幸せの条件は、嫌なことに焦点を合わせずに、嬉しいこと、有り難いことに焦点を当てること

世の中には理不尽と思える出来事も沢山あります

 例えば、無実の罪で監獄に何年も何十年も監禁された方もいらっしゃることでしょう。でも、無実が認められて解放された方もいらっしゃるようです。

 不幸にして幼い子供若しくは小中学生が誘拐されて、何ヶ月も何年も探しあぐねても見つからなかったのが、ある日忽然とご両親の元に奇跡のように戻ってこられた方もいらっしゃるようです。

 医者の医療ミスにより、生死の境をさまよい、何日も何日も意識不明が続いたその後に、峠を乗り越えて回復された方もいらっしゃることでしょう。

 どんな方もその苦しみの最中は、必死の思いでおられたことでしょう。神仏を信じない人も神様に祈られたことでしょう。関係する方々に、協力を必死でお願いされたことでしょう。他には何も要らない、元に戻ってくれさえすればそれでいいと、心底思われたことでしょう。

 悲しいことに、例えば上記のような例の場合でも、無実のまま監獄の中で死に行かれる方もいらっしゃることでしょう。誘拐された幼い子供がもの言わず帰ってこられる場合もあることでしょう。医療ミスの結果、病院のベッドで永遠の別れをされる方もいらっしゃることでしょう。

 そのような方々のご冥福をお祈りいたします。

 でも、ある方々は、奇跡的に元の状態に復帰される方、された方もいらっしゃいます。

 そのような方々は、どんな方々も一様に、深い深い感謝の言葉を述べられます。周囲の人間も、テレビや新聞で知った人々も、みんな「良かった」と悦びを共有されることでしょう。

 しかし、それから数日経つと、新聞やテレビで報道される内容は、「無実の罪をでっち上げた警察・検察への非難」「幼い子を拉致した犯人への憎しみ」「医療ミスをした医師への賠償請求」というような、お救いいただいた感謝とは、かなり掛け離れたものに変化していくようです。

 どれだけ辛い思いをしたか、自分を不幸のどん底に落としたその当事者に怒りをぶつけます。たくさんの人の共感を得るために、本当にあったことではあるのでしょうが、煮えくりかえるような苦しみの思いを表現されます。

 でもそれで被害者であった自分は、幸せになれると思っておられるのでしょうか? そんな認識、考えは全くないのかも知れませんね?

 『他には何も要らない、元に戻ってくれさえすればそれでいい』と心底思われた、あの思いは、どこへ行ってしまったんでしょうか?

 マスコミは、これらの方々の「その後」を報道することは少ないようです。だからその実態を捉えることは出来ませんが、この方々が幸せに、明るく笑いのある、和やかな家庭で暮らしておられるとは毛頭、思えないのです。何故なら一昔前は、私もその側の人間だったからです。

高橋信次先生のご著書からの引用

 高橋信次先生のご著書に、次のような物語(実話)が記されています。長文ですがお読み下されば幸いです。

白髪の盲目の老婆の憑依霊

 『三十代の青年が、私の前に坐る。

 私が見ると、この青年は、完全に地獄霊に支配されている。白髪の老婆が、この青年に憑依しているのであった。

 青年は、無言のまま合掌をしている。

 「あなたは、この男性に憑依して狂わせているが、とんでもないことだ。あなたは、井戸に入って自殺しているが、なぜ自分の生命を断ったのか。理由があるならば、答えなさい」

 私は、憑依霊にそういった。そしてすぐ、青年の肉体を支配してしまった。

 憑依霊は悲鳴を上げていった。

 「わては、寒いところで苦しんでいる。助けてくんなはれ。眼も見えんし、苦しいのや。しかしなあ……わては人間を恨んでいるんやで……あの家を呪っているんや……この男もなあ、同じ目に合わせてやるんや」

 慈悲も愛もない言葉である。私は、続けた。

 「あなたは、なぜ冷寒地獄にいるか解かりますか。あなたは、人を恨み、世を恨み、自分自身も恨んで井戸に入って自殺をしたが、生前あなたは、人に慈悲や愛を求めはしたが、他人にそれを与えたことがありますか。感謝の念など全くなかったではないか」

