『全ては自己責任、ひと様の所為であるということは一毫もない』、ということが心に落ちるまで

プロローグ

 『原因があるから結果が生まれる』『作用反作用の法則』『蒔いた種は刈り取らなければならない』等々、たくさんの法則を、偉大な主・高橋信次先生のご著書からお教えいただいてきました。

 しかし残念ながら、これらのみ教えは、私の頭の中を素通りしていたようで、何十回、何百回と目にしていたにもかかわらず、全く身についていないと言わざるを得ませんでした。

 『全ての原因は自分にある。ひと様の所為ではない』、耳にタコができるほど文字で読み、目に焼き付けて来たはずでしたのに、心に落ちることはなく、実感として受け取れたものではありませんでした。

 しかし幸いなことに、この度、この事柄が、天啓のごとく心に響いて参りました。

 最初は湧き上がってくる想いに、「これは何だ?」と、呆然としていましたが、次の瞬間、海潮のごとく、「そうか、そういうことか!」と、感激の思いが湧いて参りました。

 しかし、ここに至るためには、ちょっと辛い、いくつかの出来事を体験しなければならないという、プロセスが必要だったのでしょう。

 今となってはその全てが有り難い出来事だったと思えるのですが、その経緯を書かせて頂きたいと思います。

一つ目の出来事:購入したオペラグラスがまがい物であった

 ある日、ミュージカルを見に行くことになりました。ミュージカルと言っても、ある大学での学生の演目であります。

 何年も見ていないというよりは、初めてのような観劇の機会でした。

 オペラグラスが要るということで、ネットで探しました。

 3倍程度の倍率で良いと思いましたが、今の世の中だから、双眼鏡のようなモノではなく、眼鏡のように耳にかけるモノがあるのではないかという思いがしたので、眼鏡型オペラグラスを探しました。

 ありました。ちょうど倍率も3倍で、値段も手頃に思えました。

 早速注文し、数日後には届きました。

 ところが、倍率3倍とは謳っているものの、実際の見え方は、1.2倍~1.3倍くらいの感じでしかありませんでした。少しは大きく見えるなぁという感じでしかありませんでした。

 一応、出品者に、その旨を伝えました。

 二度ばかりやりとりをした後、出品者は、『代品を送る。先送したものは処分して下さい』と言ってこられました。

 誠実な出品者だと考え、『使い物にならないわけではなさそうなので、それなりの使い道を考えます。このままで取引完了とさせていただきます』と、返事をしました。

 誠実な出品者でなかったとしても、文句を言うつもりではなく、温和しく引き下がろう、自分の心を汚さないでおこうとは思っておりましたので、この処置を自慢するつもりはないのですが、こんな風に考えられたこと、自分の心を乱さなかったことを、それなりに有り難いと思えました。

 ただ、今から考えると、許してやった、自分の心に毒を食べないで良かった、どうだ素晴らしいだろうというような、増長慢の思いに通じる感情がいくらかなりともあったのかもしれないという気は致します。

二つ目の出来事:マンション管理組合総会での理事長の不遜な態度

 私はとあるマンションに居住しており、毎年春先に管理組合の総会があります。

 昨年、その総会で私は、高齢化が進み、年齢と肉体的な問題によるマンション管理組合の役員の免除、役員の報酬制や役員にならない人の費用負担など、総合的な検討が必要な時期に来ていると思われるので、次年度の理事会で検討して欲しいとお願いをしました。

 次年度理事長は、『分かりました。何らかの検討結果を報告できるように致します』と明確に答えてくれました。

 今年2月、管理組合の総会が開催されました。

 事前に議案書が配られるのですが、年齢による何らかの規定は一切なく、逆に、『役員は委任状を出せば、出席したと見なす』という規約変更案が記載されておりました。

 私が年齢による何らかの規制を検討したかったのは、輪番制の役員を辞退するのは高いハードルがある(例えば○○歳以上で肉体的事情のある方に限り、更に辞退者は一定の金額負担をする)ので、高齢になっても、役員ができる人は役員を続けるということを目指すのが目的であったのですが、この委任状は、極端な言い方をすれば、12回出せば役員会に出席しないでも良いという風にとれる規約改正に思えました。

 私はそのことを質問しましたが、理事長(総会の議長)は、『その行為を規制することは出来ないが、人間の善性を信じる』という回答でした。

 わざわざ危惧される可能性があることを規約に盛り込むことは無いのではないかという質問にも、『今も暗黙の了解で実施していることを明文化するだけです』との回答でした。

 この理事長は、この管理組合を良い方向に持っていこうという意識ではなく、自分の順番をなんとか無難に終わらせようとしているのではないかと思え、義憤を感じたものでした。

 次いで、年齢に関する規約変更についての検討結果がどうなったのかを質問しますと、『現状特に問題がないので、検討しないことにした』との返事でした。

 私はちょっとした怒りを感じ、『管理組合はそんな程度で良いのですか?』と言いますと、『そんなもんでしょう』と、木で鼻をくくったような回答で、「ああ、元々考え方の土俵が違うのだな」と、質問を打ち切りました。

