交通事故まがいが頻発することに対して、守護霊様は私に何を伝えたいのか?

第一の事故まがい

 今年の4月、車で30分ほど離れた初めて通る細い道を走っているとき、目的地の角を通り過ぎてしまったので、少しバックして、目的地の方へ左折しようと思いました。

 その道は、私が通り過ぎて停止したときは、後続車はいなかったので、その感覚だけを頼りに、バックする直前の後方確認を怠ってバックしたところ、後ろから警笛を鳴らされました。

 当然、その警笛がなかったら、知らぬ間に後ろにいた車に衝突してしまうところでありました。

 私は急ブレーキをかけ、危うく難を逃れることができました。

 何故に、バックを始めるときに、後ろを確認しなかったのか?

 魔が差すときとは、このようなことが起こるもの。

 偉大な主・高橋信次先生は、『歩道を歩いていて後から自動車にハネられる、頭上から鉄材が降ってきて思わぬ怪我をすることなども、同じように、(悪霊の)憑依による現象です』とお導き下さり、そして、それを呼び込んだのは『あなたの思いと行いなんですよ』、とお教え下さっています。

 然らば、私の何が魔を呼び込み、この事故寸前をもたらしたのか?

第二の事故まがい

 私は第一の事故まがいが起こった後、その事故まがいとは関係ないのですが、諸々の事情で、その車を売却しました。

 そして、50ccの原付に乗ることにしました。

 乗り始めて間もないある日、ある交差点に差しかかったとき、私は直進、前方には右折車が待機しています。

 信号は青だったので、私の前の車両が前進右折し、少し間が空いて私のバイクが直進を始めました。

 前方の対向車の右折車が少し前進を始めましたが、当然停止するだろうと思って、私が直進したところ、その車は私の存在に全く気づかないように大きくハンドルを切ってきました。

 恐らく私の前を走っていた右折車の陰に隠れていた私のバイクを見落としたのでしょう。

 私は、バイクに乗り始めて間がないことと、ブレーキをかけつつ警笛を鳴らすというような芸当が出来ないこともあって、私のバイクは交差点の中央付近で停止したまま、近づいてくる車に大声で『止まれ~』と叫んでいました。

 近づいてくる車は右折なのでそれなりの徐行ではあるものの、私のバイクが目に入らないようで、私は『ぶつかる!』と、心底思いました。

 恐らく数センチ、その車は間一髪、私のバイクに気づいて、ブレーキをかけて停止しました。

 結果として事故は起こらなかったので、何事もなかったように、前方の車の向かって右側を通過(そこまで車はハンドルを切っていたということです)して、私はその場を離れました。

 バイクは、その存在が小さいから、相手が気づいてくれるなどと考えてはいけない、自分の身は自分で守らなければならないと思いました。

 今回の魔は、私ではなく、車両の運転手に憑いたのであろうか? それとも私の危険予知の判断を遅らせる、私の注意力を鈍らせる働きをしたんだろうか?

 いずれにしても、私が魔を呼び込んだ主人公であるということは、間違いのない事実なんでありましょう。

反省

 最初の事故まがいのときは、お救いをいただいたと思って、大きな感謝を捧げたことは言うまでもないことでありますが、この事故まがいを、自分が引きつけたとは夢にも思いませんでした。

 反省においても、2~3日、感謝を申し上げただけで、お終いにしておりました。

 二回目の事故まがいは、表面上というか、道路交通法上は相手の不注意であることは間違いのない事実なんではありますが、相手が悪いなどと、私は露ほども考えることはありませんでした。

 運転していたのは中年の女性でしたが、『一姫、二虎、三ダンプ』などと思うこともありませんでした。

 偏に、自分が引きつけた、自分の思いと行いがこの現象を引き起こしたのだと思いました。

 すぐさま、その日の夜から反省を初め、この原因を探ることにしました。

 しかし、反省のまな板に乗せても、なかなか、これだと思うような自分の思い・行いに突き当たりません。

 二日経ち、三日経ち、毎日の反省はこのことばかりを対象に取り上げました。

 そして数日後、やっと、『法の実践に関し、自分で決めた最低限のことはこなしているから、それでいいと思っているわけではないが、これ以上、何をすればいいのかが分からない』という思いがあり、新たなステップに踏み出せず、旧来のやり方を踏襲しているだけであることに気づきました。

