時間に縛られ、ひいてはお金に、肉体に、物に縛られていませんか?

tokei3

エレベーターに乗って、「閉」ボタンを押すのは・・・

 日本人だけなんでしょうか、エレベーターに乗ったとき、一秒を争うように「閉」ボタンを押すのは。

 どこそこへ行くのに、約束の時間に間に合わないかもしれない、そんなときは思わず知らず、電車の中を走ってみたり、エレベーターの「閉」ボタンを押してしまうのも、やむを得ないかもしれません。

 でも私たちは、のんびりと買い物でも楽しもうかとか、お腹が少し空いてきたから昼ご飯でも食べようかと思っているようなとき、即ち、ちっとも急ぐ必要のないようなときでも、エレベーターに乗ると、思わず知らず「閉」ボタンを押してしまいます。

 もちろん押さない人もそれなりにおられますが、私が我慢して手を引っ込めていると、横から後から、人混みをかき分けて押して下さる方もたくさんおられます。完全に、習慣になってしまっているのでしょうね。

 私も含めて、時間に縛られていると言っていいのでしょう。

縛られるということ

 何事によらず、縛られるということは不自由です。殆どの人は、お金に縛られ、肉体に縛られ、他人様の目に縛られ、時間にまで縛られてしまっています。

 でも、縛られている本人は、縛られているという自覚がきっと、ないのです。

 お金の亡者になっている人は、亡者という自覚なんかさらさら無く、金儲けが上手いなどと舞い上がってしまっています。お金儲けのためには、他人様のことなどお構いなしになってしまいます。

 肉体や物に縛られている人は、肉体こそ自分という錯覚に気がつかないで、心を忘れ去ってしまい、目や耳が喜ぶもの、美味しいもの、肉体五官の喜ぶことこそ大事と、物に執着し、その方向に突っ走ってしまうのです。今のテレビがこれらを更に煽っているようです。

 他人様の目ばかりを気にして、他人様の目が有るときと無いときの自分の行動が違うことに何の違和感も感じないのです。自分の善なる心がしっかりと観ていることから目を逸らしてしまっているのです。いつの日か、自分の善なる心が自分を裁くことも知らないで……。

 時間に縛られているという自覚を持たないまま、一分でも早く、一秒でも早くと、急ぐ必要がない時でも、早く早くと自分の行動を駆り立てます。そのことが生活習慣になってしまっているのでしょう。

縛られることの弊害

 何事によらず縛られていると、その弊害が出てくるものです。当然、時間に縛られているという弊害も、色んなところに出てきてしまいます。普通に町中を車で走っているとき、自分の順調な運行を阻害するような行動を起こした人や車に、怒りや非難、反発の思いを思わず知らず、持ってしまいます。

 交差点で前に何台か並んで右折待ちをしているとき、右折の矢印信号が青になっても、対向車が1台、2台走ってきて、その信号で右折が出来なくなってしまったとき、怒りがこみ上げてきて、「あんなことをしたら、右折の人が曲がれなくなってしまうじゃないか。問題だね」と非難したりしてしまいます。

 急ぐ用事もないのだから、ただ単に、次の信号を待てば良いだけなのに、一分、二分が待てずにこんな思いを持ってしまって、自分の本来は清らかな丸い心を傷つけてしまいます。自分で自分を傷つけた自覚もなく、悪いのは相手であると、そして避難したことでそれはそれで良しとして一件落着になってしまいます。

天台智顗ちぎ様の止観・・・とどまって観るということについて

 最澄(伝教大師)様が比叡山に天台宗を開かれる元となった中国の天台智顗とおっしゃる方が、止観ということを言われたと、高橋信次先生がお教え下さっています。川の流れのように常に流れている自分の想念の流れをいったん止めて、その時に発していた想念を観るということです。

 人は、この、自分の思い・想念を止め、振り返って観るということを全くしないために、自分が何を思い、何を行っているかということを、明確に自覚できていないようであります。

 「何であんなふうに、対向車に怒りや非難の思いを持ったのだろうか?」というような、自分の思い―――他人様の思いを想像するのではなく―――自分自身が発した思いを、それで良いのか、まずいのか振り返ることもなく、無自覚に時々刻々を過ごしてしまっているのが私たちなんでしょう。

 「他人様の思いを想像するのではなく」と書きましたが、他人様の思いを推し量ることが出来るなら、ひょっとしたら、親の死に目に遭えないかもと急いでおられたかもしれませんし、子供が事故を起こして病院に急いでおられたかもしれません。

 もしそれが事実と分かったら、自分の発した怒りや非難の思いを、私たちは自分の心の中で、どのように処理をするのでしょうか? 「そうだったのか。じゃあ、しょうがないね」で終わらせてしまうんでしょうか? それでは余りに、自分が可哀想、哀れだと思われませんか?

この文章(ブログ)たどり着くところは?

 ブログというのは、あまり堅くなってもいけないのだという思いがありますので、今回のブログの終着駅は、どこなんだろうかと思ってしまいます。終着駅があるのだろうかと思ってしまいます。

 あまり説教面して、ああしなさい、こうしなさいなどと言えるほど人間が出来ているわけではありませんので、高橋信次先生のご本から教えていただいたことをお伝えすることぐらいしかできないのですが、もし、時間に縛られているというふうに思えたら、「何で? どうして?」と振り返ってみられたら、新しいあなた様に出会えるかもしれません。

 時間に縛られているかどうかなんて、すぐに分かります。先述のエレベーターの押しボタン。車を運転しているときの周囲の車に対するイライラ。約束時間に相手が遅れてきたときの自分の思い・・・、一日全てが時間に囲まれていますので、縛られているか否かは、立ち止まってみればすぐに分かります。大事なのは、立ち止まることです。

 そして時間に縛られている(いなくても)ことが分かったら、こんどはお金に、肉体に、その他諸々の物に縛られていないか、思いを馳せてみられたらいかがでしょうか? この、ちょっとしたことで、あなた様の世界観が変化を見せてくれるかもしれませんよ。

 私もゆっくり焦らず、そして少しピッチを早めて、自分の発する思いを観るように努力しています。

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