一匹の亀が死を迎えました
昨年の春に、私の家の庭の池に迷い込んできた亀が、死んでしまいました。
生まれて一年目の冬は、冬眠をさせると死んでしまう亀が多いと教えられましたので、比較的大きな水槽で、ヒーターを入れて越冬させることにしました。
冬に入ると暖かい水温の中でも、本能で冬を感じるのか、食が細くなり、ほとんど何も食べない日が続きました。「もし冬眠しているなら、何も食べないのが当たり前なので、冬眠させない亀の食が細っても心配ない」とのネットの記事で安心していました。
一週間か十日ほど前には、春かと思わせるような陽気が続きましたが、この亀も敏感に察知し、冬眠から醒める時期が来たと思ったのか、与えるエサをどんどん食べる日が数日、続きました。
でもまた冬のぶり返しがあると、全く食べなくなってしまいました。寒さを感じているのかな?と気楽に考えていましたが、動きが真冬のように鈍くなり、その翌日、全く動かないので、どうしたのかと手で触ると、死んでしまっていました。
○死ぬ二、三日前までは、元気に動き回っていたのに、本当に突然の死のように感じてしまいます。原因は何か? 全く分かってはおりません。
無常の風が吹くと、肉体との別れがやってくる
高橋信次先生は、『子供の病気は、両親の不調和から起きるといえます』とお教え下さっています。この亀はいわば、私の家族、子供同然であり、私の庇護の元でないと生きていくことが出来なかったのであります。
その子供同然の子亀が病気になり、死んでしまったということは、私の不調和が原因ということになるのでしょうね。どんな不調和がそのような大それたことを引き起こしたのか、にわかには思い当たらないのですが、そうであれば申し訳ないことをしたと、お詫びの思いで一杯になります。
この子亀のように、私たちの人生にも、無常の風が一吹きすると、この肉体とのお別れがやってきます。
私はこの人生で、祖母、父、母との別れを経験しています。何れの方も天寿を全うしたような年格好でしたので、悲しみはあるものの、胸を締め付けられるような思いは感じませんでした。
若い人は普通は、自分の死についてほとんど考えたこともないでしょう。しかし年が行くにつれて、体力の衰えなどから、自分の死について考えることが多くなっていくようです。
でも、無常の風が一吹きするだけで、どんな若い人も、どんな元気な人も、肉体人生の最後を迎えてしまいます。無常とは、この世のものは何一つとして、形をとどめることは出来ない、常に変化しているということであります。だからこそ、生があり、死があるのだとお教えいただいております。
無常と無情
この無常の姿を見て、人は無情と感じてしまうことが多いようです。辛い、悲しい、情けない。無情という字は、「情けが無い」と書きますので、まさしく思いやりのない出来事に無情を感じてしまうのでしょう。
人間だから、人の死を、悲しむことは当然と言っていいでしょう。たとえ人間は生き通しだ、魂は死ぬことはないと教えられ信じていてさえも、そのような感情が湧くのは、心ある人間にとっては当たり前のことでありましょう。
でも、この世に、無常という摂理がもし無かったら、一体どのようなことになるのでしょう。
無常の反対は恒常です。辞書には常住と書かれているようですが、無常の解釈が違うのでしょうか。
無情の反対語が有情なので、有常と言っても良いのかもしれませんね。これも辞書にはそのようには載っていないようですけれど。
もしこの人生が恒常であるなら、お釈迦様が悩まれた生老病死はありません。未来永劫、生のみです。転生輪廻はありません、肉体が死なないのですから。そう考えると、どんな社会になっているのでしょうね?
死がないのですから、生まれたら最後、生き通しです。天上界は消滅してしまいますね。因果の法則は生きていたとしても、どんなことをしても死の心配がないし、逆に死ぬことも出来ない、殺すことも出来ない。
何をしても許される?途轍もない社会になってしまっているかもしれませんね? 少なくとも悪いことをしたら悪いことが巡ってくるから、良いことをしなければならないというようなことは、誰も言わなくなってしまうのでしょうか?
無常の真意
無常は神の摂理とお教えいただいています。高橋信次先生は、次のように仰っておられます。
『・・・無情の感覚はそれゆえに、自我という自己保存にその根がみられる。そうしてその根のあるかぎり、人は悲しみから解放されることはないであろう。無情は常につきまとい、その人の心を苦しめる。無情が無常にかわるとき、人ははじめて、真性の自己をみる。すなわち、常なき姿の外界を動かしている神の心をみることができるのだ。
常なき姿は、万物が生き、万生が生滅するための必要不可欠の要件として、永遠にかわらぬこの現象界の姿であり、もしもそうした生滅の姿がないとすれば、人も現象界も、その存続を許されなくなるのである。人はこうした現実に、こうした常なき現象界に、思いを向け、神仏の計らいが奈辺にあるかを洞察しなければならないのである』
ちょっと難しい文章かもしれませんが、もう何の補足もいらない文章なので、これ以上私が何をか言わんや、であります。
しかし、一匹の亀の死に接し、この亀が何故に私の家の池に迷い込んできたのか、何故に私に飼われることになったのか、そしてその交流がわずか一年足らずであったということ、そういう縁を考えたとき、人はやはり辛く、悲しく、心苦しくならざるを得ません。
でも、無常はこの世の摂理、循環の法則で、早い遅いの差はあっても必ず巡り来るもの、そしていつの日か私が天上の世界に帰り着いたとき、この亀に再会することも出来るでしょうし、この亀との縁の糸も解明することが出来るだろうということに思いを馳せたとき、『よく忘れないで来てくれたね』と、一年足らずの同居への感謝の思いと、『まっすぐ天上の世界に帰るんだよ』と送別の言葉を掛けることが出来ました。
誰しも情がありますから、悲しみの涙に濡れることもありましょう。しかし、無情に落ち込むことなく、無常の摂理を心に把持すれば、悲しみの涙の中に永遠の生命を確認することが出来ましょう。
もの言わぬペットに、これだけの思いを掛けることが出来るのであれば、心の精進に切磋琢磨した家族、隣人、友人には、どんな辛い出来事があったとしても、もっともっと多くの感謝と、次の再会の思いを持って、心を込めて送り出して上げたいものだと思わせていただきました。