 これ以上何をすればいいのだろうかという思いがあることは前々から気づいていましたが、この思いこそが、今回の事故まがいの引き金であるとは、なかなか思えなかったのです。

 しかしやっと今回の反省で、これこそ私が抱え込んでいた時限爆弾であるという思いが、自分の心にぴったりと腑に落ちることになりました。

山で迷ったときは入口に戻れ

 丸山弘先生は、『「道に迷ったら、山の入り口に戻ること」即ち、再び初心に帰ってご著書を拝読されることです』とお教え下さっています。

 『このままでいいのか?』『今のままでいいのか?』、行き詰まったなら、ご著書の拝読に戻りなさい。

 「いえ、毎日、回数を決めて、ご著書の拝読をさせていただいております」と、自我が反論します。

 「では、もっとページ数を増やしなさい。回数を増やしなさい。読み方を工夫しなさい。心に落とす読み方をしなさい・・・いくらでも、やることはありますでしょう?」と、我が守護霊様は、このようにお教え下さっているようです。

 所定のページを読みこなしたからそれでいいという読み方ではなく、上っ面だけを読み進んだ気がしたら、お書きいただいている意味を汲み取れるように、元に戻って拝読させていただく、熟読させていただく、更に、少しですが、拝読させていただくページ数を増やさせていただくように致しました。

過去にも何度も繰り返した過ち・・・心から決心したつもりなのに、その決心が続かない

 十数年前、妻が手首を骨折し、その事故に孫も巻き込まれそうになったとき、妻の怪我ではありますが、私の目に映ずることは私に関係があるとお教えいただいておりますことから、私は反省の結果、次の二つのことを行うと決心しました。

 一つは、この世的な欲望、煩悩、執着を排除するということ。

 今一つは、私が、僕が、自分が、という「自分」をなくすということ。

 事故も大きな事故であり、そのショックも大きかっただけに、反省も深く、決心もそれにつれて、大層なものになってしまいました。

 しかしその決心の中身は、その当時もさることながら、いまの自分の心のレベルの実態とも大きくかけ離れた決心であることが分かります。

 そして、半年、一年と経つにつれて、この決心は、どこかに消え去ってしまっていました。決心したことすらも忘れしまっていたようです。

 決心したことすら思い出せないのですから、申し訳ないを通り越して、不遜な思い・行いであると言わざるを得ないでしょう。天と約束をして、その実践をしないのですから。

 しかし、言い訳になりますが、10の高みの決心をしたとしましたら、2か3ぐらいの高みには登ることが出来たのではないかという気もしております。

 私は幸い、過去の出来事をブログに残しておりますので、この20年ぐらい、何を思い、何を反省し、どんな決心をし、決心まで行かなくても、どうしようと思ったりしたことが、文章として残っております、

 これらを再度、読み返し、いま出来ることを、ピックアップすれば、いくらでもやり残したこと、これからやるべきことが浮かび上がってくるのではないかという思いが致しました。

 「これから何をすればいいのかが分からない」のではなく、やり残してきたことがたくさんあるのに、それを失念してしまっているだけなのではないか、それを思い返させるために、守護・指導霊様は、これらの事故まがいで、伝えようとして下さったのではないかという風に思えました。

 日々拝読することに決めているご著書等の拝読を更に深化させることに加え、過去のブログを読み返すことを、日々の時間スケジュールに組み込み、過去の諸々の出来事に伴って決心した事柄に思いを馳せ、いま現在にそれを取り戻すことをさせていただこうと思わせていただきました。

 即ち、過去にご指導いただいたことや自分の決心を思い返し読み返し、いま再び法の光を当てるということが大事な事柄であろうと思わせていただきました。

総括

 今回の事故まがいをお救いいただいたことの意義を、下記のように整理させていただきました。

1.上っ面でなく、書かれている意味を汲み取れるようなご著書の拝読の仕方をし、一日の拝読ページ数も、若干ではありますが、浪費している時間をご著書拝読に充て、増やすことと致します。

2.そして、ご著書拝読の中から、いま何をしたらいいか、という思いに対する答えを見つけ出す努力を致します。

3.過去の自分の思い・決心を振り返り(過去のブログを読み返し)、未解決のテーマに再チャレンジさせていただきます。

 大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、お導きを心から感謝申し上げます。

 誠に、誠に、有り難うございます。有り難うございます。

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