か、「明るい家庭を作りたい」とか言ったような、思ったような気がいたします。
でも、20年も30年も、明るい家庭や笑いのある家庭にする努力を一つもせずに、そんな意識を持つこともなかった人が、いざ結婚したからと言って、そんな家庭が築けるはずがないではありませんか?
「石の上にも三年」という諺があるように、ある目的意識を持って、その実践的努力をして、その努力を長い間続けることによって、その目的が花開くというものでしょう。何の努力もしないで、棚からぼた餅などが落ちてくることはありません。
でも幸いにして、その育たれた環境がまさしく「笑いある、会話の豊富な明るい家庭」だった人も居られることでしょう。
恐らくそういう方は、あまり大した努力なしに、そういう家庭を作り上げられるかも知れませんね。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」で、家庭の中で自分はどんな態度を取ればいいのか、どんな発言をすればいいのか、人をどう思いやったらいいのかというようなことを、無意識のうちに身につけているからでしょう。
でもそうでない人が悲しいかな、大半ではないのでしょうか?
そういう人は、結婚してからこそが初めての努力なんですが、そんなに簡単な道ではないことにすぐに気がつくことでしょう。
どうしたらいいかが分からないがため、色んな話をしようと努力をしますが、2~3ヶ月、半年続けばいい方で、結婚当初の決意もどこへやら、自分が育った環境と殆ど変わらない、会話の少ない家庭になってしまっています。
「こんなつもりじゃなかったのになー」というような毎日になってしまう人も多いことでしょう。会話がないから、相手のこと、奥さんやご主人のことを推測で推し量っていきます。
「きっとこうなんだろう」、「きっと、こう思っているはずだ」、この思いが実際の相手の思いとどんどんずれて行っていることに気づくのは、きっと何かの事件が起こった時になるのかも知れません。
20年、30年と作り続けてきた自分の癖、習慣、それに対してちょっと決意をしたからと言って、そんなに簡単に変えられるものではないんですよ、ね。どうしたらいいかも分からないですよ、ね?
でも、どうしたらいいのでしょうか?
それは次回のテーマになるのですが、もう少し、育ちという環境が、子供の人生、性格にどのような影響があるかを見て、それから解決法を模索してみたいと思います。原因が分からないで、闇雲に解決法に突き進んでも、きっと、あらぬ方向に進んでしまうかも知れませんから。
会話の少ない家庭に生まれた人がどのように育つかの一例
先ほど私は、自分の育った家庭が、会話のない家庭であったと書きました。
こんな家庭に育った人は、いったいどのような大人に育つのでしょうか?
極端な例かもしれませんが、私のことを例題として書いてみたいと思います。この例題は、こんな育ち方もあるということで、100%私の生い立ちということではないことをお断りしておきます。
私の母は、家族の世話のため、一日中炊事、洗濯、掃除をしていたのではないかという気がします。
私の小さい頃はそろそろ洗濯機が出始めましたが、脱水はローラー式で手回しハンドルがついていました。洗濯機の機能はただ回すだけ、すすぎは排水をして水を入れ、また回すということを人間がやっていました。
炊飯器も出始めの頃で、記憶をたどると、自動でスイッチが切れる物ではなく、吹き出したのを見計らって人がスイッチを切るという代物で、切り忘れると焦げ付いてしまうようなものでした。
当然それが出始める前は、かまどで薪や練炭を使用して13人分のご飯を炊き、おかず(ガスコンロは普通に普及していました)を作り、13人分の洗濯をたらいと洗濯板でやっていたようであります(叔父叔母一家の洗濯は彼らがやっていたと思います)。とてもとても、一人で出来る仕事量ではなかったことでしょう。
更に父は家で自営の鉄工所の仕事をしていたために、母は昼ご飯にも手を抜くことが出来ず、とても子供たちに手間をかけるということは出来なかったようであります。
私の記憶をたどっても、幼い頃から二階の広い部屋で一人、本を読んだり、つけっぱなしのラジオを聞いていたりしていた記憶がほとんどで、父母と会話をしたり、兄弟で遊んだ記憶も数えるほどしかありません。
こんな子供はどのように育つかといいますと、100%とは言いませんが、ほぼ間違いなく、自己中心に育ってしまうようであります。
分別、良い・悪いの判断はどのように育つのか?
