電車の中で席を譲る(でんしゃのなかでせきをゆずる)
光輔君が、一人でお遣い
ある日のこと、光輔君は、お父さんの実家へ、一人でお遣いに出掛けることになりました。
お父さんの実家は、光輔君の家からは少し郊外の、緑の多い静かな町並みの中にありました。
光輔君の家の近くの電車の駅からは、一時間ほど、電車に乗っていくことになります。
お父さんの実家に一人で行くのは、今日が初めてですが、何度もお父さんやお母さんと一緒に車や電車で行っているので、不安は全くありませんでした。
用事は、この前に行った旅行のときに買ったお土産を届けることでした。
お母さんからお土産を受け取って、駅まで歩いていき、切符を買って電車の来るのを待っていました。
電車の中で
平日の昼間なので、電車は空いていて、光輔君は、座席に座ることが出来ました。
何駅か停まった後に、比較的大きな駅に停まると、たくさんの人が乗ってきて、座席は全部埋まってしまい、立っている人がたくさんいました。
ふと見ると、光輔君の一つ横に座っている人の前に、だいぶん歳のいったお爺さんが立っていました。
そのお爺さんの前で座っているのは、若い女の人でしたが、その女の人は、お爺さんに席を譲る気配がありませんでした。
光輔君は、「席を替わって上げないといけない」と思いました。
すぐに、お爺さんに向かって声をかけようとしましたが、どうしたことか声が出ません。
立ち上がって席を譲らなければいけないと思っているのに、身体が動きません。
光輔君は焦りました。「席を替わって上げたいのに、どうして思い通りに身体が動かないんだろうと?」と思いました。
そうこうしている内に、車内のアナウンスで、「次は○○。次は○○」と、次の停車駅の案内がありました。
光輔君は、ここで席を立たないといけないと思い、思い切って立ち上がりました。
でも、何か恥ずかしい気持ちが先に立ち、そのお爺さんに話しかけることも、顔を見ることも出来ませんでした。
だから光輔君は恰も、次の駅で降りるかのように席を立ってしまい、ドアの近くに立っていました。
しばらくして、自分が座っていた席はどうなっているだろうか、お爺さんが座ってくれただろうかと、そっと見ると、自分の前に立っていた男の人が座っていて、お爺さんは相変わらず、立ったままでした。
光輔君は思いました。「何であの男の人は、隣で立っているお爺さんに、席を勧めてくれなかったんだろう?」と。
それからまた、何駅かが過ぎました。
車内もだいぶ空いてきて、光輔君も座席に座ることが出来ました。
ふと、あのお爺さんはどうしているかと探すと、ちゃんと座席に座っていました。
光輔君は、「良かった」と思って、持ってきた本を広げて読み始めました。
また何駅かが過ぎました。
目的の駅に近づいてきました
もう少しで、光輔君の降りる駅です。
「もう少しだな」と思って、なおも本を読んでいると、誰かが光輔君の座っている前に立ちました。
「誰だろう?」と思いながら見上げると、そこには、先ほど、席を譲って上げないといけないと思っていたお爺さんが立っていました。
そして、「坊や、あなたの親切、心に染みましたよ。ちゃんと座れましたからね。ありがとう。
大きくなっても、その綺麗な心を忘れないようにして下さいね」と言って、手を差し出しました。
光輔君は、握手をしようと言っているのだと思い、お爺さんの手を握りました。
ゴツゴツした、決して柔らかい手ではなかったけれど、温かい手だなあと感じました。
そして、光輔君も立ち上がって、「有り難うございました」と言っていました。
やがて目的の駅に着き、お父さんの実家に行って、お祖母さんにお土産を渡すという用事を済ませ、光輔君はまた、帰りの電車に乗って、自分の家に帰ってきました。
お母さんとの会話
夕食のときに、光輔君は、お母さんに、電車の中であったことを話しました。
お母さんはちょっと悲しそうな顔をして光輔君に話しかけました。
「光輔、そのお爺さんに、席を替わって上げようとしたことは素晴らしいことなんだけど、どうして席を譲って上げようと、声をかけることが出来なかったんだろうね?」
