偉大な主・高橋信次先生の遺稿:『新・復活』

 偉大な主・高橋信次先生は、昭和51年6月4日、山形県蔵王での東北地区研修会に於いて、『新復活』という演題の講演をされています。

 翌日の『太陽系の天使たち』という講演を含め、先生の最後の講演となっております。

 この最後のご講演に関して、『先生は、一月以上前からリンゲル注射のみで生きておられたにもかかわらず、家族、側近が止めるのを聞き入れられず、「行かねばならぬ」と、無理を押して参加され、各々一時間ずつの講演をしておられます』と、某ブログには記されておりました。

 また、先生のご逝去後に、奥様の高橋一栄様が出版(著者名は高橋信次先生のお名前になっています)されました「心に法ありて」という書籍には、下記文章が書き込まれております。

 『「さあ、起こしてくれ。上衣を出してくれ。私は行かねばならない。みんなが待っている」
 主人は、床のなかで、そう私に叫びつづけます。
 自分の体が自由にならないのに、気持だけは、明日に迫った関西講演に、早や心は飛んでいるようでした。
 私は、黙って主人の顔を凝視(みつめ)ていますと、「なにを愚図愚図している。はやくしないか。上衣を持って来てくれ」
 そういって、自分の力で床から起き上がろうとします。
 しかし、主人は、もう何日も物を食べていません。それどころか、山形講演ですっかり体を使い果たし、そのうえ、つい一日前、ある方が八起ビルに訪ねてくるというので、わざわざ出かけて行き、夜の十時すぎまで話し合い、その無理がたたったのでしょう。両足にむくみが出るほど体に異常をきたし、立っていることさえできず、玄関に入るなり倒れてしまったのです。
 ・・・それから十日余りして主人は昇天しました・・・』

 更に先生のご息女、高橋佳子様が、偉大な主・高橋信次先生ご逝去のかなり後になって出版されました書籍には、下記文章が記載されています。

 『回想の父:その父が、もう自分の肉体に自信がないというのです。
 そして、父の喉を食事が通らなくなりました。
 父は力のかぎりを振りしぼって講演を続け、最後の本になるべき原稿を書き続けました。
 その原稿は私の手もとにありますが、父はこの本は世界を動かすものとなるだろうと言い続けていました。
 異様にはれあがって食事もできない不自由な手でペンを執りつづけたのです。
 約束が守れないと知った父は、関西の講演会場の方向へ向けて土下座をしました。
 「行けなくて、皆さん申しわけありませ…」
 涙をポロポロ流して詫びるのです。
 六月十八日、死の一週間前、一人では動けなくなった父は、自宅から、浅草の八起ビルへ移りました。
 死の三日前になって、父はようやく布団をしいて体を横にし、「ああ、やっとオレも病人らしくなったなあ」、それが父の感想でした・・・』

 そして、ここに書かれている『原稿』なるものが、『新復活』の原稿であろうと思われます。

 偉大な主・高橋信次先生がご逝去された後、ネット上にいくつかの『新復活』が上げられました。

 その全ては、この原稿を元にしているようでありますが、微妙にてにをは・・・・や言葉遣いなどが異なっていることを発見しました。

 その原因は推察の域を出ませんが、先生の直筆の文章を書き写すときに、人によって解釈に違いが出たのではないかという気がしております。

 更には、未完の原稿であったためか、目次がなかったようで、人によって、これは全く異なる目次(もしくは段落)を設けておられました。

 この異なる箇所を(手前勝手ですが)妥当と思えるように修整させていただき、目次(段落、章)も独自につけさせて頂きました。

 当然のことながら、このようなご文章(遺稿)を私のブログにあげさせて頂いて良いものか、判断に苦しむのでありますが、そしてお叱りを受けるかも知れませんが、いつもの勝手な論理で、『このご文章により、一人でも法に触れられる方が居られたら・・・』という思いで、投稿させて頂くこととさせていただきます。


偉大な主・高橋信次先生の遺稿『新・復活』

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