日々、如何に思い、如何に生きるべきか?・・・ある運転中の出来事を踏まえて

ある出来事

 私は、先日来、四輪の車をやめて、二輪のバイクに乗るようになりました。

 バイクは四輪車のように囲いがありませんので、交通事故などを起こすと、衝撃がモロで、人身事故に陥ってしまうという懸念があります。

 車に乗っている頃は、バイクの特性などを全く理解しないで四輪車を運転していましたが、自分がバイクを運転するようになると、バイク特有の特性があることが理解できます。

 例えば、ブレーキの操作が左右のハンドルレバー(自転車と同じ)なので、車に比べると効きが悪く、二輪なので急ブレーキをかけすぎると転倒の危険もあり、どうしても制動距離が長くなる傾向があるようです。

 従って、車間距離を短く取っていると、前方の車が急ブレーキをかけたときには、追随できないで追突しそうになることがあります。

 それ故に、車間距離を比較的長く取っていることから、前の車に追随しているつもりであっても、後続の車がその少ない車間距離の間に、急カーブで割り込んでくることがあります。

 例えば、カーブを曲がるとき、特に右カーブのときは、車線の右側を必然的に通ることになります(俗に、カーブでインをつくということ)。直線部では、後続車が追い越しをするかもしれないと左に寄りますが、道路自体が右カーブの時はあたかも車線を変えるようなイメージで、当然後続車の有無を確認しますが、右寄りになってしまいます。

 例えば、道路に段差があったりガタガタした道路の部分は避けて通ろうとします。直線の道であったとしても、デコボコ部分は避けて通ろうとしますので、後続の車は、なんで蛇行したのだろうと訝ると思いますが、後続者が追い越しを狙っているときは、危険な運転になりかねませんね。

 このようなことは、四輪運転時には気がついていませんでしたし、今、四輪を運転している人を見ると、このことを理解している人は殆どいないんだろうという気がします。

 バイクに乗っての危険は日々、感じていますので、四輪側が認識していないことを踏まえて、用心をしていますが、ある日のこと、よくある出来事ではあるんですが、こんな出来事がありました。

 後続の四輪車が私のバイクを追い越そうとしている様子が覗えます。

 しかし、対向車線を前方からやってくる車が見えましたので、後続者は追い越しをやめるだろうと思っていましたが、大きく右車線にはみ出してきました。

 私が減速しないと、追い越した車が前方の車とぶつかる恐れがありましたので、減速しましたが、それでも後続車は、私のバイクの前をすれすれに入ってきました。

 私は、『こうなることは分かっていたでしょう?』と、クラクションを鳴らしました。

 当然、その瞬間、後悔の思いが突き上げてきました。『しまった! 自分の心を曇らせるのではなかった!』と。『あの車に、偉大な主が乗っておられても鳴らすのか?!!』と。

 このブログを書いている途中に、同じようなことが再度ありました。

 このケースはもっと極端で、私のバイクの前に割り込むスペースがほとんどない状況で、しかも私が追い越されるだろうと推測しない状況で、後続者が追い越して割り込んできました。

 後続車が真横に来て気づいた私は、急ブレーキをかけて、車間スペースを作りました。

 私はとっさに心の中で、『オイ、オイ、オイ!』と叫んでいましたが、声に出すことはなく、クラクションも鳴らしませんでしたが、直ぐさま、『偉大な主、申し訳ございません』と心の中でお詫びを申し上げておりました。非難の思いを持ってしまったことに対してです。

 (バイクでの日常が余りに不便なため、再度、車を購入し、現在は車での生活をしております)

反省

 夜の反省に於いて、今までは、偉大な主にお詫びをし、追い抜きをした運転手の方にお詫びをし、二度とこのような過ちを犯さないと決意を新たにしていたのですが、今回は、あまりにも同じような過ち(怒りを感じてしまう)を犯してしまうので、何が根本原因なんだろうと、自分の心の奥を探りに行きました。

 『何故クラクションを鳴らしたのですか?』(心の善なる声)
 「あの車が危険運転をしたからです」(自我の返事)

 『危険運転をすると、何故クラクションを鳴らしたくなるのでしょうか?』
 「悪くすると、怪我をしたり死んでしまうかもしれないからでしょう」

 『怪我をしたり死んでしまったとして、その原因・責任は誰にあるのでしょう?』
 「・・・私です、ね」

 『原因が自分であるのに、第三者を責めるのは何故でしょうか?』
 「・・・肉体に執着しているからでしょうか?」

 『肉体に執着していると、何故そうなるのでしょうか』
 「自己保存の思いが湧いてしまうからではないでしょうか?」

 『そうでしょうね。自己保存の思い、自分を守ろう、自分の身に危害を与える者は悪であると非難してしまうのでしょうね?
 死ぬのが怖いのですか?』
 「冷静に考えますと、身体は乗り船とお教えいただいておりますし、法に帰依させていただいたお陰様で、怖いという観念は余りないと思いますが、実際に死に直面しないと、痛みに対する恐怖とかで、どう思うかは想像しづらいですね」