 しかし、私の高ぶった感情は収まりませんでした。

 いくら土俵が違う、人にはそれぞれ考えがある、人の思いを変えることはできないなど、いろいろご著書などから教えていただいたことを思い返しても、感情は収まりを見せてくれませんでした。

 夜の反省をじっくりとしました。

 理屈は分かっているのですから、理事長を責めることも、自分の怒りも法から外れているということは理解できるので、表面上は平静を装えるのですが、心の奥底ではまだまだ割り切れないものを感じておりました。

 お釈迦様が修行中に、心ないバラモンから、「所詮は、武士は武士、商人は商人、奴隷は奴隷である。それが今の社会の姿だ。素人の貴公たちが神の子たる使命を果たすことは、もともとできるものではない」と言われ、「太陽は、バラモン種のみに、暖かい日ざしを与えているか。私たちにも平等に与えているわけはどういうことか……」と反論されました。議論には打ち勝ってもお釈迦様は、感情の高鳴りほど悟りにはほど遠いものはないと慨嘆されたことが、ご著書に書かれております。

 お釈迦様と私では、比べることもできないことは承知しておりますが、この場面を思い出し、自分の感情の高鳴りをなかなか抑えられないのも、自分の思い・行いの故であると、反省させていただきましたが、平静な心に戻すには長い時間がかかることが実感されました。

三つ目の出来事:交通違反

 上記の総会があった2~3日後、まだまだ感情的には平静とは言えず、思い返す度に心にモヤモヤを感じていましたが、所用で隣接した大都会に出かけることになりました。

 かなり余裕を持って出発したのですが、大都会の車の混雑は想像以上で、約束の時間ギリギリになりそうな感じで、気持ち的にも焦りを感じていたことでしょう。

 ある交差点で、先頭で信号待ちをしていて、信号が変わったので、左折をしました。

 一瞬、左折した前方の赤信号が少し遠くにあるなという気がしました。同時に、停止線の白線があることにも気づきましたが、恐らく気が急いていたのでしょう、停止線で停止することなく、そのまま進んでしまいました。

 警官が出てきて、停止を命じられました。

 「信号に気づかれませんでしたか?」との一言に、「しまった」という想いがしましたが、時すでに遅し、信号無視の切符を切られることになってしまいました。

 約束にも若干遅れてしまいましたが、事前に連絡をしていましたので、相手が待っていてくれて、無事、用事は済ませることができました。

 この出来事は恐らく、先述の管理組合総会での心の高鳴りを収めることができず、心に曇りを作ってしまい、更に時間を気にしすぎる余り焦ってしまい、守護・指導霊様の注意を聞くことができなかったのだろうと、反省を致しました。

 原因は自分にあるとは言え、信号無視をし易い信号配置になっており、更に警察官がねずみ取りのように待ち構えているということに、違和感を感じていました。ズルイ、と。

 100%自分の責任であるということに、心がなかなか納得しませんでした。

 反省しても、反省しても、先の総会の出来事といい、今回の出来事といい、割り切れない想いを抱え込んでおりました。

 夜だけでなく、昼間も時間があれば反省をしましたが、この二つの出来事はなかなか心をクリアーにすることが出来ませんでした。

四つ目の出来事:購入した八朔がパサパサであった

 先述の都会への出かけた用事は、八朔を生産業者から直接購入するために出かけたものでありました。

 交通違反で切符を切られたり、約束の時間に遅れながらも、無事、購入できたことは、ひとまず良かったと、安堵しました。

 しかしその翌日の夜、その八朔を食べたところ、中身がパサパサで、とても瑞々しい八朔と言える代物ではありませんでした。

 外見は、何の不自然さもありませんし、贈答用のように綺麗な肌つやをしていましたので、恐らく生産者も、中身がこんな状態になっているとは気がついていなかったのかも知れません。

 余り美味しいと思えないながらも、勿体ないという想いから、その日に出された八朔は全て食べることにしました。無理すれば何とか食べられるというレベルのものでしかありませんでした。

 次に剥いた八朔も、もしこんな状態であったら、生産者にクレームを言わなければダメだな、などと思っていました。

 そして寝る前の歯磨きをしているその真っ最中に、天啓のように、いえ、天啓でしょう、ひらめきが大きな衝撃と一緒に舞い降りてきました。

 『全ては自己責任である。一毫も、ひと様の所為であるということはないのである』

 ご著書からも、何度も何度も、目にした言葉であります。

 例えば、『すべて不幸の原因は己自身にあり、生活の不調和がもたらしたものであり、責任は他にはない。その原因を追求し、その根本をとり去る、心の反省の中から前進があるのである・・・心の発見(神理編)P184』

 『どのような苦しい生活もしかし自分自身に原因があるのであり、決して他人の故ではない。蒔いた種の結果は、自分で刈りとるのが神仏の子としての掟である・・・心の発見(科学編)P237』

