韓国の応募工訴訟を例題として、『正しく見る』『正しく思う』を考察

エピローグ

 私は正法に帰依して、早15年を過ぎようとしております。

 最初の頃、ご指導いただいた丸山弘先生から、ある私の発表を通じて、
 『あなたの発表は間違いではないが、まだまだ観念の域を出ていません。

 正しく見るとはどのようなことか、正しく思うとはどのようなことか、ということを法に依った勉強をもっとなさったらよいと思います。観念論だけではダメです』
 というご指導をいただきました。

 勇躍、私は、ご著書を全部ひっくり返し、「正しく見る」「正しく思う」について書かれてある部分をすべて抜き出し、小雑誌にして、毎日のご著書拝読の一環として、恐らく十年あまりの間、拝読し続けてきました。

 しかしながら、大雑把な思いとしては、「正しく見たことを、正しく思う」ということだろう、正しく見るということと正しく思うということはほぼ同じことを言っているのだろうという、何とも申し訳のないレベルの理解をしておりました。

 まさしく、ご著書の拝読が正しく出来ていなかった、ご著書拝読は単なる習慣でしかなかった、字面を目で追っているだけではなかったのかという思いがいたしました。

 そのきっかけは、連日、新聞、テレビ、ネットを騒がしている、応募工問題を初めとした、韓国並びに主だった日本メディアの日本への攻撃でありました。 

 新聞、テレビは、完全に極端に走っていて、日本を貶めるモノとして、ほとんど見ませんでした。

 ネットに真実があるような気がして、そこの情報をたくさん見聞きしましたが、大きな流れは先述のメディアの日本を貶めるようなものとは異なり、日本の肩を持つものが主体ではありましたが、その肩の持ち方も千差万別、感情に任せたものから理路整然としたものまで多岐に亘っていました。

 一緒に賛同してしまうもの、それは違うだろうと感情に任せて非難してしまうもの、記事、動画によって、思いは様々に動きました。 

 ここで私は、ふと、疑問を感じました。

 このような態度が正しく見る、正しく思うということでは決してないだろう、大きくかけ離れているであろう、と。

 しからば、この韓国の応募工問題に関して、正しく見る、正しく思うとは。一体、どういう態度なのであろうかと、一から学修をし直さなければならないと思うようになりました。

『正しく見ること』『正しく思うこと』はご著書にどう説明されているか?


【正見・正しく見るとは?】(一部のみ抜粋)

・ものを正しく見るには、まず、自己の立場を捨て第三者の立場でモノを眺めることです。自分中心にものを見るからそこに偏見が生まれ、邪見になってゆくのです
・この地上界の事象、現れの姿は結果なのです。
 まず現れている結果を見たならば、その原因について、掘り下げてゆくことが「正見」のポイントです。

 これを極端に要約しますと、
①自己の立場を捨て、第三者の立場でモノを眺める。
②事象・結果を見たならば、その原因を掘り下げていくこと。

【正思・正しく思うとは?】(一部のみ抜粋)

・正しく思えないのは、自分の心にわだかまりがあるからです。
 怒りや憎しみ、しっと、愚痴、欲望がありますと、心がそれにほんろうされ、正しくものを思うことができなくなります。
 正しい思いとは、慈悲と愛しかありません。
・正思の重要なことは、第三者の立場に立って考え、思うことなのです。
 相手の立場、相手の幸せを考え、調和を目的とした思いが大事なのです。
 話し合ってもうまくゆかず、自分の非がどうしても認められない場合は、相手のために祈ってやる広い心が必要です。
 相手に通じなければ、広い心で相手を包んでやることです。
 話しても相手がわからなければ、相手の心の安らぎを、調和を神に祈るという、広く、高い心をいうのです。
・自己の利益だけを思ったり、相手の不幸を決して念ずるようなことがあってはならない。常に円満な、中道の心を持ち、怒り、そしり、ねたみ、うらみ、ぐちることなく、足ることを知った心の状態を心掛ければ、心は光明に満たされ、安らぎの境地に至ることができる。

 これも極端に要約しますと、
①第三者の立場に立って、怒りや憎しみなど感情に翻弄されない思い、相手の立場、調和を目的とした思い、慈悲と愛の思いが正思。
②相手に通じなければ、相手の心の安らぎを神に祈るという広く高い心を持つこと。

