米国大統領選挙不正行為に対する正義感とそれに対して抱く感情、そして法に適った正しい見方(正見)について

2020年11月3日の米国大統領選挙

 2020年11月3日、米国で大統領選挙が行われました。

 私は、選挙前から、日米のマスコミが何と言おうと、トランプ氏が圧勝するであろうと予測をしておりました。

 私は昨今のマスコミ報道に、残念ながら引きずられることもありますが、ほとんど信用していないので、大統領選挙の予測も何も難しいことではなく、アメリカ国民がトランプ氏の実績をきちんと見ているから当然、当選するであろうと思っておりました。

 日本時間の11月4日夜、米国の開票状況を見ていますと、予想通り、トランプ氏の快進撃の予想。

 ところがある時点から急にフィルムが逆回転するような展開が始まり、一瞬にして逆転されてしまうという結果になりました。

 それ以降の報道(マスコミではなく主としてネット情報)を見ていると、不正選挙ではないかという疑念がたくさん見受けられるように思えました。

 不正を主張してその証拠を挙げても、まともな反論は全くと言っていい程なく、的外れな反論・非難、主張ばかりが見受けられました。

 そしてその不正の主張の最たるものは、テキサス州が不正疑惑のある4州を、米国最高裁判所に訴えたことでありましょう。そして、それに乗っかるようにして、何と17の州が追随したという事実であります。

 しかし、最高裁判所がこの訴訟を取り上げることはなく、その後もいくつかの山はありましたが、最終的にトランプ氏の敗北が決定しました。

この実態をどう見るか?

 選挙から数日経って、選挙結果の大勢を確認した私は、愕然としました。こんなことがあるのだろうか、あっていいのだろうかと。アメリカは、そしてアメリカ国民はどうしたのだろう、と。

 しかし、その後、不正の報道(公式報道ではなく、ネット上での情報)が行われるにつれて、やはりトランプ氏が勝っていたのだろうと思うようになりました。

 アメリカという国は、世界のリーダーであり、世界を正義という御旗を掲げて先導している国であります。そのうちに不正は暴かれてバイデン氏は敗北するだろうと思っていました。

 しかし、あに図らんや、主要マスコミも、大手SNSも、議会も、そして何と司法までも、この不正を暴こうとしたり、正義を貫こうとする姿勢は見られず、何が正しいのかをはっきりさせようという意志が感じられませんでした。

 前述の人々はむしろ、この不正には自分も関与している、不正を暴くのではなく、不正に加担しているのではないかという悲しいまでの、哀れな思いと行動が見られたように思えました。

 私は、天はどう見ているのだろうか? こんな不正を黙って見ているのだろうか? 何らかの手を下すのだろうか? と考えてみました。

 結果として、天は表立っては何も手を下すことはしないでありましょう。人類が造り上げてしまった現在までの想念・行動の結果としての現象なのだから、と。人類が、アメリカが、そしてこのことに注視して見ている人々が、直面しなければならない出来事なのだから、と。

 その昔、イスラエルにアハブという悪王が君臨していたときでさえ、天は直接手を下さず、エリヤという大天使を地上に遣わして手を差し伸べられたように、今回も、私たちには何も分からなくても、天は当然のごとく、何らかの手を打っておられるのだろうとは思っております。今既に手打っておられるのか、形に表れ見えるのはもっと先なのか?

 それとも、作用反作用の法則のように、自然と瓦解していくのか?

 すなわち、今回のアメリカの(一部の人々の)天に唾するような行為は、我々の悪業の現象化、人類が体験しなければならないカルマのようなものなのだろうと思わせていただきました。

心の動き

 選挙結果を目の当たりにした日を境にして、私の心は大きく揺れ動きました。

 不正の事実の報道、トランプ側の訴訟の状況等、毎日毎日の情報を、あらゆる所から拾い集めました。

 日が経つにつれ、トランプ側の打つ手は段々と少なくなってきました。

 私は日々揺れ動く自分の心の有様を見て、何かおかしいと感じ始めておりました。不正があるとか無いとかではなく、どのような出来事があろうと、自分の心が揺れ動くのは、何かおかしいと感じ始めておりました。

 如何に正義が犯されようと、悪がはびころうと、その出来事を正しいこと、間違ったことと見ることは正しく見るべきであるが、それに自分の感情が揺り動かされるのはおかしい、法から外れているのではないかと思い始めました。

 しかし、今までの長年の癖はそんなに思いをちょっと変えたり、ちょっと反省をやってみただけでは、なかなか是正できるものではないようであります。

 毎日のように心を動かされ、夜に、感情に動かされてはいけないと反省を重ねるような毎日でありました。

 あるとき私は、偉大な主は、どのように教えておられるのか、調べなければいけないと思うようになりました。

偉大な主のお導きにはどう書かれているか?

