「神を間に置く」ということは、究極の「正見」「正思」「正語」であり、反省の正しい基準でもある-その2(続編)

前置き

 先般、『「神を間に置く」ということは、究極の「正見」「正思」「正語」であり、反省の正しい基準でもある』というブログを上げさせていただきました。

 神を間に置くということは前掲のブログにも書きましたように私にとっては、偉大な主・高橋信次先生が目の前に立っておられる、偉大な主がお話をされている、偉大な主が聞いておられる、偉大な主が「このテーマをどう捉えますか?」と聞いておられるという意識で、目の前の方に接するということであります。

 この意識を把持していれば、「正見」「正思」「正語」という八正道の根本から外れることがないということでありますが、常にそれを意識することはそんなに容易いことではありません。

 失念してしまって、反省の俎上に上げることもしばしばなんですが、これを意識することが自己確立への一歩であり、偉大な主の御心に近づく一歩でもあると思わせていただいております。

 先般、このテーマのブログを上げさせていただいてから、その後の出来事について、書かせていただきます。

歯医者での出来事

 ある日、歯にチョットした支障が出て、行きつけの歯医者に電話をして、当日の割り込みをしたいと言いましたところ、この歯医者との長い付き合いで初めてのことなんですが、今日は満杯で、受付が出来ないと言われました。

 仕方がないので、翌日の朝の予約をしました。

 今までの習慣宜しく、早速毒を食べてしまい、『今日の看護婦はチョット突っけんどんやったな。明日、医者に、「昨日、看護婦に断られた」と言ってみるかな?』などと思ってしまいました。言うなれば告げ口ですね。

 また、偉大な主を間に置くことを失念してしまっており、いつもの如く、自我にとっては美味しくて仕方がない毒饅頭をいただいてしまいました。

 夜の反省で、あの看護婦が高橋信次先生であったなら、「あゝ、有り難うございます。あの時間に車を駆って伺うということはきっと、事故にでも遭うよ、歯の支障は1日を争うことではないでしょう?」と仰って下さっているように思えました。

 深く深く、お詫び申し上げました。

 翌日、歯医者に行き、10分もかからず、治療というか、処置をして頂きました。

 これで処置は終了と思っていたのですが、先生が、「来月の初めくらいに、念のため、様子を見ておきましょう」と言われたので、仕方なく、半月余り先の予約をしました。

 帰り道、「もう行かんでええと思うのに、どうしようか? その日が近づいてきたら、都合が悪くなったといってキャンセルしようか、それとも、問題ないから電話でもして、行かないでおくと言おうか?」などと考えあぐねておりました。

 これも歯医者の先生の処置に対する批判、非難であり、明らかに毒を食べているということであります。

 又しても即座に偉大な主を思い浮かべることが出来ず、夜の反省で、あの歯医者の先生が、高橋信次先生であったなら、「はい、悦んで、伺わせて頂きます」と思っていたことでしょう。

 明らかに人を見ている、歯医者の先生を下に見ている増上慢の思いが顔を覗かせていることをお教え頂きました。

 一件の歯の治療で、二度に亘り、自分の思いの愚かさをご指摘頂きましたことを、心からお詫び申し上げると共に、気づかせて頂いたことに、深く感謝申し上げました。

実践できた嬉しいことも一件

 ジモティという地元で不用品などを直接会って売買するサイトがあります。メルカリ等のネットフリマの地元界隈で直接取引版といったところでしょうか。

 私はよくこのサイトを利用しており、ある日、正規に購入すると4~5千円くらいと思われる商品が、出品者にとっては不要ということで、新品で千円で出ておりました。

 隣県で、小一時間かかるのですが、どうしても急ぎで欲しい商品だったので、日時を決めて、購入することで合意しました。

 ところが、約束の日時に約束の場所に行っても、現れてくれません。

 5分ほどたったので、『もう着いておられますか?』というメール(ジモティでは全てのやりとりを、当事者同士ではなく、ジモティ経由でしか出来ないようになっています)を打ちましたが連絡がありません。

 仕方がないので、15分ほどしてから、『待つことはやぶさかではないんですが、連絡がありませんので、どれくらい待てばいいのか目処が立ちませんので、本日は失礼します』というメールを打ち、しばらく待って返信が来ないことを確認して、帰路に向かいました。

 自宅に帰った後、約束時間の2時間半ほど後に、本人からメールが来て、「大変申し訳ございません! 日にちを間違っておりました…申し訳ないので郵送で送らせていただきます。ご住所を教えていただけますでしょうか?」とのメールが参りました。

 私は至急欲しい商品だったものですから、自宅に帰り、似たような商品を譲ってくれる方を物色し、翌日、その商品を受け取りに行く約束をしておりましたので、高い費用をかけて送っていただく必要もなく、次のようなメールを打ちました。

 『お申し出、有り難うございます。誰しも勘違いはあるもので、気にしておりませんので、また別の方に譲ってあげてください。私は早々と別の方にお願いをして、明日、引き取りにいくことにしておりますので、この商品がなくて困るということもありません。今回は単に、縁がなかったということで、またどこかで縁がありましたら、嬉しいですね。ご連絡、有り難うございました』

 相手方からは、次のようなメールがやってきました。

 「大変申し訳ございませんでした😂 こちらまでわざわざ来ていただいたにも関わらず不愉快な思いをさせてしまい申し訳ございません。また機会がございましたら宜しくお願いいたします」

 私は実は、このメールのやりとりを、ほぼ当たり前のようにやっていたことを、後に気づいた次第です。

 高橋信次先生を思い浮かべることもなく、一度も非難の思いを持つこともなく、無意識に近い状態で、当たり前のようにやっておりました。

 他の出来事に対してもこのような対応が出来るという積もりも自信も、まだまだないのですが、一件たりともこのような対応が出来たということ、それも思い返してそうしたのではなく、最初から当たり前のように出来たことが嬉しく、夜の反省では、守護・指導霊様に、お礼の言葉を述べさせていただきました。

 お陰様で最近は、毒を食べることが少なくなってきたということではなく、毒饅頭が目の前に現れることが少なくなってきたのではないかと思わせていただいております。

 偉大な主を目の前に意識することを努力すれば、そのような出来事自体が減ってくるのかもしれませんね。
 わざわざそんな出来事を準備する必要はないね、と。

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