 「何をいってまんね。わては盲目だす。盲目……に何ができまっか。盲目のために、生きる望みがなかったんだす。……悪いことなど何もしたことはあらへんのに、なぜ地獄におらなあかんのや。苦しまなならんのや。神も仏もあらへんがな……」

 自分の悪いことは棚に上げて、一切盲目という肉体舟の欠陥のせいにしている。そのため心まで暗くしてしまっている哀れな地獄霊である。地獄霊はさらにいう。

 「おまはん、わてが悪いのだというたが、どこが悪いんだす。神があり仏があるなら、この目治してくれたらいいやろ。目が治ればこの男から離れてやるで。どうなんや、治すか、治さんか……」

 頼んでいるのか、ののしっているのか解からない。自分のことしか考えないのが地獄霊の哀れな姿なのである。

盲目を治してくれたら憑依しないという霊の目を治すが・・・

 「よし、あなたの眼が見えるようになったら、神仏を信じ、自分の間違いを反省して、今この男性から離れ、井戸と家族への執着を捨てて、暖かい世界に帰るか」

 私は、この哀れな地獄霊をも救ってやろうとして、そういった。そして、

 「では、あなたのいう通りにしてやろう。大宇宙、大神霊仏よ、この哀れな霊に光りをお与え下さい」

 と、心から念じ、神の光りを、私の掌を通して入れると、同時に、「ああ……見えた……見えた……光りがある……わあ……見えた……」

 と、憑依霊は叫び声を上げた。永い間、心にも肉体にも光りを失っていた老婆が、死後も冷たい暗い世界で苦しみ続けていた人が、今ようやく光りを得たのである。

 しかし、光りが見えるようになればなったで感謝の心を忘れてしまう。これが、地獄に随ち
ている人々の常だ。

 この老婆も、のどもとすぎて熱さを忘れて、

 「わてが眼の見えないときに馬鹿にしおった奴らに、復讐せにゃならん。わては、眼が見えるようになったんや。わてを阿呆にしくさったもんはここへきなはれ。ほんま、憎んでも憎み足りん……お前達も同じや、この阿呆め……」

 遂に、私にも毒づき始めた。そのとき、青年の形相は地獄霊の老婆に似てきた。

 恨み、妬みの想念は、本当に現象化するのだ。この青年も、そうした心があるために、地獄霊に支配されているのである。

 心のダイヤルが、その人の心の状態に応じた世界の霊にコンタクトされる、ということだ。類は友を呼ぶ法則は、私達の心の世界にもはっきりと現われてくるものだ、といえよう。

 科学を超越したところに宗教が存在するのではなく、宗教と科学も不二一体なのだ。

再び目の光を失う老婆

 老婆の地獄霊は、ますます威張り出して、いいたい放題のことをいう。

 このままでは、青年のためにも、憑依霊の老婆のためにも良くないことである。

 「老婆よ、あなたは、神仏の慈愛によって、光りが見えるようになったのだ。お前には、感謝の心はないのか」

 「何いうてんのや。治ってしまえばこっちゃのもんや。おまはんに何のかかわりがあるやろか。余分なことはいわんほうが、身のためだっせ」

 自己保存、自我我欲の、ひとりよがりの考え方の典型である。地獄霊とはそうしたものであり、その世界には愛も慈悲もないからである。

 このような心ない者に対しては、ときにはきびしさを与えることも愛だといえよう。

 私はそこで、
 「老婆よ、お前のような心ない者は、もとのように盲目になったほうが良かろう。きびしい冷寒地獄で、もう一度、自らを反省する機会を与えよう。神よ、この哀れなる老婆から、もう一度光りをとり給え」
 といった。瞬時に、老婆はもとの盲目になってしまった。