 ご著書には、これに類する言葉が随所に散りばめられています。

 これでもか、これでも分からないのかというほどお教えいただいています。

 100回以上拝読していても、分からなかったんでしょうね、心では。

 頭では十分すぎるほど理解しています。この文章は何度も読んだと思いながら拝読することもしばしばであります。

 でも、いつものことですが、悲しいながら、心に落ちていなかったんでしょうね。

 100%自己責任なんだと、自分で背負い込むことができなかったんでしょうね。

 それは、キチンとした反省ができていなかったからかも知れません。別の面から言うと、キチンと反省をするような出来事、大きなショックを受けるような出来事に出会していなかったからと言えるのかも知れません。

 そういう意味からして、この一連の出来事、特に交通違反は、ある人にとっては大した出来事ではないかも知れません。お金さえ払えば、それで終わりなんですから。しかし、私にとっては、崖から突き落とされたような、大きな大きな出来事でありました。

 正法に帰依し、長い年月それなりの実践を重ねていたにもかかわらず、このような交通違反をしでかしてしまった衝撃は、私にとっては自分の正法への姿勢を否定しかねないほどの衝撃でありました。

 そして同時に、有り難い有り難い、天からの警告でありました。いえ、今の心境は、天からの贈り物、そう思えて仕方がありません。

 冒頭に書きましたように、この想いが湧いてきたときに、先ず『なに?これ』という想いが湧き、その次の瞬間、『うわー』という感動というか、大きなうねりのような感情がわき上がってきました。

 歯を磨きながら、『そうだったんだ! そうだったんだ! 有り難うございます。有り難うございます』と心の中で叫んでおりました。

 この事柄が、全ては自己責任であるということが、心に落ちた瞬間と言えるのでしょう。

 ただ、このことは、いままで心で理解できなかったことが、単に『そうなんだ』と、腑に落ちただけのことでありまして、自分の身についたかというと、これはまた、別問題であります。

 カルマの解消に関しまして、『信だけでは人間の業(カルマ)を変えることは出来ないのです。人間の心を変えるものは、『理解と行為』なのです』とお教えいただいております。

 キチンと理解が行き届いた(心に落ちた)ならば、実践によって、我が物としなければ、到底、真に心に落ちたということは出来ないことであります。

 これからどれだけの時間が掛かるのか、大きなテーマだけに、当たり前の思いに至るにはたくさんの山谷があると思われますが、このお導きを大きな悦びとして、その山谷を乗り越えていきたいと思わせていただいております。

プロローグ:理解できても、当たり前の如く実践することの難しさ

 このブログを書いている最中に、こんな出来事がありました。

 家の近くの片側一車線の道路を車で走っているときです。

 反対側の歩道から、一人の男性が、両手を上げて歩いてきます。

 私が通過するときは、道路の中央辺りまで来ていました。

 私は、その意図が瞬時に理解できず、「何をしているんだろう」と思いながら、若干スピードを落としてその横を通過しました。

 その時、右側の歩道を見ると、高級そうな車が、こちらの車線に入ろうとしているんだなという感じがしました。

 私の後続の車が停止して、その車を自車の前に入れていましたので、そういうことなんだと理解しました。

 私は瞬間的に、「もっと分かりやすい動作をすべきであろう。どれだけの偉いさんなんだ、こんな強引な入り方をするのは」という想いが湧いてきました。

 そこは選挙運動期間中の選挙事務所だったので、「あれが立候補者だったら、頼まれても入れないだろうな」等々、非難・反発・怒りがどっと押し寄せました。

 何でこんな感情を抱くの? と思われる方もおられるかも知れませんが、私の生来の癖で、ひょっとすると前世からのカルマかも知れませんが、このような想い方をするのが常でありました。

 と同時に、今のこの心の動揺は、自分が愛ある行動が出来なかったことの裏返しでもあるような気もしていました。

 通過して一分も経たない間に、マンションの総会で湧き上がった怒りのような高ぶった感情がわき上がってきました。

 「これはダメだ、こんな感情を抱いてはいけない」「ああ、あの方たちは、私のこの感情を見つけだして修正するために、偉大な主がお遣わしになった方々なのだ。怒りの感情を持って申し訳ございません。有り難うございます。有り難うございます」と、心の中でつぶやいていました。

 全ては自己責任。自分にとって、ひと様が純粋に悪いことをすることはあり得ない。最低限、私が引き寄せたのである。原因は自分にある。自分の感情が高ぶったのは、ひと様の所為ではない、100%自分の責任である。そのような自分を作ってしまっていた故である。

 頭で分かっても、当たり前の行動にはなかなかなりませんが、昔の癖、カルマが出てきても、法から外れていることは瞬時に理解でき、修正することが出来るようになったことは、誠にもって、有り難いことだと思えます。

 夜の反省でも、意図がよく分からなくても、停まってくれということだろうとは考えられるので、このようなときは、愛ある行動をさせていただきたいと、思わせていただきました。

 これからどれほどの時間がかかるかは分かりませんが、このような出来事に対して、愛ある行動が当たり前に出来るように、全ては自己責任、他者に責任をなすりつける必要は更々ないことを心に落とすよう、精進したいと思っております。

 大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、お導き、心から感謝申し上げます。

 守護・指導霊様、有り難うございます。有り難うございます。
 感謝の思いを把持して、実践に励ませていただきます。

 有り難うございます。有り難うございます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする