初めに
不動心の対義語は、対義語辞書には載っていないようです。
しかし、不動の対義語は、動揺ということになっていますので、不動心の対義語は、動揺心=『動揺する心』ということになると考えられます。
私たちの心は、チョット嫌なこと、心配なこと、自分が不利になるようなことなどがあると、直ぐに動揺してしまうようであります。本当に嫌なことや絶体絶命の危機のように思うときは、動揺するどころか、心撹乱してしまうようであります。
偉大な主は、ご講演の中で、ミカエル様がその昔、ギリシャでアポロ様として生まれられたとき、落雷にも心穏やかに動揺しなかったところ、不動心を得たとして心の窓を開かれたということをお教え下さっています(http://huuhu-no-tyouwa-to-kosodate.link/mikaeru-sama/)。
偉大な主は口が酸っぱくなるほど、心の窓を開くには心を綺麗にしなさい、愛に満たしなさいとお教え下さっていますが、不動心によっても、心の窓が開くということを、このご講演では仰っておられるようであります。
この時のアポロ様の不動心と我々が言う不動心とは天と地ほどの差、月と朱盆ほどの差があるのだと思いますが、最近、この不動心を涵養しなければならないと思わせるような、私の心が激しく動揺するような出来事がありました。
私はその昔、一流会社の営業マンをしており、一つの注文の金額が大きいため、課や部の半期毎の予算達成に大きく影響するという、注文を獲るか獲られるかという修羅場を毎日のようにかいくぐっていたのであります。
その頃は心千々に乱れても、それが当たり前と思っておりましたし、不動心を持って泰然自若などと考える余裕すらもありませんでした。
しかし今回、この出来事を通して、自分の動揺する心を見つけたときに、なぜ心は動揺するのか、どうすれば不動心を涵養することが出来るのか、真剣に考えざるを得ませんでした。
まず、どんな事件があったのか、を書かせていただきます。
マンションの大規模修繕工事
私は今、とあるマンションに住んでおりますが、このマンションは築30年を超え、今年が10年強ぐらい毎に行う大規模修繕工事の年に当たっております。
法に帰依し、この人生で貰うばかりでなく、お返しをしなければならないとお教え頂いておりますので、その思いから一昨年、大規模修繕工事の修繕委員の募集がありましたので、応募したところ、自主的に応募したのは私一人だけということで、必然的に修繕委員長に祭り上げられてしまいました。
この役割の主要な業務は、大規模修繕工事を計画する設計会社の見積入手から選定作業、実際の工事を行う工事会社の見積入手から選定作業、そして積み立てた予算を横に見ながらの工事内容を決めて、管理組合に答申するという大変大事な仕事ということが出来ます。
修繕委員会の検討・答申作業は紆余曲折を経ながらも順調に進み、今春から実際の工事に突入ました。
工事も順調に進んでいるかに見えましたが、ある日突然、工事監督から電話がありました。『ある住人とトラブルが起こり、工事の中断を言われ、工事が出来ないでいる』と。
原因は些細なことで、住人に網戸を外してくれと要請をしたが、外してくれないので、工事施工時に、網戸を外して工事を進めていたら、「勝手に外した。更に網が破られた」とのクレームがつけられたそうであります。
普通に対応すれば問題なく解決すると思っていたこのトラブルが、その住人の性格、更には対応が住人の意に沿ったものではなかったことなどが絡み、その住人のベランダ関連工事の中断、更には全体に関係する屋上の防水工事(大きな騒音が発生する)の中断まで言われたそうであります。
何度か折衝した結果、何故この発言が出たのかは分からないようなんですが、「次回の修繕委員会主催の工事進捗定例会議に自分も出席して、その場で今後どうするかを決める」と、言われたそうであります。
私は、工事を進めることが大事なので即座に、『OK。その場で解決を図り、工事を前に進めましょう』と答えていました。
最初の反省
その夜から、私はこの事柄を反省の俎上に乗せました。
特別に何かを反省したということではなく、ただ漠然と、どうしてこのような出来事が、私の周囲に起こったんだろうかと、思いを巡らしました。自分は何をすれば良いんだろうか? どうすれば良いのかなどと、色んな思いが頭の中を駆け巡りました。
そしてまず最初に浮かんできたことは、「法に則れば、解決しないことはあり得ない」ということでありました。
その昔、『「正法をしているのに何で上手く行かないのか?」と思う人がいますが、それは他力です』とお教え頂いたことがありますが、そういう思いではなく、正しく法に則れば、則らないが故に堰き止めていた流れが流れるように、物事が流れるようになるという風にお教え頂いたことを念頭に置いてのことでありました。
では、「法に則る」とはどういうことか?