正見、正思に関しての、私の過っていた理解

 私は先述の如く、長期に亘って法の学修にいそしみ、取りわけ正見・正思について、ご指示をいただいて小雑誌に纏めて学修してきたにもかかわらず、その理解は、全く正鵠を得たものではなかったようであります。

 どんな理解をしていたか?
 正見とは、第三者の目で、中道を物差しとして見ることである。
 正思とは、第三者の目で、中道を物差しとして思うことである。

 当然、この理解は間違いであるということではないと思いますが、何か的を外れた、木で鼻を括ったような、少なくとも心に落ちていない理解という気がします。

 では、どのような理解をすればよかったのか?

 前項で纏めたように、
 正見とは、「第三者の立場で、ありのままを見、その事象の原因を掘り下げる」ことであり、正思とは、「第三者の立場で、愛の思いを根底に、不調和な思いを持たず、通じない相手には祈ってあげる」ということになるようであります。

 私の以前からの理解とは全く異なっており、観念的とご指導を受けて10年に亘って拝読を続けたにもかかわらず、この理解は観念的なままの、頭だけの理解であったのでしょう。

 ご著書を拝読して心に落とすということの難しさがここに見られるのかも知れませんが、逆説的ではありますが、ご著書の拝読無くして、このようなことに気づくこともまた、難しいことなのかも知れません。

 ついでというと語弊がありますが、正しく見る、正しく思うことを初めとして、八正道に於ける『正しい』とは、どのようなことを言うのかについても、正見・正思の理解のためにも見ておきたいと思います。

正見・正思を初め、八正道の前提としての『正しい』とは?

 ここでも、ご著書からの抜粋(一部)を掲げてみたいと思います。
・正しい、とは、偏りのない、中道の考えと行為をいうのである。
・中道の心は、私心のないことだ。
 すなわち、神の心である。神の尺度である。
・正しさのあり方についていうと、八正道の目的が左右に片寄らない中道にあるわけですから、自分の立場を離れて、常に第三者の立場で、ものを見る、聞く、語るということが大事になってきます。すなわち、正しさの規準は全体との調和ということになります。
・正しさの規準は何かというと、「公平」であるということです。
 ではその公平はどのようにして得られるか。
 それは常に第三者の立場に立ってものを見ることです。

 これも乱暴ですが、要約しますと、
・正しいとは、神の心、神の尺度であり、偏りのない中道をいい、それは全体との調和であり、公平であるということになります。

正しく見る、正しく思うことについての一つの例題・・・韓国の応募工訴訟について

 例えば韓国の応募工(徴用工だと主張する人もいます)問題、韓国と我が国日本とは、お互いが大きな反発をしているようであります。

 ウイキペディアの解説(一部割愛、修正)
 『第二次世界大戦中、日本の統治下にあった朝鮮での日本企業の募集により労働した元労働者及びその遺族による訴訟問題。
 韓国では元労働者は奴隷のように扱われたとし、現地の複数の日本企業を相手に多くの人が訴訟を起こしている。訴訟が進行中の日本の企業は、新日本製鐵(現日本製鉄)、三菱重工業、不二越、IHIなど70社を超える。
 2018年10月30日、韓国の最高裁にあたる大法院は日本製鉄に対し韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じた。
 日本の応募工への補償について、過去の韓国政府は1965年の日韓請求権協定で「解決済み」としてきたが、韓国大法院は日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないとした。
 現在の韓国政府は、三権分立を盾に、裁判権には踏み込めないとして、政府としての介入をしないと決定した。
 日本政府は日韓関係の「法的基盤を根本から覆すもの」だとして強く反発し、「本件は1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。今般の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ。日本政府としては毅然と対応する」と強調した』

 巷では、甲論乙駁、様々な意見が交わされているようでありますが、その殆どの意見が、ある特定の立場即ち、韓国か日本かに立った意見であるように思えます。

 私は、この問題を深く掘り下げたわけでもありませんし、私のこの見方が正しいなどと言うつもりもありませんが、ネットやメディアで得られる情報だけを頼りに、正しく見るとは一体どのように見ることなのか,正しく思うとはどのように思うことなのかということを、自分なりに確かめてみたいと思っているだけでありますので、その点、ご了解をいただきたいと思っております。