『うーん、何だか、声をかけるのが恥ずかしい感じがしてしまったんだ』
「どうして声をかけるのが恥ずかしいと思ったんだろうね?」
『お爺さんが自分の目の前にいるわけじゃないし、そんなことをすると、他の人が変に思うんじゃないかという気がしたのかなあ?』
「そんな風に思ったってことは、お爺さんの困っているのを助けて上げようということよりも、自分が人からどう思われるのかっていう方が大事だったんだね?」
『うーん・・・そんな風にキチンと考えていたんじゃないんだけれど、そう言われると・・・』
光輔君は、お母さんに問い詰められて、口ごもってしまいました。
良いことをしようとするには、勇気が必要
「光輔、あなたが席を譲って上げようと考えたことは、とっても素晴らしいこと。
今の世の中、そんなお爺さんやお婆さんがいても、眠くもないのに目をつぶって知らん振りをしたり、本を読んで気づかないふりをしたり、そんな人が多い中で、席を譲って上げようって思ったことは、本当に素晴らしいことだと思うの。
でも、その思いを実行に移さないと、席を譲って上げるということ、お爺さんやお婆さんが悦んでくれるということにはならないわね?」
『うん』
「あなたは、半分実行に移した、少しは実行できたと思っているかも知れないけれど、結果としてお爺さんはあなたの立った席に座れなかった。
それでは、席を替わって上げないでいる人や、次の駅で降りる人がただ単に席を立ち上がったことと、何の違いもないわよね?」
『うん』
「お祖母さんがいつも言っているでしょう?
正しいことをするには、勇気が必要なんだって。
そして、その勇気を出すには、今回のことをよーく反省して、今度は絶対に勇気を出して実行するぞって、心に誓わないと、また、そんな機会があっても、人はどう思うだろうかとか、良い格好していると思われないかだとか、詰まらないことに気を遣ってしまうものなのよ。
よーく、今日の出来事を反省して、次からはきっとやるぞーって、心に誓うと良いわね」
『分かった。そうするよ』と、光輔君は答えました。
お父さんが帰ってきて
その夜、お父さんが仕事から帰ってきました。
お母さんはお父さんの夕飯の準備を終えて、お父さんが食べるテーブルに座って、話を始めました。
「今日ね、お父さんの実家に、この前のお土産を、光輔に持って行って貰ったの」
〈光輔が行ってくれたのか。チャンと間違えずにいけたか?〉とお父さんが聞きました。
『大丈夫、一人で行くのは初めてだったけど、何度も行っているからね』と、光輔君は答えました。
お母さんは、待ち遠しいという感じで、言葉を続けました。
「それでね、その電車の中でね、こんなことがあったんだって」と、光輔君から聞いた話をすべて話しました。
《それは良いことをしたね。
声をかけられなかったのは少し残念だが、そのような思いを持つということは、本当に大事だからね。
そのお爺さんも今頃お婆さんに向かって、今日、こんな嬉しいことがあったんだよって話しているかも知れないね》と、お父さんが言うと、光輔君は、
『お母さんと色々話したんだけどね、きちんと声を出して言えなかったようなことでも、あのお爺さんは悦んでくれたんだから、今度そんなことがあったら、何が何でも勇気を出して、「ここに座って下さい」って声をかけるって決心したんだ』
と言いました。
《おお、凄いね。
それでこそ、お母さんの子供だ》と、お父さんが言うと、
「あら、お父さんの子供でしょう?」と、お母さんが言いました。
光輔君は、『僕は二人の子供だよ!』と叫んだので、三人は大笑いをしました。
光輔君はそれから先、何度も何度も、沢山のお年寄りの方に、電車やバスの中で座席を譲って上げました。
『お爺さん、お婆さん、ここに座って下さい』って、声をかけて・・・。
そして光輔君は思いました。
勇気が要るのは最初だけで、二回目からは、当たり前のこととして出来ることを。
そして、ちょっとした勇気、最初の勇気だけで、誰でも、みんなが出来ることなんだって。
だから、日本中の人がこんなことを始めたら、日本は素晴らしい、こころ温かい国になれるのだろうなって。