 『怖い、怖くないは別にして、どうすれば死なないで済むと思いますか?』
 「法に則った思いと行いを日々、実践することだと思います」

 『そうですね。そうすれば、定命前に死に直面することはなくなっていくでしょうね。
 では、警告を与えて下さった人には、どのように対すれば良いと思われますか?』
 「当然、私の、法から外れた思いや行いに気づかせる役目をして下さり、有り難うございますと、感謝するのが筋だと思います」

 『もし死んでしまったらどう思いますか?』
 「死んでしまったとしても、自分が作った原因だから、誰を恨むことなく、あの世で反省をせざるを得ないと思います」

 『そう考えますと、もし死んでしまったとしても自分の責任だし、もし死なずに警告で終わったら、それこそ感謝しかないのではないのでしょうか?』
 「そうだと思います」

 『しかしあなたは、危険運転をしたとして、警告して下さった方に怒りを覚え、クラクションを鳴らしましたね?』
 「はい、正しく物事を見ることが出来ず、正しく思うことが出来なかった所為だと思います」

 『では、正しく見、正しく思えたとしたら、どのような思いと行いをすれば良かったのですか?
 「はい。
 私の、法から外れた思いと行いが、この事故まがいを引き起こしてしまいました。
 本来、事故を起こしてもおかしくなかったのかもしれませんが、寸前でお救いをいただきました。
 大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、有り難うございます。有り難うございます。
 警告の役目をして下さいました車の運転手さん、私に反省の機会をお作り下さって、有り難うございます。有り難うございます。
 ・・・という思いが、正しく思うということではないかと思います」

総括

 私たちは法に帰依したといいましても、なかなか法のままに生きるということは難しいモノがあります。

 法のままに生きると言いましても、二つの側面が考えられます。

 一つは初期の段階として、正しく見る、思うということが出来ないでいること。

 自分の、法から外れた思い・行いの所為で危険な状況を作り出しているにもかかわらず、反省の機会を与えて下さった方を、逆恨みしてしまい、怒りや恨みの思いを持ってしまうレベルの段階。

 いま一つは、このような体験を何度かして、全ては自己責任である、どんなに客観的に相手が悪い状況であっても、相手の方は私に反省の機会を与えて下さった偉大な主のお遣いの方であると心に理解をしても、現実に直面するとその実践が出来ないでいる段階。

 今の私はお陰様で、一つ目の段階を越えたり戻ったりしながらも、二つ目の段階にも差しかかったのではないかと思わせていただいております。

 しかし、何十年という今までの生活習慣がありますので、このように思い・行いを変えると決心しても、現世的に理不尽な状況に直面した瞬間に、今までの習慣、もしくはカルマ(業)がフッと浮かび上がってきて、怒りの思いとなったり、行い(言葉)となったりしてしまいます。

 決心したからといって、自分の日々の思い・行いを、決心通りに実践することは、なかなかに難しいと言えます。

 ここで必要になってきますのが、偉大な主が、ご著書の中で仰っておられます『人間の心を変えるものは「理解と行為」なのです』ということだと思われます。

 『信が強まれば行為もそれにつれて動いてゆくものとみられがちですが、信だけでは人間のカルマをかえることはできないのです。
 人間の心をかえるものは「理解と行為」なのです。
 ウソのいえない調和された己の心にしたがって、その毎日の生活の理解を深め、行為を通して、はじめて、人は安心の境涯に至るのです』

 決心だけでなく、自我が「そんなことを言ったって、悪いのは向こうでしょう?」などと意見を挟まないレベルまで理解を深め、心に落とし、何度も何度も実践を重ねることによって、初めて信・行の一致が見られるのでしょうね。

 また、偉大な主は、次のようにも言っておられます。

 『私達は、正しい心をとりもどし、自我我欲の多い心と闘って、真に正しい心の文明を、物質文明の上に築かなくてはならない。
 この目的を果たすためには、たとえ他人からそしりを受けようと、打たれようと、石で殴られようと刃物で斬られようと、感情的になって怒りの心を起こしてはいけない。忍辱の心を持って、一切の諸現象にとらわれない不動の心で、正しく生活することである。たとえ肉体を引き裂かれようとも、怒りの心を持つようでは神理の生活を守ることはできない

 偉大な主は、交通事故で身体が引き裂かれるようなことをもイメージしておられたのかもしれませんが、まさしく『例え肉体を引き裂かれようとも』責任は自分にあることを理解し、心に落とし、怒りなどの誤った思いで自分の心を曇らせないことが大事なのでありましょう。

 これらのお言葉を心に落とし、実践を重ね、瞬時にして正しい思い、正しい行いにまで昇華できますように、人生のあらゆる場面を通じて、精進に励みたいと思わせていただきました。

 お導き、心から感謝申し上げます。
 誠に誠に、有り難うございます。
有り難うございます。

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