 韓国の意見としては、日韓併合(とは言わず、植民地支配と言っているようですが)時代の負の遺産を、払え、と。

 二国間で和解(解決)の協定を結んでいても、個人的には終わっていないので、賠償金を払えという主張のようであります。

 一方、日本側の主張は、二国間で解決済みである。個人保証についてもその賠償金を韓国政府に支払い済みで、個人保証に関しては韓国政府が対応する旨も協定に明記されているという主張のようであります。

1.韓国側の主張に対する正しい見方

 過去に国同士の協定を結んでいるにもかかわらず、韓国はどうしてこのような主張をするのでありましょうか?

 現、韓国大統領は、『一度、合意をしたから過去が全て過ぎ去り、終わりになるというものではない』ということを言っているようであります。

 これは国と国だけではなく、人間の生き方としても、チョット問題のある考えと言わざるを得ないでしょう。

 さて、この考えに対する正しい見方とは、どのように見ることをいうのでしょうか?

 『韓国は、国同士が一度合意をしても、それで終わりではないというふうに考えている、そういう考え方をする国なんだな』というのが、正しい見方になるのではないのでしょうか?

 以前、光の天使の方から、正しく見ることに関して、次のようなお言葉もいただいております。
 『私たちは正しく見ると、次の想念が出てきます。
 正しく見ることによって、「これは違うんじゃないか?」とか、「これはいけないことだろう」とか、良い悪いで判断する心が出てきます。
 それを思った瞬間に、「ああ、まだこんな見方をしているのか?」「この人はこういう風に受け取っているのか?」、これは非難ではありません。
 こういう風に受け止めている段階なんだなと、正しく見ている段階です』

 これを踏まえると、「あゝ、韓国という国は、合意を合意として対応しない、自分が主張できるところがあれば、それを主張してくる国なんだな」と見るのが、正しい見方なのでありましょう。

 しかし、「このような韓国側の態度はチョット問題ではなかろうか?」というところまでは、正しい見方と言えるのでありましょう。

 次いで、正しく見るとは、その依ってきた原因を追究することである、ともお教えいただいております。

 何故、韓国は、そして現大統領は、このように考えるのでしょうか?

 これから先は推測の域を超えませんが、「韓国は日本に植民地支配をされ、過酷な時代を過ごしてきた」と、頑なに信じている。そういう教育をされてきた、若しくはそういう思想に凝り固まっていると言うしかないのかもしれません。

 又、日本には何を言っても大丈夫であったという過去の歴史がある、常に韓国の言い分を受け入れてきた、だから今回も理不尽であっても、理屈をつけて要求すれば良いのだと、思っているのかもしれません。

 だからこそ、合意なんていうモノは、時の大統領が決めたモノで、そんな程度で償いきれるモノではないと考えて、主張しているのかもしれません。

 何れにしましても、正しく見るとは、感情、好悪を交えずに、ただありのままに見ることが大切なのでありましょう。『ふーん、韓国はこんな考えを持った国なんだ』と。

2.さて、それでは日本の考え方を、正しく見るとは、どういう見方なのか?

 日本の主張は、『請求権の問題は、二国間で解決済みである。個人保証については、韓国政府が対応する旨も協定に明記されている、従って、韓国は、合意を守れ』という、主張のようであります。

 『もし韓国側の主張を認めるなら、際限がなくなる』ことに繋がると見ているようであります。

 今まではこのような問題に際し、韓国側に一方的に妥協してきた過去があるので、同じ轍は踏みたくないという思いもあるようであります。

 正しく見るとは、どちらの見方が正しいなどと、裁判官のような見方をすることではなく、『あゝ、日本は、このような見方、考え方をしているんだな』と、『約束を守ることが大事だと思っているのだな』と、唯々、客観的に見ることが、正しい見方に繋がるのでありましょう。

 次いで、では、何故日本は、このような見方をするのでありましょう?