 「お……お……寒い。……お……お……寒い……お……」

 あれだけ大口をたたいていた老婆が、口を開いたまま、また盲目となり、闇の世界に戻ってしまったのである。

 「タ……ス……ケ……テ……」
 というのが精一杯であった。私はいった。

自分の思いと行いを反省する老婆

 「老婆、お前は、今のような暗黒の世界で暮らしたいのであろう。それとも、心を入れ換えて、今までの間違いを正すか……どうする」

 青年の姿を借りた老婆の憑依霊は、遂に合掌し、首を縦にふりながら、命乞いでもするかのように、畳の上に額をすりつけて、哀願するのであった。

 今度は、心から謝罪しているようだ。

 私は、再び、守護霊を通して、神に祈った。

 「神よ、この哀れな老婆の罪をお許し下さい。心に安らぎをお与え下さい……」

 ようやく、老婆も、神の子としての本性に目覚めたようである。涙を流して神を祈った。

 「神様、仏様、わてが悪かった……お許し下され、……醜いわての心を、わてのド根性でなおしてみせます……ほんま、許しておくんなはれ……」

 自らの誤りを修正しようとし始めている。

 一座の人も感にたえたように、その変化をみつめていた。

 たとえ、地獄霊であっても、神の子なのである。ただ、正しい、生活の基礎が解からないために、彼らの心自身が、不調和な領域を造り出しているのである。

 だから、自らの心が眼覚めれば、悟ることは、人間よりも早いのである。それは、意識が、九十%も表面に出ているからである。

 何の疑問も持てない現象が、自分に現われてしまうのである。

 憑依霊は、心から反省するのであった。

 「まことにすまんかつたなあ……わては、今まで間違ってたんや……許しておくんなはれ……この男から離れるわ……おまはん、勘忍だつせ……許しておくんなはれや……」

 憑依霊は、私にも青年にも心から詑び、遂に天上界に帰って行った――』
 (高橋信次先生著:心の発見(現証編)より)

この老婆のように救いを受けられた方が、安楽になると豹変される?

 この老婆は、お救いをいただいたにもかかわらず、感謝の念を持つこともなく、自分に対して悪意を持った人々に対して、憎しみ、怒りの念を向けたのであります。

 それならば、目が見えるようにならなかった方が良いのだろうと高橋信次先生の慈愛で、また元の盲目に戻されます。そこで初めて、神仏の愛の心に触れ、自分の思いの間違いを悟られたのであります。

 翻って、先述の三例の皆さんは全ての方が、この老婆同様にお救いを受けられたのであります。その当初は深い深い感謝の念を持たれたことでしょう。しかし時間の経過とともに、この老婆と同様に、その不幸に陥れた原因者に怒りや憎しみを向けてしまわれる方が多いようです。

 無罪が勝ち取れたんだから、こっちのもんや。私を無実の罪に陥れた者に復讐せにゃならん。先ず慰謝料や・・・、と。

 誘拐された子供が帰ってきたんだから、こっちのもんや。子供を誘拐した者に復讐せにゃならん。ホンマ、憎んでも憎み足りん。

 医療ミスで死の淵から回復したんやから、こっちのもんや。医療ミスした者からふんだんに慰謝料を取り立てんといかん。何と言っても死にかけたんやから・・・。

 『当たり前じゃないか!』と仰る方もおられると思います。それが今の世の中の常識で、マスコミもそれが当たり前のように報道しております。それが当然の権利であるとして。

 間違っていると言うつもりはありません。

 権利を行使することはその人の自由ですが、それが不幸への落とし穴に繋がっていることもあり得るのではないでしょうか?

 人の幸不幸は、その人の発する思念、常々出している思いが、その人の人生を形作っているということを、私たちは思い起こさなければならないのではないでしょうか?

 更に申し上げますと、三例の方々は、そのような不幸な状況になってしまわれた、それは誠にお気の毒なことだとは思いますが、その原因を誰が創り上げたか? 当然、第三者の加害者だと仰ると思いますが、その加害者は第二原因者であり、第一原因者は自分だということにも気がつかなくてはならないのではないでしょうか?

 逆説的ではありますが、第一原因者が自分だということに気がつかないからこそ、のど元過ぎれば熱さを忘れて、お救いいただいたことを棚上げし、その苦しみの原因となった外部の第三者に対して怒りや憎しみ等の不調和な思いを持ってしまうのでしょう。

人の幸・不幸は、何に思いの焦点を合わせるかで決まる

 この老婆は、高橋信次先生の慈愛により、もう一度盲目に戻るということを通じて、自分の間違いを教えて貰え、自分の心の中に愛・慈悲の心をよみがえらせることが出来ました。

 しかし我々には、そのように、「無実が間違いであったとして、もう一度牢獄に戻される」とか、「別の人に子供が誘拐されてしまった」とか、「更なる医療ミスが発生した」とかいうようなことはなかなか起こりません。

 だから怒りを外に向けることが当たり前のように思ってしまい、如何に感謝の思い、神仏様からお救いをいただいた事に対する感謝の念のないことに気がつかないのでありましょう。

