ファミレス・ガストでの出来事
先日、娘や孫と一緒に、昼食にファミレスのガストに行くことになりました。
みんな思い思いにオーダーをし、ドリンクバー(ホットコールドを問わず、お代わり自由の飲み物)を頼むことになりましたが、私の妻だけが要らないと言って断りました。
しかしその後、ウエイトレスが居なくなった途端、「○○ちゃん(娘のこと)が食事の後でコーヒーを持ってきてくれたらいいねん」と言いました。
娘はドリンクバーを頼んでいるのだから、その一環としてコーヒーを入れてきて、それを自分(私の妻)に渡してくれたらいいのだと言うのである。
私は即座に、『ダメ!』と言い、『そんなズッコイことをしてはいけません!』と続けました。
その場はそれだけの会話でしたが、食後、デザートを頼む段になってウエイトレスを呼んだとき、私は『ドリンクバーを追加で一つ』と注文しました。
即座に妻は、「それ、私の分?」と聞きましたので、『そうや』と答えると、「コーヒーやめて、このデザートにするから」と言ったので、追加注文のドリンクバーは結局、取り消すことになりました。
ガストなどではウエイトレスがハンディ端末を持って注文を処理しているので、入力した後の変更はし辛いらしく、後ほど手書きで修正した伝票を持ってきてくれました。
私たちの会話のやり取りはこれだけであったので、孫たちにキチンと伝わったか、もっと分かりやすい解説をして上げた方が良かったのかと思いましたが、後の祭りでした。
『△△ちゃんが(小学校1年生)、本屋で、黙って欲しい本を持ってきてしまいました。ママはキット、「そんなことをしたらダメでしょう? そんなことも分からないの?」と言うでしょう。その時△△ちゃんが「だってこの前ガストで、コーヒーをお金を払わずに飲んでいたじゃない。見つからなければ良いんでしょう?」と言ったら、どう答えるの』とでも言って上げた方が、お祖母ちゃんにも、ママにも、そして取りわけ孫たちにキチンと伝わったかな、と思ってしまいます。
子供は親の鏡
高橋信次先生は次のように言っておられます。
「子どもは親の鏡といわれるぐらい、子どもにとって親の影響は絶大である。
子どもの心は白紙であり、親の在り方いかんで、子どもは右にも左にも動かすことができる。
要はその子どもが、自分にめざめ、自分の意思で動き始めた時に、これまでの、親の生活態度が子どもの心にハッキリと残され、さまざまな人生を歩むことになるのである。
子どもの心は、良い悪いにかかわらず、それに染まりやすく、成人後の性格を形作ってしまう」
例えば親が用事をしているときに、「一緒に遊んで」と子供が言ってくる場合、手を休めて行って上げると良いんですけれど、「これが終わるまで待ってくれる?」とか、「一寸待ってね」と、ついつい言ってしまい勝ちになります。
そうすると今度は子供も同じように、お父さんお母さんが「話があるから一寸来てくれない」と声をかけても、「これ、してから」とか、「後で行く」という言葉も、親を真似て出るようにもなってきたりします。まさしく、親が自覚するかしないかは別として、子どもは親を鏡のように映し出していると言うことが出来ます。
心の本質、実態が見えないものですから、子供は少しずつ、少しずつなんですよね、愛情にしても、このような態度にしても、少しずつ少しずつ心に蓄積されていくんですね。
親だけでなく、周りの人に一杯一杯愛されて育った子供は、本当に順調に育っていきますけれども、愛情が不足してくるとどうしても、子供の頃から寂しいとか辛いとか、いつも一人ぼっちで寂しいなと、そういう風にずっと育っていきます。そうしますと、親でさえ心を開いてくれないのに、他人が開いてくれるのか、という風にもなってきます。
そういう部分が影響してくると、親に話せないというか、ツーカーで話せない子供は矢っ張り、他人ともツーカーでは話せないですね。どうしても、これは親には言えるけれど、これは言えないとか、そういう風にもなってくるわけです。
また、奥様が勤めに出ますと、家事などもこなしていることはこなしているとしても、心の方ではお子さんに向く機会が少なくなります。仕事をしているから、その分、家に帰ってきたら家事もして、もう余裕がそんなにありませんから、そうするとお子さんは、お母さんの背中をいつも見ている感じになるわけです。
いつも一人で遊んで、まあ、お母さんが手が空いたら、「じゃあ、○○ちゃん、一緒に遊びましょうか?」という風になればまだ良いんですが、お母さんもテレビも見たいし、雑誌も読みたい、お父さんとも会話したいという風になると、矢っ張りお子さんに使われる時間は少なくなってきます。