 これも日本という国の、長い歴史が作り上げた考え方なのかもしれませんね。礼節を重んじ、約束を違えない、これが日本という国が培ってきた国柄故の考え方なのかもしれませんね(そうでない人も多いようではありますが)。

 そして更に言うと、過去には韓国の要求を唯々諾々と飲んできた、その為に韓国をつけあがらせてしまった、そういう反省もあるのかもしれませんね。

 何れにしましても、正しく見るとは、感情、好悪を交えずに、ただありのままに見ることが大切なのでありましょう。『ふーん、日本はこんな考えを持った国なんだ』と。

3.それでは、自民党の一部、野党、マスコミが韓国側の肩を持ち、日本を貶めるような発言をするのは何故でしょう? どう見るのが正しい見方なんでしょう?

 この件を正しく見るということは、『唯々、彼らは、韓国側の立場に立って主張をしているのだな、日本の味方をしたくないんだな、しないんだな。中立、公平ということも捨てているんだな』と、見ることでありましょう。

 ここでも正しく見るとは、ただありのままに、感情を交えずに、目の前の出来事を、見るということなので、第三者的に見て、上記以外の見方があるようには思えませんね。

 しかし、これにも理由があるはずであります。韓国人で韓国の思想に染まった人であるならまだしも、日本人があからさまに韓国の肩を持つ、日本を貶めるということは、そこに明確な理由がなければならないはずでありましょう。

 それは何か?

 恐らく理由は、二つ三つしかないのではないのでしょうか?

 一つは、韓国の肩を持たざるを得ない弱みを持っている、誰かに握られている。

 伝聞に過ぎませんが、韓国贔屓の人で韓国に招待された政財界、マスコミトップの人に対しては、韓国は分不相応?の接待をするそうであります。宿泊の準備、夜の宴会から、その後のお世話まで(中国も然りということも言われているようであります)。

 当然ホテルには隠しカメラが設置されていて、一部始終が撮影されているそうであります。

 いま、韓国の肩を持っている方々は、世に言う上流階級の人々、影響力のある人々で、彼らは通常であれば、殊更に韓国の肩を持つ必然性はありません。何らかの弱みがあると思わざるを得ないでしょう。

 特にマスコミトップ、日韓議連の政治家等は、特に常識も備えているべき人々なので、弱みを握られ、否応なしに発言行動をしている、させられていると言った方が正解に近いのではないのでしょうか。

 当然、スキャンダルで自分の地位名誉を失いたくはありません。カメラ映像や動画が世に出れば、どんな立場の人であっても、恐らく一夜にして失脚してしまうことでしょう。

 こういう方々は、心ならずも、韓国の肩を持たざるを得ないのでしょう。

 次いで、弱みを握られていない人はどうなんでしょう。

 これも推測の域を出ませんが、やはり地位やお金に帰着するのでしょう。

 マスコミが極端に韓国寄りである、反日的である。これは先述のようにトップがそうであるからでありましょう。テレビに出るには、そういう思想、発言をしなければならない。そうしないとテレビに出られない。お金が儲からない。

 テレビに出演する大学教授や評論家には、そういう人が多いのではないのでしょうか?

 更には、マスコミなどの現場組織におられる方々が、何故に、トップの指示に従って、偏向した記事を流し、テレビ放映をするのか? 気に染まない情報を何故に流すのでありましょうか?

 これも全く同じでありましょう。

 造反すれば、首を切られるか、左遷されるか・・・やはり今の地位、立場やお金に帰着するのではないのでしょうか?

 極端な話、あるテレビのアナウンサーが、『そんな片寄った報道はしたくない』と言えば、即刻、他の人に取って代わられることでしょう。

 高橋信次先生が、『人は今、金さえ貰えればという考え方を捨てるときがきている、ということに気がつかなくてはならない』と、警鐘を鳴らして下さっていますが、人類の耳にはなかなか届かないようであります。

これらの見方に対して、正しく思うとは、どのような思いを持つことなんでありましょうか?

1.韓国に対する思い方:

 『韓国という国は、合意を合意として対応しない、自分が主張できるところがあれば、それを主張してくる国なんだな』と見る。この見方に対して、正しく思うということはどういう思い方なのでありましょうか?

 当然、『それは間違っている』だとか、『けしからん』だとか、『だから駄目なんだ』だとか、そういう思いは正しい思いとは言えないでしょう。

 どう思うべきか?