幼いときはものの善悪が分かりません。だから、欲しい物があると盗むという事を悪いことだと認識をしないままに、その欲しい物を手にしてしまいます。この頃はまだ良いのです。善悪の認識がないから、その行為を隠そうとせず、堂々とするからです。
だから人の目に留まります。ほとんどの人はお母さん、お父さんの目に留まります。人づてに父母に伝わることも多いでしょう。こういう人は幸いです。父母によってその叱り方は様々でしょうが、子供は二度と盗みはいけないことだと心に深く認識します。
でも、父母の目の届かないところで育った子供はどうなるでしょう。盗みをしても見つからなかったとします。でも、盗みが悪いことだと思っていないために、盗みにも余り執着していないのでしょう、何かに満足したら、続いて盗みをしようなどと考えることはありません。
しかし、周囲の友達なんかの行動、話を聞いて、盗みをするとこっぴどく叱られるんだという知識を身につけます。盗みは悪いことだという認識をします。
ところが実体験ではないために、盗みをしてはいけないという、正しい方向に思いが進まないで、見つかったら大変なんだ、叱られるんだという方向に思考が曲がっていくことも多いのではないのでしょうか?
親との会話がほとんどない子供は、自分の幼い頭で考えざるを得ませんから、わざわざ茨の道を選択しません。自分だけが心地よい、気持ちよい、楽しい楽な方向に考えることが中心になってしまいます。
「オモチャが欲しい」「しかしお金はない」「盗みをすると叱られる」「それでもオモチャは欲しい」「よ~し、見つからないようにしよう」という方向に思考が曲がっていってしまいます。人のことは全く考えられない、自分中心、自分さえ良ければよいという方向に考える子供が出来上がってしまいます。
どこかで歯止めが効いたら良いんですが、誰からも咎められない、誰にも見つからない、家に帰っても親子の会話がない、だからオモチャを手に入れたことも喋らない、そんな不幸な環境で育ってしまった子供は、大人になると、どんな人物になっていくのでしょうか?
普通というと語弊があるかも知れませんが、子供は幼稚園での出来事、小学校での出来事を、帰ったら直ぐさまお母さんに話すことでしょう。
「○○君とこんなことがあった」と子供が話すとお母さんは、「その時○○君は辛かったんじゃない? もっと優しい言葉をかけて上げたら○○君も嬉しかったんじゃない?」等と言われると、子供は自分では考えつかない知恵をドンドン吸収していくことでしょう。
幼稚園や学校から帰ってきたときにお母さんがいない家庭はきっと、夕飯を一緒に食べたとしても、帰ってきたときの「こんなことも話そう」「あれも話そう」と思っていた話題の花が萎んでしまっているのではないでしょうか? 恐らく聞かれたことだけを話すように。
分別、そして子供の正しい心の成長のためには、お母さんが家にいて子供を全面的に受け止めて上げる、そしてその上での親子の会話が大きな大きな、そして大切な土壌であるということが言えるのではないでしょうか?
人はどんな家庭を望むのか?
このような会話の少ない家庭で育った子供は、他所の温かそうな家庭を見たり、テレビのホームドラマを見たりして、そういう温かい家庭を望みます。
自分が結婚したらきっと、そのような家庭を作るんだ、と。
そう思った方、決心された方もたくさん居られると思いますが、ほとんどの方は自分が理想とした思い通りの家庭が築けていないのではないのでしょうか?