それぞれの経済情勢とか考え方とか色々ありますから、「そうは言っても」ということになり勝ちなんですけれど、基本はそうされた方が、お子さんの心を上手く、丸く、大きく、豊かにするには、それが一番良いんですよね。
ですから三歳までが一番の基礎になるわけですけれど、次は五歳だとか八歳だとか、また段階があるわけです。
だからといって、「じゃあ、自分は今まで充分な愛情を与えていたんだろうか? 夫婦の調和もちゃんと出来ていなかったような気がする」と思っても、今からでも充分修正は出来ますから、「今、こうしよう」と思った時が、いつでも変えていける時ですからね。
それぐらい、親の愛情というのは大事だということです、子供の生きる源になっているわけですから。
親は子供にとって、神と同じなんじゃないでしょうか。子供はこの世の中のことは何も分からないわけですから、頼る術は親だけです。愛を貰うのも、すべてが親になるわけです。
そういう意味で私たちも、「お母さんに対して寂しいという思いを持ってたな」「お父さんにもっと、こうしてほしいと思ってたな」「お父さんのこういうところが嫌だった」「お母さんのこういうところが嫌だった」、その引っ掛かりが自分の歪みを作っている部分もあるわけです。
お父さん、お母さんが子どもの出発点
私なども、自分の子供の頃を思い出してみたら、やっぱり父・母が出発点になっているなって思いますね。
幼い子どもにとっての世界は特に、家族が自分の大きな世界になってしまいます。外の世界を知らないわけですから、その最初のつながりのお父さんお母さんに対して、自分がどのように思うのか?
いっぱい愛情を受けた子供は、親に対してもわだかまりもないし、信頼もしてるし、不安も何もないから、生き生きしてきます。
ところがそこで関係が上手く行ってないと、子供は親の顔色を見たり、子供の頃から色々と思い煩うことが出てくるわけです。
子供は、「寂しい」とか、「お母さん、こっち向いて」とか、「お父さん、どうして見てくれないの?」「私が嫌いだから?」「私が可愛くないの?」 、子供はこのような言葉にしか、あまり心を動かさないわけです。
だから公園なんかで一人で遊んでいる子供は、お母さんやお父さんに一緒に遊んで貰ってる子が羨ましいんです。自分もそういう風にして貰いたいのに、「あの子は何で!」っていう風になってしまいます。そのようなことが、すべり台に乗せてあげないとかの意地悪に繋がったりもするわけです。
そんな、赤の他人の母親であっても、そこで話しかけて貰ったりすると、自分の母親に言いたいこと、聞いて貰いたいことをお話しするようになります。下らないことでも何でも、子供にしたら大きいことなんです。
親は、そんな怪獣がどうだとか、今日の学校であったこと、それが別段自分には、忙しいときにはどうでも良いことに思えますよね。ところが子供の世界では、ものすごく重要なことなんです。
誰々さんと遊んだ、学校でこんなことをしたとか、自分のその日の一日にしたことの悦び、一番心につかえてるものから子供は話をしていきますから、それを聞いて貰えないのは、自分を拒否されたように感じてしまうのです。
だから、自分が愛されてると思って育った子は、いつも不安も不満もないわけです。何かこっちで嫌なことがあっても、お父さん、お母さんが受け止めてくれるっていう思いになりますからね。
ですから、帰れる場所があるというか、安心感がいつもありますから、意地悪されても気にしなかったりという風になるわけですけれども、心が埋まっていない、愛情で満たされていない子は、どこかマイナス的なものを引き出すことになります。
空気でパンパンに膨れあがったボールは何があっても弾んでいますが、パンパンでないボールは蹴られると、ペシャっとへしゃげてしまいます。これと同じように、愛情でパンパンに膨れあがった子供は、少々意地悪されたぐらいで落ち込んだりしないんですよね。
イジメも、いじめる子が悪いと思われがちですが、いじめられたと思っている子供の親の日々の思いと行いが、導火線になっていることも多分にあるわけですよね。
私たちも、例えば人を信じられないだとか、疑り深いとかそういうものを持っているとしたら、子供の頃のお父さん、お母さんとの関係を見てみたら、必ずそこに原因があるということが分かるのではないでしょうか。
子供が母親に、「ねえねえ、これして」と呼びかけてるのに、「今、忙しいから待ってて」とか、「今、これしてるから」って言われると、「どうして?」っていう思いになりますでしょう?