 同じような不幸はなかなか起こりませんが、「仕返しをせにゃならん」「憎んでも憎み足りん」などと考えているということは、それらを引き起こした自分の内部にある原因、火山で言えばマグマは更に膨れあがり、今にも噴きださんと、内部圧力を高めていることでしょう。

 でも恐らく、前の不幸と同じようなことは起こらないでしょう。火山の噴火口がその時々で異なるように、恐らく不幸は、別の形で日の目を見ることになるのでしょう。

 この老婆のように同じ事象がもう一度起こってしまったら、ひょっとしたら自分に原因があるのではないかと思いが及ぶかも知れませんが、全く違う不幸が襲ってきたら、ただ単に、自分の不幸を嘆くだけになってしまうのかも知れませんね。

 無実の罪から解放されて我が家に戻られた人、幼い子を誘拐されて奇跡的に家族全員が一つ屋根の下で暮らせるようになった方、医療ミスから回復されて家族の団らんを迎えられた方、これらの方々が感謝の思いを大きく持たれる一方、もう片方の手で、やれ慰謝料だ、やれ復讐だ、やれ地獄に堕ちろなどと思われている状態で、果たしてその家庭が、穏やかな明るい家庭になり得るのでしょうか?

 お金が全てだから慰謝料は大事なんだと仰る方もいらっしゃるかも知れません。その人の価値観ですから。その人の生き方を否定するものではありません。

 いまの世の中に於ける権利ですから、行使することは各人の自由です。私も過去には当然の権利として、公然と胸を張ってそのようなことをやっておりました。その結果が何を生み出すか、そんなことを考える余裕も持っていなかったと言うべきでありましょう。

 でもそれで本当に幸せでしょうか? 心に安らぎがありますでしょうか? 人間としての心のふれあいを感じることができますでしょうか? そして幸せになれたでしょうか? そんなことを思い浮かべることができたら、こういう行動は取らなくなるのかも知れません。

 無実の罪に問われていた方が取れるだけ慰謝料を取ろうとする思いは、もし奥さんがいらっしゃれば、「お前が信じてくれたから自由になれたよ。有り難う。お前と一緒に暮らせることが一番の幸せだ」というような心境とは程遠いのではないのでしょうか?

 幼い子が奇跡的に帰ってこられた家庭は、「裁判だ、極刑にしろ。地獄に堕ちろ」などと意識を外に向けている暇などないのではないのでしょうか? 失われた何ヶ月、何年間を取り戻すべく、父子、母子の愛の思い、感謝の思いを高めていく努力こそ必要なのではないのでしょうか?

 医療ミスから復帰された方も然りでしょう。全力で治療に専心して下さったお医者様、祈りにも似た思いで日々付き添って下さった家族や周囲の方々、その方々への感謝の思いを心に把持して、自分の周囲を明るい、笑いの絶えない場にすることが救われたことに対する報恩の行為なのではないのでしょうか?

 苦しかった過去のことや、その事象を引き起こした当事者に焦点を合わせ、裁いたり恨んだりするのではなく、お救いを頂いたそのことに、不幸のどん底から助け上げていただいたその感謝の心、思いにこそ、自分の思念の焦点を合わせるべきでありましょう。

 徒に世の風潮に合わせることでもなく、苦しめた当事者に焦点を合わせることでもなく、お救いをいただいたその悦びに焦点を合わせ、その感謝の念を益々膨らませていけば、自分の周囲には本当の安らぎが満ち溢れてくることでしょう。。

 そういう家庭に、不幸の影は忍び寄ってくることはないのではないのでしょうか?

 悦びや幸せは向こうから勝手にやってくるのではありません。ただ、待っているだけでは何も起こるはずがありません。ましてや、恨み、怒り、裁きなどの思いをぶちまけていたら、その反動は推して知るべきなのではないのでしょうか?

 思いはものを造り出す力を持っているとは、よく言われる神理でありましょう。幸せは、自分が得をすることに焦点を合わせることでやってくるのではありません。慰謝料が沢山入ったから幸せだ、そんなものではないでしょう。

 嬉しいこと、有り難いことに焦点を合わせる感謝の思いこそが、幸せを引きつける根源であることを、今一度かみ締めたいと思います。

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