八正道、正しく見、正しく思い、正しく語り、その思いに適った行動を起こすことであろう、と。
正しく見、思い、語るとはどういうことか、と思いを巡らした辺りから、頭の中は実際の現場、即ち定例会議での当事者の発言と、それに対する回答などのシミュレーションに、そこでの正しい見方はこれでいいのか、正しく語ることはこれでいいのかという、自問自答の形を取っていきました。
これは過去のサラリーマンの営業時代に思いを巡らせていた状況、そのままのようでありました。
注文がいただけるか否か、お客様がこういうことを言ってきたらこう受け答えをしよう、他社がこんな対応をしてきたら、こう対応しようなどと、微に入り細に入りシミュレーションをしていた、あの頃の感覚でありました。
そして、反省が終わると何となく、心の中は落ち着いてきたように思いました。
しかし翌日になると、やはり心が騒いでいるような気がします。
この頃はまだ、不安だとか、恐れというような、昔の営業時代の心を押しつぶされるような感覚まではありませんが、何となく落ち着かない、安心感に包まれない、そんな状態でありました。
そして、この気分は何だろうかと、また反省に臨みました。
「法に則れば、解決しないことはあり得ない」ということは正解でしょう。しかし、解決という意味の解釈は、恐らく私と天上の方とは異なるかも知れません。
私は、私が望む形、嫌な不快なことがなくなることを解決と言っているが、天上の方は、私の魂のためになることを解決とは言わないまでも、その方向に持っていこうとするでしょう
少なくとも天上の方にとっては作用反作用の法則に則って全てが必然なのでしょうが、すんなり問題が解消することが私の、例えばカルマの解消に繋がらないのであれば、カルマの解消を第一優先にする方向に持っていくであろうと思いました。
ということは、私の思っている解決に私が固執している限り、それはまさしく執着であり、心の安らぎには程遠いものとなることでありましょう。否、むしろ苦しみと言った方が正しい表現でしょう。私の思っている通りの解決にならないのですから。
偉大な主は、『思う通りにならないのは自分に欲望があって、その欲望が満たされないから起こる。苦悩はここから始まり、人は苦悩の中で生活しているといえる』と、お教え下さっています。
私が、私の苦しみのなくなることに執着している限り、私は苦しみの最中にいるということになる、即ち、正しいこと(この場合は、正しく生きれば、問題は解決されるという思いを自己流に解釈して、自分の希望通りに進むと思うこと)に固執すること、思いに執着することも、それはやはり苦しみに繋がる思いであろうという風に思わせて頂きました。
それと同時に、自分の思い描く姿に物事が進展していくことを期待し、その為の努力を惜しまなかったサラリーマン時代の心癖が、解決するべく努力することは大事なことではあるのですが、その解決に固執するカルマ的な思いが、強烈に心の中に残っていることも自覚できました。
工事会社との下打合せ
2日後に当事者を交えての工事会社との定例会議を控え、細かい内容を聞かされていない私は、工事会社との下打合せを行うことにしました。
何故にこのような事態に陥ったのかという事実確認と、当事者の要求内容はどういうことか、当事者はどう思っているのか、そして、再発防止策の構築であります。
私は修繕委員長でありますが、管理組合の理事長にも同席を願いました。
ところが打合せを始めると直ぐに工事監督が、「一昨日、その方が来られて、工事を進めて良い旨を言って帰られました」と発言されました。
私は、『良かったですね』と言いながら、『何故、そのように言われたんでしょうね?』とお聞きしました。
監督は、「恐らく周囲がどんどん工事が完了するのに、自分のところだけが進まないことに、焦りか何かを感じられたんだと思います」と、自分の感じたままを言われました。
ただ、大規模修繕工事とは別に、周囲の住人の騒音に悩まされているので、当日はその相談に行きたいと言われているとのことでありました。
この相談は、本来大規模修繕工事とは無関係なのですが、その関連というよりはクレーム当事者の要請である、ということで受け入れることにしました。
この結果、細かい内容を摺り合わせる必要もなく、事前打ち合わせは短時間で終わりました。
以上のように、淡々と書きましたが、ここに至るまでに、実は、私の心は大きく揺れ動きました。
この日はただの事前打ち合わせであるにもかかわらず、私は前日の夜から他のことは何も手に付かず、かといってこの問題を深く考えようにも考えるべきネタがあるわけでもなく、ただダラダラと無為に時間を過ごしているだけ、他のことに意識を向けることが出来ないような心境でありました。
このような心境は、昔のサラリーマン時代、営業の仕事上で窮地に陥った時などに、まさしく落ち込んで、堂々巡りに考え込んでいた心境そのもの、心が押しつぶされそうな不安・恐れのような感情で、何も手に付かない状態、そのままでありました。
当時は仕方なく酒に逃避し、そのまま眠りに落ちるという過去の心情そのものでありましたが、今は酒は飲まないので、漫然とパソコンに向かってダラダラと時間を潰す、そんな状態でありました。