 中道、調和を物差しにして思うということは、韓国のそのような言動を是認することは出来ませんので、『哀れな考えを持った国なんだな』と思うことでありましょう。

 『哀れな』という思いが、何となく見下したような印象を与えるかもしれませんが、高橋信次先生のご著書から、『正しく見る、思うに関しての「哀れな」という表現』に関し、下記に抜粋してみました。

 『どのような誹謗もそしりも、怒りも、心を動かさずに聞き流してしまえば、その言霊は、不調和な言動者に反るということだ。
 しかし、なぜそのようにいわれるのかということも、反省しなくてはならない。もしいわれる原因のないときは「哀れな人だ」と相手を思いやれば良い。そして「どうか神よ、あの人の心に安らぎを与えてください」と祈ることだ』

 『私達は、中道から逸脱した相手の姿を感じたなら、争ってはならない。争わずに、「この哀れな者に、どうぞ神よ、安らぎをお与え下さい」と心から願うだけの余裕が欲しいものである』

 更に、丸山弘先生からは「ひかり」誌の中で、次のようなお導きをいただいています。
 『可哀想とは抱きかかえる思いであり、法ではありません。その場合、哀れと思うことが正しい思いです。突き放すことも愛なのです。そうすることによって(相手は)立ち上がれるのです。可哀想と抱きかかえることによって、(相手の)自力の芽を摘んでしまい、相互に生かし合うのではなく、殺し合うことになります。哀れという思いは、自分を生かし、相手を生かす思いです』

 これは過去の日本が、『韓国という国は、日本の植民地にされたと思い込んでしまっているので、ある程度言うことを聞いてあげないと可哀相だ」と、安易に抱きかかえ妥協してしまったことが、今の韓国、自立できない韓国を創り上げてしまった一因であるのかもしれません。

 上から目線の『哀れ』という思いではなく、法を知らず、このような思いを持っている人々に対し、今後その人たちに返ってくるであろう過酷な反作用を考えると、とても人ごととは思えない、それが余りにも『哀れ』であるということから、祈らせていただくということが、正しい思いなんでありましょう。

 また、調和という観点から、妥協が必要なのではないかという意見もあり得ることでしょう。

 高橋信次先生も、時と場合によっては、妥協も必要であるとは仰っておられますが、『妥協は破壊を防ぐ一時しのぎの防波堤の役を果たすが永続性はない。心まで妥協し、調和を崩すと、苦悩が生じてこよう』と、仰っておられます。

 過去の日韓関係こそ、妥協の産物であり、日本はその妥協をして一時しのぎをしてみたが、今、そのほころびが出てきたのかもしれませんね。

2.日本に対する思い方:

 日本という国は、『約束を守ることが大事だと思っているのだな』と、正しく見た後はどう思うことが、正しく思うということになるのでしょうか?

 中道を守る、調和を目指すために、約束を守ることが最大限大事なことでありましょう。

 そういう意味合いからして、日本という国(政府)は、正しい思いを持っているんだなと思えば良いのでしょう。

 歴史的事実を踏まえると、日本が正しくないと言える部分もあることでしょうが、応募工に関する徴用及び奴隷的扱いという事実は、大部分捏造されたモノのようであり、それを全てがそんな扱いであったとして、過去に日本が譲歩して合意したこと(日韓請求権協定)、そのこと自体は日本が安易な妥協をしたと非難されることはあっても、日本がそんな事実はなかったと蒸し返すのではなく、合意を優先する、調和を優先するというスタンスは、正しいと見るべきでありましょう。(但し、歴史認識を正すということが大事であることは、論を待たないことであり、合意とは別の場で為すべきことであると思います)

 ただ、論点は飛びますが、韓国の応募工に対してはこのような見方をしていたとしても、他の韓国との問題点、中国に対して諸々の問題点については、その対応が大きく異なるようであります。

 中国という国は、韓国以上に自己主張をする、圧政を旨として天安門事件を初めとして、ウイグルや香港で虐殺を繰り返す等々。にもかかわらず国家主席を国賓で迎えようとする(2019-11-25現在)。