それが積み重なっていくと、また、「してくれるかどうか分からない。お母さんに言っても、いいかな?」っていう風になります。そうしますと、「いつ、お母さんに言っても大丈夫!」というのではなく、「お母さん、今、これしてるからダメかな?」、「今、座ってるから、言っても大丈夫かな?」、「今、お母さん、お茶飲んでるから、言っても良いかな?」と、子供は親の状況を見て、状況を把握していくようになります。
でも、そのお母さんが例えば、憩いの場でお茶を飲んでいるときに、「今なら良いんじゃないかな?」と思って言ったとしても、「後で。今、お母さん、休憩でお茶飲んでるでしょう!」とか言われたら、又ショックを受けるわけです。
強い言葉だから子供の心に刺さるということではありません。「今、お母さん、休憩中でお茶を飲んでるのよ。もう少し後でね」と言われても、子供の心には同じように刺さるのです。
そうすると段々、親に対する信頼感が薄れていくんです。「ああ、お母さんに又、拒否された」と。子供は分からないわけですからね、お母さんがその前にどれだけ忙しかったとか、どういう状況下にいたかということも。
ですからそこの部分で、手を止めて、「な~に」って聞けるぐらいの心の余裕があれば良いんですけれども、なかなか思いっきり子供さんと遊べない、若しくは遊んでいても、色んなことが気にかかって、お子さんに100%心が向かない、そうすると子供はそれとなく感じたりするわけです。
そういう一つ一つの積み重ねが子供の心を形成していくようになるということです。
ですから理想は、奥さんは、子供が生まれる前から自宅に出来るだけ居るようにして、子供が生まれたら、専業主婦になって、子供といっぱい時間が過ごせるお母さんになって上げるのが一番いい形なんですけれども、事情も色々あって、出来ないご家庭もありますからね。
子供の実感
そういうふうに、子供との時間が余りうまく作れない家庭の子供は、オモチャも与えて貰っているし、洋服もいいものを着せてあげたりしていても、心が満たされてないですよね。お母さんに愛されてる、お父さんに愛されているという実感がない。
子供の実感って何でしょう? 子供の話を聞いてくれる、自分を見てくれている、これが実感です。些細なことから大きいことまで、その積み重ねになるわけです。
天上界から地上に降りてくる子供たちは、親を頼ってくるわけです。地上に慣れていくために、自分の心磨きをするためにもそうですけれど、親を頼って下生するわけです。
ですから親に裏切られるというふうに思ってしまうと、親は裏切っているつもりはないんですが、ただ親は自分はこれをしたいという感じでいるだけなんですが、子供にとっては一つ一つが凄く傷つけられるんです。
特に兄妹がいると、比較してしまうんです。○○ちゃんにはして上げているのに、僕は、とか、私は、とかいうようにもなってしまいます。
まあ、それを伝えられる子であったら、親とのコミュニケーションも出来てきますけれども、言葉をなかなか言わない子だと、親は、何も言わない子だから、「この子はこういう子なんだ。温和しい子供なんだ」と思ってしまいます。自分たちがそんな子供にしてしまっているとは思わずに。
子供は三つまで、自分の心を自由に表すそうです。だから、何が良いか悪いか分からないときは、自分の思いでいっぱいです。良い悪いは分からず、自分の思いを素直に伝える、三歳までというのは、そういう状況の時です。
どんな親でもそうですけれど、親は一生懸命、子供に愛情をかけていると思っていますが、子供の方は、期待とか親に対する愛が強い分、何々されたとか、して貰えなかったという思いが残ります。
だから親がそれをちゃんと分かっていれば、フォローできるんですけれども、お母さんがお子さんに対して接する期間が長いので、お母さんがどのようにお子さんと関わっていくかで、子供の心が大きくなったり小さくなったり、カルマを形成するということにも繋がっていきます。
いつもお子さんがどのような心でいるのか、どのような心の信号を出しているのか、それをいつも敏感に察知されたらいいわけですけれどもね。やっぱり、お父さんお母さんが大好きな子は、大人になっても、お父さんお母さんの近くにいることが多いですね。
お父さんお母さんに愛情をいっぱい貰ったお子さんは、お父さんお母さんをいつも案じておられますし、いつも側にいたい、あまり離れられないというか、状況が整えば近くに住みたいという風になっていきます。
行き着くところは夫婦の調和、そして止観(想念観察)