事前打ち合わせから帰ってきて直ぐに、偉大な主と守護・指導霊様に感謝を捧げましたが、それと同時に、これはまさしく仮想現実ではないか、と思えました。
実際は既に問題が解決しているにもかかわらず、意識の世界ではその問題が未解決という想念のために、心を悩ましている、恐れを感じ続けている、そんな架空の世界の出来事ではないかという思いを持ちました。
このことは、以前のブログ(求めよ、さらば与えられん・・・http://huuhu-no-tyouwa-to-kosodate.link/2017/09/23/motomeyo-saraba-ataerarenn/)で書きましたように、意識の世界では既に解決しているにもかかわらず、その投映が現実世界に現れない状況と、真逆の状態だと思えます。
今回は、既にこの現実世界でも実現、解決しているにもかかわらず、自分が知らないがために未解決と思って心を悩ませる、不安、恐れに苛まれる状態と思わせて頂きました。
現実には解決していても、私が未解決と信じている内容が現実として認識される、それが故に、心を悩ませるのだと思わせて頂きました。
しかし本来、この問題が解決していようとしていなかろうと、そんなこととは無関係に、心は平安であって欲しいと思うのでありますが、この心が締め付けられるような不安・恐れの感覚、これがどこから来るのか、それは全くわかりませんでした。
夜の反省で、このテーマを取り上げても、何をどう反省すれば良いのか、ただ、自分の心模様を回想するだけの堂々巡りをしておりました。
ただ、外の現実は既に終わっているのであるから、私が私の心の中で勝手に作り上げている不安であることは間違いのない事実でありました。
そして2日目の反省で、この恐怖感、恐れの意識を、今のところ何の取っかかりもないのですが、突き詰めていこう、究明していこうと決心致しました。
クレーム当事者との打合せ
この事前打合せに基づき、2日後に当事者との打合せに臨みました。
私は基本的に問題は解決しているということから、余り悩むことなく定例会に臨みました。
程なく当事者が来られ、開口一番、「今日は、網戸のことは何も言うつもりはありません」と言われたので、私は直ぐさま、『それじゃぁ、直ぐに騒音の話をしましょう』と言って、本題に入りました。
結論は最初から「周辺の方に注意喚起を促す」と決まっていたようなもので、当事者はもっと具体的なアクションを希望していたようで、若干不満を漏らしましたが、それしか方法が無いということで、注意喚起のビラの配布をするということに落ち着きました。
意識の世界で守護・指導霊様方がどれだけ動いて下さったのかは知る由もないのですが、文字通り、誠に呆気ない形で終了させていただきました。
恐れ・恐怖の根本は何か? 真実はどこにあるのか?
言葉は悪いのですが、この問題は、心配・恐れの感情からは程遠いほど呆気ない幕切れとなり、逆に、この感じていた恐れの感情の根元を探らねばならない、現実には解決しているのに解決していないと信じているということは、自分にとってはまさしく解決していないということであると思わせて頂きました。
問題の峠を越えると、私がこのように感じる恐れの根元がどこにあったのか、自ずと見えるようになってきました。
私の場合は、人から良く見られたい、悪く思われたくないという思いが、幼い頃に強烈に創られてしまったようであります。
何の先入観もない純な心に、フトしたこと、例えば小学校に行っている兄に比べて、まだ行っていない私の方が算数の問題が早く解けたというようなことで、大人たちから誉められるというようなことがあると、最初はどうしてだろうと疑問を持ちながらも、何度か続くと今度は、その心地よさを希求するようになっていきました。
誉められたい、そういう自分で無ければいけないという思いが自縄自縛しているという認識もなく、私の行動を規制というか、そういう方向に駆り立ててきました。
その心の習慣はずっと私の人生を支配してきたのですが、サラリーマンという人生の荒波からリタイアすると、なりを潜めていたのでありますが、このように縁に出会うと眠りから覚めて、ムクムクと巨大なモンスターになってしまうようであります。
しかし、どのような問題であれ、自分の望むように解決しない問題についての「どうなるんだろうという恐れ・不安」は、私のカルマであると共に、ヒョッとすると人類のカルマというか、自他を比較してしまう肉体を持った人間の然るべき姿、いつかは解決しなければならない人類の根源的なカルマなのかも知れません。
そういう意味合いからして、このようなカルマの解消は、そんなに生易しいものではないかもしれません。表面意識10%の人類であるが故のカルマかもしれないからであります。
さて、「法に適った思いと行いが出来れば、本当に恐れはなくなるのか?」
そもそも、「正しい思いをすれば恐れはなくなる」とは一体どういうことであるのか、ここから私の反省というか思索は始まりました。
『正しい思いと行いをしていれば、天の助力をいただき、どのような方向に行こうとも、どのような形に落ち着こうと、心を悩ます必要はない。何も心配する必要はない。神の御心の中にいる、天の慈愛の中に包まれてある』ということでしょう。
にもかかわらず心配する、心を悩ます、恐れる、これは何がそうさせるのでしょうか?