 これはまさしく、強いものには巻かれよ、お金が儲かればそれで良いとする、正しさ、中道を放棄した考えでありましょう。

 韓国の応募工問題には正しい言動が出来たとしても、力が強い相手、お金が儲かる相手には、正しいことを主張しない、できない、日本もまた、哀れな国、政府であるのかも知れませんね。

 何れにしましても、こと韓国の応募工問題に関しては、『日本が正しい考え方をしている』という正しい見方をすれば、湧き上がってくる思いは、『そうだね』、『それで良いのでしょう』という、是認の思いしかないのかもしれません。


3.韓国の肩を持ち、日本を貶める人に対する思い方

 『自民党の一部、野党、マスコミが韓国側の肩を持つ』方々に対しては、もう何も言うことはないでしょう。

 前掲の如く、『哀れな方々だ。神よ、彼らの心に光をお与え下さい。安らぎをお与え下さい』という思いを持つことが正しい思いでありましょう。

 ましてや、怒りや愚痴を言うべきではありません。自分の心を汚すだけです。
 怒りや愚痴は、一見、自分が優位に立ったような錯覚を起こさせるかもしれませんが、どれだけ自分の心を汚しているか、曇りを作り上げているかに、思いを馳せるべきでしょう。

 自分の心を汚すことをご存じなく、正しいことだと信じて、韓国を攻撃している方を多く見かけますが、このような方々も、韓国や日本を貶める方々と同じ穴のムジナであることに気がついていただきたいと願っています。

 日本を貶めるような人々には、『哀れな人々だなぁ。正しいことより、地位、名誉、お金に重きを置いている人なんだなぁ。神様、彼らに光をお与え下さい。心に安らぎをお与え下さい』と思い、祈ることが正しく思うことなんでありましょう。

 『そんなことを言ったって、弱みを握られている人間が、地位も名誉も一遍に失うことなんか出来ないでしょう?』と仰るかもしれません。

 そうでしょうね。

 でも、高橋信次先生は、『正しく生きよ!』と、お教え下さっています。その為に、この世に生まれ来たったのだ、と。

 その為には、途轍もない勇気と決断が必要でしょうね。そして、今の状況もまた、自分が蒔いた種であるということは、間違いのない事実であります。

 その修正をするのは、この世に生きている間に行うのか、あの世に行ってから行うのか。

 あの世では、その間違いに気づくだけで、何百年とかかることもあるとお教え頂いています。もし、そうだとすれば、『哀れ』と言うしかないのかも知れません。

結言

 日本中の心ある人が、このような正しい思いを持ったとしたら、日本中に日本非難が充満し、尚かつ、日本を貶めるような人々が変わらないではないか、日本が良くならないではないか、というふうに思われる方もおられることでしょう。

 怒りの思いを持たないまでも、正しくないことは指摘する、それが必要なのではないかという意見があるように思います。

 然り、と思います。そうでないと、おかしな意見だけが堂々と、表通りを闊歩するようなことになってしまうことでしょう。

 従って、そういう反論と言いますか、正しい意見を言うべきだという使命を感じられる人は、そういう道を進まれたら良いのではないかと思います。

 日本にもそういう方々が沢山おられるようです。

 特定のネット番組などに出られる方々は、そういう方々が多いのではないかと思っております。ただ、そういう方々も、感情的にならず、正しいと思う自分の意見を正々堂々と理路整然と述べる、そういう態度であって頂きたいものだと思います。

 少数の感情的な方々を除いて、正しいことを正しいと主張する方々も多いので、この方たちには頑張って頂きたいものだと思っております。

 それ以外の人が、全ての問題に首を突っ込むことは不可能であります。

 どうしても意見を言いたい、発言をしたい、そういう事柄に関しては、ブログやツイッターで表現すれば良いでしょう。しかし、常に、止観、自分を振り返って観る、この姿勢を把持しておりたいものだと思っております。

 徒に自分の感情を高ぶらせるのではなく、これらの出来事を、正しく見る、正しく思うための、この人生の偉大な経験として、捉えれば良いのではないかと思っております。

 そして自分の正しく見る、正しく思う、その姿勢を周囲に伝搬していく、日常会話の中でお伝えしていく、このことも非常に大事なことではないかと思います。


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