眼底出血、黄斑浮腫による視力低下後の運転免許更新の視力検査に際し、守護・指導霊様と目の意識に協力をお願いしました。

眼底出血・黄斑浮腫による視力低下

 私は、昨年の10月、左目の眼底出血による網膜中心静脈分岐閉塞症という病気になってしまい、進行は止まったものの、病状は回復せず、黄斑浮腫による視力低下、物体が歪んで見えるという状態のままで、治療の方法がないということで、通院を中止いたしました。
眼底出血、網膜中心静脈分岐閉塞症の治療経緯について・・・その1/2 -初診からレーザー光凝固手術まで
眼底出血、網膜中心静脈分岐閉塞症の治療経緯について・・・その2/2 -転院後の治療とその効果

 通院中の視力検査では、裸眼では0.2~0.3、メガネをかけても0.5~0.6程度であり、黄斑部の浮腫を抑える注射を眼球に行うと、いったん浮腫は収まるものの視力は回復せず、1~2ヶ月経つと注射の効果が無くなって浮腫が再現してしまうという状況に陥ってしまいました。

 そして浮腫が再現しても、再度の視力の低下は見られない、即ち、浮腫が引いても発生しても同じというという、何とも対処のしようがない状態であり、医師も「様子を見守るしか仕方がないですね」という有様でした。

 他の要因も絡んで、医者通いは今年の6月で中断しましたが、その後の様子に変化は感じられず、右目を閉じると左目の視力低下が明確に分かり、更に、物体が歪んで見えることも、6月時点と何ら変わっていないように感じておりました。

5年ぶりの運転免許更新の時期がやって来ました

 11月が私の誕生月なので、一応優良運転であったため、今年の誕生日の前後一ヶ月間が、5年ぶりの運転免許更新ということになります。

 今回の免許更新にあたって、視力検査が最大の心配事でありました。

 5年前の更新時には、何の心配もしなかったので、視力検査自体、どんな検査をするのかということにすら、気に留めていませんでしたが、今回はネットで調べてみることにしました。

 両眼で0.7以上、片眼で、それぞれ0.3以上の視力が求められるということが判明しました。

 眼鏡を掛ければいいじゃないかという判断もありますが、眼科医で視力検査の時にメガネの調整をするに当たっても、画像が歪むということから、レンズの選定に四苦八苦し、やっとの事でこれが一番見えそうだというレンズを装着して、0.5~0.6程度。

 それも半分当てずっぽに、右とか上とか言ってみての結果なので、この検査自体に信憑性があるのか、再現性があるのか、眼鏡屋でメガネを作って貰って本当に視力が改善するのかという思いを持っておりました。

 従って、最初の免許更新時の検査は、裸眼で受けようと、そしてそれで駄目であれば、眼鏡屋に飛び込んでみようと思っておりました。

 とは言っても、不安の種は尽きないので、視力検査表をネットで探して印刷し、自分で視力検査をしてみたりもしました。

 その結果は当然の如く、左目は0.1~0.3程度で、どんなに瞬きをしてみても、左や右に、上や下にずらして見ても、ほとんど大差がないことが分かりました。

 ただ、視力検査の輪っかの欠けが左右の場合は0.3のレベル、欠けが上下の時は0.2はおろか、0.1程度かもしれないことも判明いたしました。

守護・指導霊様や目の意識に助力をお願いしたい

 裸眼で免許更新の視力検査を受けることを決めても、検査に通らなければ眼鏡屋に飛び込むことを決めても、出来ることなら一回目の裸眼での検査に合格できれば・・・という期待は持つものであります。

 私は高橋信次先生のみ教えを学ばせていただいたお陰で、神を信じ、天上の世界を信じ、守護・指導霊様の存在を信じ、肉体諸器官にも意識があることを信じておりますので、最後の手段は、守護・指導霊様への祈願、目の意識へのお願いと思っておりました。

 しかし私は基本的には、物事をお願いするということは、他力に通じるのではないかという思いを持っており、自力で出来ることは出来る限り、頼らないでいようと思っておりました。

 頼らないでいるから、依頼しないでいるから、全て自力で完結し、他力が与えられていないで物事が成就しているかと言いますとそうではなく、必要なときには他力の力を与えられていることを、今までにも何度も何度も、数え切れないほどの経験といいますか、感じさせていただいております。

 その体験はほとんどの場合、自力だけでは成就しないような案件の場合で、そのような状況は我々の人生には数多くあるのでしょうが、ほとんどの人はそれを、偶然とか、たまたまという言葉で片付けてしまっているのではないかと思っております。