「本当にそうなのか?」という疑いの思い、実感の無さ、天に任せきれない思いがそうさせるのでしょう。
『信』・・・信じてなお行えない人は、信じていないことだ
言いかえると、『信』の無さ、信じていないということでありましょう。
しかし、「信じていない」と言うと、あまりにも切ないというか、辛いというか、悲しいというか、そのような思いに駆られます。
偉大な主の説かれた法を疑うような思いは一毫もないつもりではいるのですが、ではその通りの行動をしているか、法に適った思いと行いをしているかと問われたときは、返事に窮してしまうのであります。
「それは信じていないということだ!」と言われたとしても、「いえ、信じています!」、ここまでは胸を張って言えるのですが、「法に適った正しい思いと行いが伴っているか?」と問われたとき、言葉をなくしてしまうのであります。
【心行の言霊】の中に、次のお言葉があります。
【信】
信ずるとは行うことだ
信じてなお行えない人は信じていないことだ
地上界は行為の場である
「汝信仰あり我行為あり」というイエスの言葉を想起せよ
「行えないことは信じていないことだ」と、明確にお教え頂いてはいるんですが、『信』を強く持つことはそれなりに出来ても、『信』と『行い』が一致することは、なかなかに難しいものであります。
また、偉大な主のお言葉に、
「信が強まれば行為もそれにつれて動いてゆくものとみられがちですが、信だけでは人間の業(カルマ)をかえることはできないのです。人間の心をかえるものは『理解と行為』なのです」とお教え頂いております。
『信』だけでは人間は変われるものではなく、『行』が伴わない限り、カルマの解消、魂の向上、自己確立への道は、一歩も進まないのでしょう。
『法に適った思いと行いが出来ていれば、恐れる必要はないのである』と正しく理解をし、その理解に基づいた行動・実践を何度も何度も重ねることによって初めて、根強いカルマが剥がれ落ちていくのではないのでしょうか。
信を強く持つこと自体も、何度も何度も体験を重ね、実感し、行為として身につかないと難しいものであります。
不動心を涵養するには・・・
一方、見方を変えると、問題が解決してるにもかかわらず未解決と思っているが故の不安があるのであれば、問題が解決していない状態であっても、解決していると思う(信じる)ことによって、心の平安が得られる筈であります。
即ち、問題がある無しにかかわらず、解決未解決にかかわらず、心のありよう一つで、心が不安にもなり、平安にもなるということでありましょう。現実がどうであれ、心一つ、思い一つにかかっているということでありましょう。
然らば、どのような心の持ち方をするべきであるのか?
正道に徹し、全ては天が導いて下さるという絶対安心の境、即ち、『正しい思いと行い』をしたのであれば、心配する必要などどこにもないこと、心を悩ます必要がないこと、天にお任せすればいいということ、守護霊様に100%委ねる、そして結果がどの方向に行こうとも、自分にとって何の問題もない、全ては偉大な主の手の平の上での出来事であると、固く信じることでありましょう。
唯々心の成長に繋がっていくものであると信じ、その体験を重ねていくことにより、揺るぎない『信』として根付き、それが不動心に昇華していくのでありましょう。
その昔、孫悟空がお釈迦様の手の平から出られないという話がありました。
手の平から出られないということではなく、神の手の上、偉大な主の手に包まれて居させて頂いている、何の心配も不安もない大安心の境に居る、その為に100%正道を歩む、少なくともその努力を最大限に行ずる、そういう生き方が大切なのでありましょう。
神を信じる。主を信じる。天を信じる。守護・指導霊様を信じる。
そして正しい思いと行いを、最大限行じる。
この目の前の出来事は、神が私のためにお与え下さった現象であるという認識をしっかりと持って神に感謝し、日々、瞬々の思いと行いを正す。
それでも絶対の信に至るまでには、何度も何度も不安や恐れは襲ってくることでしょう。その度に神に、主に祈らせていただきましょう。
『大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、我が心に光をお与え下さい。心に安らぎをお与え下さい。我が心を正し、一切の魔よりお守り下さい。有り難うございます。有り難うございます』
「祈っても祈っても心が休まらない時も、祈って祈って祈り続けることによって、不安は消えていく」ものと、お教え頂いております。このことを信じたいと思います。
そして何よりも大事なことは、正道を歩んでいるという自覚、そして正しい思いと行いに徹することでありましょう。そしてそのことこそが、不動心を涵養する究極の手段であると思わせて頂きました。
お導きを、心から感謝申し上げます。
有り難うございます。有り難うございます。