 偉大な主のご著書には、私たちの心の動揺をどうすべきか、たくさんのお導きをいただいておりますので、ほんの一例を下記に掲げさせていただきます。

 『正道でいちばん大事なことは、感情に心を動かされないということだ。
 感情のない人間、それは人間とはいえないが、表面的な好き嫌いの感情にとらわれ、それに翻弄されると心に曇りをつくり、心がすさんでくる。憎悪、怒り、しっと、増上慢……。みな感情がなせるわざだ。こうしたときは安心はえられない。公平にものをみることができない。自分を苦しめ、人をも悲しませる。
 心の調和はいかに自己の心を落着かせ、心の安らぎを保つかということだ。それには自己の感情のぶれをなくすことしかない。
 波立ち多き感情の修正は、そのよってきた原因を知り、それにふりまわされぬことが基本だが、しかしそれを知ってもなお振りまわされるのが人の常だ。それを人の業ともいう。そこで人を見ないことが大事だ
 苦しみの原因は、ものに対する執着である。執着を離れ、冷静になってくると、事の道理がよく見えてくるものだ。神理の実相は、そうした心を保っていると、次第に明らかになってくる』

 →→→表面的な好き嫌いの感情にとらわれ、即ちトランプ氏に肩入れするがあまり、善悪、正邪の感情にとらわれ、それに翻弄されていたということでありましょう。
 それに振り回されないためには、正に対する執着、善に対するこだわりを外さねばならないのでありましょう。いかに正しかろうと、いかに善であろうと、それに執着して、それに振り回されては、心の安らぎを得ることはできないのだと思わせていただきました。

 『(仏陀のウパテッサに対する言葉)今のそなたは、現象界の諸々の事象を心で軽く受け止め、地上の知識ではなく、心の中でそれを見られるようになった。ブッダの法を素直に実践したからである。正道の心は素直な広いゆとりある気持が何より大事なものだ。ものにはすべて原因と結果があり、現われた結果に心が奪われてしまうと、いかに知識を身につけたところで、真実をみることが出来ず、過ち多き判断を下すことになる』
 →→→米国のこの現象すらも、心で軽く受け止め、その正邪を心の中で見極めるべきでありましょう。
 現れた(不正選挙のためにトランプ氏が敗れてしまったという)結果に心が奪われてしまうと、真実を見ることができず、判断を間違えてしまうことになりかねないということでありましょう。

 『相手が怒っても、善悪を良く判断して、心を動かしてはならない。正しい納得の上で心を調和することである。怒った心は怒った人の心に帰って行くものだからだ』
 →→→米国の片方の陣営がいくら不正を行ったとしても、心を動かしてはいけない。善悪をよく判断して、その上で心を調和することである。不正を行った思いと行いは、その不正を行った人々に帰って行くのであるから。

法に適った正しい見方とは

 アメリカで重大な不正選挙が行われ不正側が勝ったとしても、世界のどこかで、否、日本で、例えば戦争が起こるような大事件が勃発しても、その正邪、善悪はきちんと見据えるにしても、心、感情を動かされていけないということでありましょう。

 何故にそのような大事件が勃発したのか、その原因をきちんと見据え、結果に翻弄されないように、心を調和すべきでありましょう。

 当然、簡単なことではありません。

 しかし、難しいといって感情に流されていては、法から外れてしまい、心の安らぎは得られないことでしょう。

 先述のアハブという王を初めとして、過去に君臨したどんな暴君も、今に命脈(本人ではなく、その思想を受け継ぐ者・子孫等)を保つことはできておりません。

 法から外れた手段で得た権力は、当事者に循環して奪われていくものだということを心に留め、調和を心に求めるべきでありましょう。

 しかし一方で、『ダメだ、間違っていると声を上げなければ、世の中は動かない』という意見もあることでしょう。

 例え日本で大問題が起こったとしても、それに関与していくべきかどうかは、人それぞれの考え方、使命にも依ってくるでしょう。

 世の中の出来事にすべからく関与したい人は、政治家になればいいでしょう。

 外野から非難や応援をしたい人は、評論家になったり、メディアに関わればいいでしょう。

 一般の人であっても、とりわけ関心が高い人は、色んな所で声を上げればいいでしょう。

 哀しいかな、そんな中で人々を悪に煽動するような人も現れることでしょう。

 私の進む道は違うと、見向きもしない人も現れることでしょう。

 全てがすべて、自己責任でありましょう。

 自分が蒔いた種は、自分で刈り取らなければならないのが、循環の法、因果の法、作用反作用の法則であります。

 声を上げたい人は声を上げればいいでしょう。

 声を上げない人を無責任と言いたい人は、そう言えばいいでしょう。

 他山の石として、自分の心の成長の糧とする人もいることでしょう。

 人は皆、その時その時に、自分がしたいことを思い行っています。

 全て、自分が選択しています。

 その全てが自己責任ということでありましょう。

 法に適った正しい見方とは、『外の出来事を正しく見、感情に動かされないということ』が、正しい見方の根本になるのでしょう。

 その上で、何らかのアクションを起こしたい人は、起こせばいいし、静観したい人は静観すればいいのであって、一にも二にも、心の調和を心がけるべきでありましょう。

 如何なる大事が起こったときでも、感情に動かされることなく調和を旨として、その上で、私はどうしたいのかと善なる心に問いかけ、何らかの関与をしたければ関与し、意識を内に向けたければ内に向ければいいのでしょう。

 内なる善なる心のままに、ということになるのでしょう。

 そのような心が保てるように、精進に努めたいと思わせていただきました。



 今回の米国大統領選挙のお陰で、このような反省の機会を与えていただきましたことを、感謝申し上げます。

 有り難うございます。有り難うございます。

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