本当は、私たち大人は子供を預かってるということですから、身体を大きくすることだけが目的ではなくて、心を大きくして上げる、そのお手伝いをさせていただくのが親の役割でなければおかしいですよね。
それを理解すれば良いんですけれども、なかなかお母さんもお父さんも一人の人間ですから、色々やりたいこともあるわけでしょうし、僕も、私も休みたいわ、楽をしたいわ、という気になっていきます。
ご主人も、お母さんと子供が遊んでいて、御飯の仕度が遅くなった、掃除が出来ていないときなどに、「それほど楽しく遊んでたんやね。良かったね」と言えるぐらいのご主人だったらお母さんも心が安定して、いいんですけどね。
やはり夫婦間が上手くいかれていないところは、「何故御飯作ってないんや?」という風になっていって、「夢中で遊んでいてごめんね。今から作るから・・・」とかいう風になると、お母さんも「そんなこと言ったって」という思いになり、その波動で子供と接するようになりますからね。
ですから夫婦の調和といいますか、それが子供の性格にも形成されていくということになるわけです。その辺は、お父さんもお母さんも修行ですね。
ですからいつも子供の立場に立って考えて上げられるように、それ位、子供の方に心を向けられていけば、子供は悪い方には絶対行きません。明るく、伸び伸びした優しい子供に育っていくのは法則みたいなものです。
私たちも、大人になった今、何か満たされないという思いがあったら、それを遡っていけば、両親に当たると思うんですね。両親がほとんど鍵になっていますから、両親の反省が大事というのは、そういうことに繋がっていくんですね。
「悪いこと」とは? そして止観
冒頭のドリンクバーのコーヒーの件も、ほんの些細なことかも知れません
でも、200円のコーヒーも、千円の本も、何百万何千万円の家も、一緒ですよね。金額が大きい、小さいはありません。ズルはしたらいけません。子供は金額を見て真似するのではなく、見事にそのエッセンスを真似するのです。
私たちは無意識に、そんなに悪いことだなどと思わずに、自分にとって都合が良いとか得をするいう理由で、自己保存の思いで悪いことをしてしまいます。
悪いこととは、どういうでしょう?
本来は、善なる心の目で、神の目で見て、「いけないことはいけない」ということになるのでしょうが、それなら善なる心って、神の目で見たらって、ということになると、なかなかに難しいものがあるかもしれませんね。そこで、「人に見られていたら、やらないことはしない」というのが、一つの目安になるかも知れません。
しかし、これもそんなに簡単に出来ることではありません。日々の努力が必要になってくることでしょう。
私の奥さんは、愛深い人です。私と比較すると、格段に愛深い人です。そして、間違いなく善人です。
その奥さんにして無意識に、悪いことであるという意識もないままに、冒頭のような言葉を口にしてしまうのです。これが500円、1,000円のものであればキット、ブレーキが掛かったことでありましょう。
「人に見られていたら、しない」という理性のブレーキと共に、それを働かせるための止観(想念観察)、常に自分の思いを止まって観る、このことの重要性も再認識し、実行に移さなければならないでしょう。
それが結局、子供がすくすくと育っていくことに繋がっていくのでしょうから。
追記
今ひとつ、追記したいことがあります。
例えば車の中の芳香剤。
個人の好みだから、その好みをとやかく言うつもりはありません。
しかし、その匂いがしてきたとき、子供にとって、初めての経験だとしたら、親がどんな言葉を発するかは、極めて重要だということはお分かりいただけると思います。
嫌な匂いを良い匂いだと言えと言っているのではありません。無意識に出す親の言葉に、真っ白な子供の心は、100%近い確率で、染められてしまうということを言っているのです。
良い匂い、と言ったとしたら、子供の心にはきっと、この匂いは良い匂いなんだと刻み込まれることでしょう。
食べ物の好き嫌いも、大いに影響があることでしょう。
例えば子供の嫌いそうなピーマンなどを初めて食べたとき、親がどんな言葉、態度で接するか、その子の一生のピーマンの好き嫌いをも決めてしまうのかもしれませんね。
嫌な匂いを良い匂いと言えだとか、嫌いな食べ物を美味しいと言えなどという気持ちはありません。
ただ貴方の言葉によって、愛する子供の思いが染められてしまうということを、理解していただきたいのです。
取り止めのないブログになってしまいましたが、意のあるところを汲んでいただけましたら幸いです。