他力と思える一例

 私はその昔、某大企業で営業の仕事をしておりました。

 一件の案件が何十億もするような物から、小さな金額の物まで、仕事の種類は種々様々でありましたが、自分の個人的な力と感じられるのは、一件数千万円から数億円の物件でありました。

 自社の技術部隊を動員し、お客様の所に足繁く通い、価格もお客様の要望に合わせるように持って行くのですが、それだけで注文が決まるものではありません。

 それ以外の何らかの要素、それはお客様の中心人物の意思、実は、これが一番の決め手であるということを、長年の営業経験から実感しております。

 仕様的にお客様の全ての要望を飲んでみても、価格をお客様の予算に合わせてみても、決めるのは当方ではなく、お客様であるということを、嫌と言うほど味わってきました。

 ある日、何の確証もなくお客様の所に顔を出すと、「○○さん、良いタイミングで来られましたね。この注文をお宅様に出すことにします」というような言葉に出会ったりしました。

 「どうして当社に決めていただいたんですか?」とお聞きすると、「どこに決めても良いという現場の意見だったので、今日、最初に来られる会社で、指値(お客様がこの価格で請けて欲しいという値段)を受けて下さる会社と決めておりました」というような言葉を聞かせていただくこともありました。

他力が与えられる最低限の条件は、全力を出しているか否か

 そこに何があるのか、目に見えない力、自分の力ではない力、「今日、この時間に、このお客様の所に行け」という他力と言っていいのでしょう、聞こえない声の存在を、正法に触れる前から、認めないわけにはいきませんでした。

 そしてその力は、自分が全力を出しているときにしか与えられないことも、自分の営業経験からも実感してきました。

 しかし、当然というと変に聞こえるかも知れませんが、全力を出しているから必ず他力が与えられるということはありませんでした。

 全力を出すということは、他力が与えられる条件ではあるのでしょうが、十分条件ではなく、只の必要条件に過ぎないものであるようです。それを更に超えたところに、他力の存在があるのではないかということを感じておりました。何故なら、全力を出し切っても、受注できない案件は山ほど有るのですから。

 そういう意味合いからして、守護・指導霊様、肉体意識にお願いするには、自分が全力を出しているか、今の私は正法に邁進しているかということが問われているのだという思いでおりましたので、そんなに簡単にお願いできるものではない、するものではないという認識でおりました。

 高橋信次先生は、「神仏に通じる早道は、ただ思うだけ、祈るのみではなく、八正道の生活を行なうこと、と知るべきである」、「神仏を始めとして、私達の守護、指導霊や、魂の兄弟達も、我田引水の祈願に対しては、協力されないことと知らなくてはならない。神仏の世界は、中道の正法によってすべてが定まっている」と、お教え下さっています。

 「正法に全力で邁進しているか?」と問われれば、その実体は自分が一番分かっているものですから、首肯できるものではないのですが、今回の場合は、裸眼での検査に不合格であれば、メガネを使用して再検査を受けるつもりでおりましたので、そこを押してのお願いという思いでおりました。

 しかし、特に目の意識に対しては、眼病の原因は自分の思い・行いの法から外れた結果であり、お願いできるスジでないことは分かりきっているのですが、いつも、「肉体生命のある限り、現象界の修行にご協力下さい」とお願いしていることもあり、免許更新の前日の夜の反省時に一回だけ、お願いをさせていただきました。

免許更新に行った結果

 8:30~9:30が受付だったので、車の運転で目に負担を掛けないように考え、早めに家を出ました。

 ゆっくりとした時間の中で、8:30過ぎに証紙の購入を行いました。

 視力検査を受ける前に、目を休ませるために少し休憩を挟もうと思っていましたが、「証紙を張られた方はこちらへ」というような呼び込みらしきことをしている人がいましたので、ふとそれに吊られて、そこへ行ってしまいました。

 すると、申請書の紙の一枚を取られて、必然的に列に並ぶことになり、その列が視力検査の列になっていました。

 チョット考えれば、そこは視力検査だと分かることだったのかも知れませんが、無意識に近い状態で並んでしまった列には20人ぐらいの人が並んでいました。

 列から抜け出して目の休憩を挟もうかとも思いましたが、流れに乗ろうという思いがして、そのまま列に並び、一応というか、再度のお願いを、守護・指導霊様と目の意識にさせていただきました。