自分が経験してきた暗いとまでは言わないが、何か温かみに欠ける自分の育った家庭、必要な会話しかしない、理想とした家庭とは何か違う、いつの間にかそんな家庭になってしまっていることに気づいて愕然とすることでしょう。
結婚して何年も経つと、問題が起こらないから、微妙な関係でバランスを保っている、何か問題が起これば火を噴くことは何となく分かっている、そんな家庭に、いつの間にか成ってしまっています。
でもどうしたらいいのかが分からないんです。
結婚した当初はあんなに希望に燃えていたのに、いつの間にかその火も消えかかり、燃料を足そうという努力もいつか忘れ去ろうとしています。そもそも、燃料を足す、その燃料とは何を意味するのか、どうしたらいいのか、それすらも分かってはいないと言えるのではないでしょうか?
この世には、“原因結果の法則”というものが厳としてある
髙橋信次先生は、「原因、結果の法則」「因果律」「作用、反作用の法則」ということをお教え下さっています。
『ものにはすべて原因と結果というものがあります。苦しみや悲しみ、病気にしても、そこには必ず原因があるものです。そこで、その結果を修正するには、まず原因を追及し、その原因を正道に戻さなければなりません。原因をそのままにしておいては、結果の好転は望むべくもないのです。いびつな心が不調和な結果を生み出しているのですから、本来のまるく大きな心にすべく、その原因を、正道という物差しによって一つ一つチェックし、以後そのような原因を作らないように努力することです』
ここで言う結果は、言わずも知れた、いま私たちが苦しんでいる家庭の不調和です。会話のない家庭です。問題は表面化していないかもしれませんが、ひとたび何か事が起これば、すぐに瓦解してしまいそうな不安定な家庭です。辛うじて微妙なバランスで保たれている家庭状況です。
微妙なバランスとは、取り立てて言うような問題が持ち上がっていないという、そのことだけです。何かの問題が発生してしまったら、このバランスが崩れ、目に見える亀裂が走ってしまうかも知れません。
その原因は何でしょうか?
その第一の原因は、夫婦、親子に会話がないからです。
ここで言う会話は、お互いがお互いを思いやった上に立った会話であり、怒鳴り合いのような言葉のやりとりを言っているのではないことはお分かりいただけると思います。
一組の男女がお互いが大好きになって結婚し、その結晶としての子供も生まれ、暖かい会話に溢れた家庭が築けていても良いはずなのに、何故に夫婦、親子の会話のない家庭になってしまったのでしょう?
それは、その夫婦、男女の育った家庭に原因があったと言えるでしょう。その原因とは、その育った家庭に、暖かい会話がなかったからであると言えるでしょう。
これこそが前述の、「20年も30年も、明るい家庭や笑いのある家庭にする努力を一つもせずに、そんな意識を持つこともなかった人が、いざ結婚したからと言って、そんな家庭が築けるはずがないではありませんか?」ということに帰結するのであります。
ただ、そんな家庭に育っても、奇跡的に明るい会話術を身につけている方もいらっしゃることでしょう。でもそれはやはり奇跡的であると言わざるを得ないでしょう。
人間はどうしても環境に左右されてしまいます。特に分別の少ない幼い子供はそうならざるを得ないのではないでしょうか。
では、暖かい会話のある家庭に育たなかった人は、そのような家庭を築くことは出来ないのか?という声が聞こえてきそうですが、そんなことはありません。ただ、どうすればいいのかということを踏まえての努力が必要ということであります。それが今回のブログのテーマです。
次回は、このような方が始めるべき第一歩について投稿してみたいと思っています。
ただ、この一連の投稿は、最後まで出来上がった状態で、順次投稿をしている訳ではありませんので、一応大まかなストーリーは頭の中では出来てはいるのですが、書き綴っていく内にカーブがかかったり、シュートになったり変化していきますので、思い描いている通りには行かないようです。
また、投稿も、出来上がり次第ということになりますので、他の投稿が入り込んだりすることもあり、不定期ということになりそうでありますことをご了承下さい。