久しぶりに童話をアップしました。テーマは「初詣」です。

今の日本人は、神様を信じているのか? いないのか?

 今の日本には、色々な新興宗教を初めとして、俗に言う神様を信じている人は、それなりにいらっしゃるようです。

 それと同等、もしくはそれ以上に、神様を信じていない人も沢山いらっしゃるようです。

 人間には自由意志が与えられていますので、何を信じ、何を信じないということは、各人の自由であって、第三者がとやかく言うことではないと思っています。

 しかし、日本人が一目置いているアメリカという国は、大統領が就任式のときに、殆どの大統領が聖書に手を置いて誓うそうです。

 でもこれは、何も聖書と限られていることではなく、自分の信じる宗教の聖典であっても、何ら構わないことになっているようですが、圧倒的に聖書が採用されているようです。

 アメリカという国は、キリスト教を信じているということを表明することが当たり前というか、キリスト教を信じていないことが分かると、異端の眼で見られることもあるのかも知れませんが、日本はまさしく逆で、神様を信じているなどというと、異端の眼で見られかねないような風潮すら感じられます。

 でも、正しい神様か正しくない神様かは別にして、神様を信じておられる方は、かなりの数に上るのではないでしょうか。

 神なんか信じていないと仰る方でも、世間の風潮に配慮して、口でそう言っているだけかも知れませんね。

神なんか信じていないと仰る方が何故、神社仏閣に行って手を合わせるのか?

 童話の中にも書きましたが、「神様なんかいるはずがないだろう? 生物の発生も人類の発生もみんな科学的に証明出来るんだよ」と仰る方が、正月には初詣に行き、厄年には厄除けに神社に行ったりします。

 こういう方の精神構造はどうなっているんでしょうか?

 物事を突き詰めて考えることをしないのか、「それはそれ、これはこれ」として、二つの相反することの両者を受け入れているんでしょうか?

 「魂なんかナンセンス!」と仰る方が、100%と言っていいほど葬式に出席されます。

 この社会のしきたりだから、出席することが礼儀で、仕方なく出席していると仰るのでしょうか? きっとそうなんでしょうね?

 キチンと切り分けておられる方がいらっしゃったら、それはそれで素晴らしい自意識をお持ちのことだと思います。

 不遜な見方かも知れませんが、私は、もし人間の人生がこの一回限りであるのなら、すべてのことが無価値ではないだろうかと思わずにはおれないんです。

 人生が一回限りであるなら、正しく生きることがどうして大事なんでしょうか? 愛深い生き方がどうして素晴らしいんでしょうか? 子孫を残すことに意味があるのでしょうか?

 逆に、自分勝手に生きることがどうしてダメなんでしょうか? どうして子々孫々、継続していこうとするのでしょうか? そこには何の意味もないのではないのでしょうか? もし人生がこの一回限りであるのならば。

 人間の命、意識、魂が永遠であるからこそ、それらのことに価値があるのではないのでしょうか?

 それを心の奥深く知っているからこそ、連綿と命を繋げ、愛深き生き方に感動を覚え、自分勝手な生き方を排除しようとするのではないのでしょうか?

童話「初詣」が一助になれば幸いです

 何れにしましても、この人生は一回限りと思っておられる方も、そうでないと思っておられる方も、この肉体が死ねば、全てが明らかになることでしょう。

 でもそれは自分一人が分かることであって、家族にも、友人にも、その事実を知らせることは出来ないようです。

 神様を信じていない方が、この童話を読まれるとは思えないんですが、もし弾みでこの童話に出会ってしまったなら、一度、この人生の意義などを深思されたら如何でしょうか?

 そしてその深思の一助に、この童話が加担出来ますならば、これ以上の悦びはありません。

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