 10分もかからない内に、自分の順番が来ました。

 双眼鏡のような所をのぞき込むと、検査官が、「どちらが開いてますか?」と、聞く。

 最初の輪っかは、結構大きなもので、直ぐさま、「右」と答えました。

 次の輪っかも同じ大きさだと思ったのですが、よく見えません。これが視力の弱い左目の検査だったのでしょう。

 よく分からないが答えなければと思い、思うままに、「上」と答えました。

 そして次の瞬間、無意識に、「あっ、下か!」と声を発していました。

 見えたわけではありません。明確に下と思ったわけでもありません。強いて言えば、何の確証もないのに、声が出てしまったと言った方が真実に近いのだろうという気がしています。

 ましてや、左目の苦手な左右の輪っかの欠けの状態でした。後で考えると、見えるはずがないじゃないかという思いがしたものです。

 その直後、思いもかけない言葉が検査官から出ました。「そうですね」と。

 そして、最後の検査は、輪っかが小さくなっていましたが、両眼の検査であったのでしょう、雑作もなく答えることが出来ました。

 そして、「結構です」と、検査官が言ってくれて、視力検査は完了。合格ということのようでした。

 「えっ!」と、思わず心の中で叫んでいました。

 そして同時に、「守護・指導霊様、有り難うございます。目の意識よ、ご協力、有り難うございます」と心の中でつぶやいていました。

 通常、この後に写真撮影をして講習を受けた後に、新しい免許証の交付になるのですが、私の場合は事前に講習を受けていましたので、写真撮影をして10分後くらい、9:00過ぎには新しい免許証の交付を受けることが出来ました。

守護・指導霊様、目の意識の協力はいただけたのか?

 左目の検査で言い直した時、検査官が不審に思い、他の輪っかを出していたら、検査はパスしなかったかも知れません。いま思い返すと、きっとパスしなかったであろうという気がしています。

 「上」と思ったのに、何の脈絡もなく「下」と言い返し、検査官が、「そうですね」と相づちを打ってくれる、そんなことを期待する方が無理で、あり得ない出来事と言っていいのかもしれません。

 神を信じないで、あの世を信じないで、肉体組織一つ一つに意識のあることを信じられない人には、とても目に見えない存在意識の協力を頂いたなどとは思えないことでしょう。

 また、免許更新の検査官はいい加減だ、と言う人もいらっしゃるようです。

 そうかも知れません、そうでないかも知れません。でも、そんなことはどうでも良いことなんです。大事なのは、お導きを頂いたか否かということ、そう思えるか、そう信じられるか否かということだと思っております。

 自分の意識は見えません。人さまの意識も見えません。当然、守護・指導霊様の意識も見えません。肉体意識も、あっても見えません。

 肉体があり、自分に、人に意識のあることは実感として分かっているから、人の意識は目に見えなくてもあると思っています。

 動物は、意思表示をするから、やはり意識があると思っていますが、植物は果たして意識があるんだろうかと思われる方も多いことでしょう。

 肉体は目に見えても、それぞれの臓器に意識があるとは、実感がないからなかなか思えないものかも知れません。

 植物は自発的には動かないとは言えども、人間の意識に応えてくれるという話は良く聞くところであります。

 そういう意味合いからして、人間の臓器は、植物に似ているかも知れませんね。

 何かの折り(マラソンなどを走っているとき)に肉体の一部(足や膝など)に「頑張れ!」と叩いたり叱咤激励をして、頑張り通せた経験をした人は沢山いらっしゃるのではないでしょうか?

 それでも、肉体が自分の意識に応えてくれたという実感、確信が持てないから、信じられないという方も沢山いらっしゃるのでしょうね?

 まず、肉体意識と会話をする、目に見えない存在と交流をする、その第一歩は、信じるということではないでしょうか?

 信じないで、相手が協力してくれるはずがないと思われませんか?(それでも協力し続けて下さっているようなんですが・・・)

 私は幸いなことに、守護・指導霊様も、目の意識も、今回の視力検査に協力をして下さったと、心底から信じております。

 もっともっと、それらの存在の方々と意識の交流が出来ますよう、正しい道を歩む実践を続けたいと思わせていただきました。

 免許更新ができたということもさることながら、我が願いに応えて下さったのではないかということ、守護・指導霊様、目の意識と交流ができたのではないかということが嬉しく、翌日の夕食は外食にして、家内と祝杯を上げさせていただきました。

 お力添えを下さいました守護・指導霊様、目の意識に、心から感謝申し上げます。

 この運転免許更新に関わって下さった全ての皆さま、存在に感謝申し上げます。

 誠に、誠に、有り難うございます。有り難うございます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする