イマヌエル、イエス・キリストさまの真実(聖書のすべてが真実ではない)

【目次】

1.マリア様の処女懐妊ということについて
2.イエスさまは、紀元1年に生まれられたのか?
3.イエスさまの過去世(転生輪廻)
4.イエスさまは十字架の上で、本当に「何故、神は我を見捨て給うのか?」と言われたのか?
5.「幸いなるかな、心貧しき者・・・」と、イエスさまが言われた真意は?
6.イエスさまは、「イエス・キリストを信じ、・・・もしそれを信じないならば、永遠の滅びに至る」等と言われたのか?(ある宣教師の方の質問に答えて)
7.教会で行われているミサは、イエスさまが望まれたことなのか?(あるキリスト教徒の方の質問に答えて)
8.その他関連事項
 1)モーゼ様は、旧約聖書にあるように、戦いによって多くの人を殺したのか?
 2)安息日の本当の意味

1.【マリア様の処女懐妊ということについて】

 私はキリスト教徒ということではありませんが、この事柄が囁かれていることだけは知っておりました。そしてどうやら、このことは、キリスト教徒の方は、あまり触れたがらないということも聞き及んでおりました。

 しかし、このことを良く知るために、ネットで色々なことを調べていく内に、何と、聖書にこの事が事実のように記載されていることを知り、ビックリしました。イエス様の二人の弟子の福音書に、その記載がありました。

 これでは、キリスト教徒の方は、否定する根拠がないのですから、信じざるをえないのかもしれません。現実におかしいと思っていても、触れないようにせざるを得ないのかもしれません。

 事実、キリスト教会の解釈などもネット上に記されておりますが、否定することも出来ず、苦しい表現をしておられる内容が多いように見受けられます。

 以下に、ネットから拾いました当該部分の記述を紹介します。

マタイ福音書 第一章

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。

 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

ルカ伝福音書 第一章

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」

 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 すると、天使は言った。

 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」

 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」

 天使は答えた。

 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
  神にできないことは何一つない」

 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」

 そこで、天使は去って行った。

………………………………………………………………………………

 聖書は、キリスト教徒の方にとっては絶対であり、寸毫も疑ってはいけないものかも知れませんが、残念ながら、聖書は、イエスさまが書かれたものではありません。

 また、その弟子の方が書かれたとされてはいますが、その弟子の方の思いや感じ方が入っているでしょうし、後世の人の手によって、ねじ曲げられている部分もあると言われています

 キリスト教徒の方にとっては、そういうことは信じたいことかもしれませんが、もしイエス様を信じているのであれば、真実を知るということも大事なのではないのでしょうか?

高橋信次先生のお導き

ご著書 心の発見(科学篇)P229~

 インドの古代、ゴーダマ・シッタルダーは、マヤの脇の下から生まれ、七歩歩いて「天上天下唯我独尊」といったとかいう伝説があるが、あれは後世の人々が、コーダマを神格化するための作り話であり、またイエスには、マリヤの処女懐妊説などがあるが、いずれも神のように祀り上げてしまった人間の偽説であり、このような事実は全くなかった。

 一般の子供と同様に育てられ、ただその環境や現象に無常を感じ、苦悩の中から悟って行ったということで、これは人間のすべてがそうしなければ到達できない、修行しなければならない現象界の定めなのである。

ご著書 心の原点 P205~

 実在界の大指導霊や光の天使達もこの地上界に生まれて来る時は、人生に疑問を持ち、なるべく悟れるような環境を選んで生まれてくる者達が多いのである。

 経済的に裕福であると、自分の思いどおりになってしまうから、人間はどうしても堕落しがちだし、またあまりにも貧乏だと、心まで貧しくなり、自分を失い、世を呪い、人を恨み、人生の失格者になってしまうおそれがある。

 プロの宗教家に生まれると、旧来の間違いを犯してしまう場合が多いため、まずそんなところには生まれてくることを避けるものだ。

 私の指導霊は、イエスがイスラエルに生まれたとき、左官職のヨセフやマリヤを選んだのは「人生に疑問を持つためだ」という。

 「なぜ、人間は病気で苦しむのか」「なぜ同じ人間でありながら、権力者と人民の差別があるのか」といった「なぜ」という疑問にぶつかることのできる環境を選んだのだ、と説明するのである。

ご講演より(1971-12-12 現代宗教と正法 於:関西本部)

 ・・・今から2000年前のイエス・キリストの教え、更に2500有余年前のゴーダマ・シッタルダ、釈迦牟尼仏の教えというモノが、果たして現代宗教の状態であったであろうかということについて、歴史を追って考えてみたいと思います。

 ・・・ゴーダマ・シッタルダは、当時の中インド・・・コーサラ国の属国、カピラ・バーストという所へ呱々の声を上げました。

 ところが現代仏教の中に於いては、ゴーダマ・シッタルダは生まれて七歩歩いて「天上天下、唯我独尊」というような・・・で残されております しかもまた、袖の下から生まれたと言われるようになっております。

 或いはイエス・キリストは、処女懐妊と言われております。

 果たして皆さん、そのようなモノが本当でしょうか?

 一部分の心ない宗教家達は、そのような間違った考え方を、多くの人々に教えてきております。

 ゴーダマ・シッタルダも人の子、生まれれば人並みの生活をして、誰しもがこの地上界に出てくるのです。

 イエス・キリストにしても、壁屋さん、左官屋の子供でありました。彼もやはり、生まれた環境というものを、自分自身が天上界に於いて選んで出てまいりました。

 ところがマリア様はいつの間にか、偉大なる人になっております。

 当時のイスラエルの世相も、ゴーダマ・シッタルダの出た当時よりかは遙かに、人々の心は悪魔によって支配されております。

 権力や金力や力のある人たちが、支配をする世相です。

 何れにしても、ゴーダマ・シッタルダもイエスも、現代に於いては非常に神格化されております。

2.【イエスさまは、紀元1年に生まれられたのか?】

 西暦とは、イエス様が生まれられた生誕年を基準にしているとされており、キリスト紀元は「主の年」を意味するラテン語、Anno Dominiの省略形であるAD.であらわされているそうです。

 しかし、それが決められたのは、6世紀の頃のことであったようです。

 そして、「Wikipedia」には、次のように記されています。 

 『現在の西暦年は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。現在では、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年頃に生まれたと考えられている』

 これが世界の歴史家の通説のようでありますが、例え、それが証明されたとしても、では今年から4年マイナスして西暦年を数えましょうということにはならないでしょう。

 そういう意味合いからして、イエスさまの生年を基準としたということは単なる目安であって、紀元前4年生まれが本当に正しいのであれば、年号を変えるのではなく、解釈を変える、即ち、「西暦元年は、イエスさまの生誕4年前を元年としている」というだけで、済むことでしょう。

 権威はなくなるかも知れませんが、年号は単なる記号でしかないはずだからです。

では本当は、イエスさまはいつお生まれになったのか?

 上記の考えからすると、イエスさまがいつお生まれになったか、紀元元年か、紀元前4年か、はたまたそれ以外の年に生まれておられるのか、詮索することに大した意味はないのかも知れませんが、真実を知りたいと仰る方もおられることでしょう。

 高橋信次先生は、ご著書等の中で、次のように述べておられます。

天使の再来 P025

 イエス・キリストが紀元前三十二年に、肉体を持ち、そして、あのエルサレムにおいてその神理を説いた時は、人間の心は、殆どが悪魔でした。パリサイ人をはじめとして、悪魔の支配をうけていない人は少なかったのです。

ご講演より

 ゴーダマ・シッタルダー滅後五百年、即ち今から二千年前、イスラエルの地に、イエス・キリストが生まれております。彼、インマニエルは、十歳の時に実在界へまいりまして、「お前は、あの病める大衆を救わなくてはならない」といわれます。

 紀元一年にイエスは生まれたといわれていますが、それは大きな間違いです。彼は紀元前三十二年に肉体を持っております。

3.【イエスさまの過去世】

 高橋信次先生はご著書やご講演の中で、次のように、イエスさまの転生輪廻を説明しておられます。

ご著書「心の発見・科学編」 P194

 【イエス・キリストの生命】

本体:イエス・キリスト          BC三十二年  イスラエル

分身:
  ①クラリオ              BC四千年頃  エジプト
  ②マグガリス             AD二百年頃  イスラエル
  ③フォアイ・シン・フォァイ・シンフォ AD四百年頃  中国
  ④バロイン              AD千五百年頃 英国
  ⑤マグネチオ             BC二千年頃  エジプト

 これはイエスさまの分身を含めたここ数千年の間の生まれ変わりでありますが、イエスさま本体の生まれ変わりではありません。

 然らば、イエスさま本体の過去世はどんなであったのでしょう?

 高橋信次先生のご講演のビデオテープに、天上界の大天使長・ミカエル様がそのことについてお話しをされている内容が含まれていましたので、テープ起こしをした部分を抜粋いたします。

1975(S50)-03-20ご講演より

『わたくしはミカエルでございます。

 ・・・あの方(イエス様)は心の器を広くなり、宇宙即我の心境になったのでございます。
わたくしたちは、そんな彼に対して大きな愛情を持っています。

 そして何時しかそれを、多くの者に伝えるということも知っておりました。

 わたくしはその時に、マタイというイマネール(イエス様のこと)の弟子がおりました。マタイの元に姿を現したのでございます。そしてマタイに告げました。

 「イマネール、イエス・キリストは、まず昔、ダビデという者に生まれた。そしてそれからソロモン、アモン、そのような名前でこの世に生を受けた。そしてそのズーッとズーッと遠い昔には、エブラハムという方にもお生まれになった、いつも衆生を救っていらっしゃる尊いお方である」ということを、わたくしはマタイに説きました。

 しかしその教えは時を経ると共に、人の言耳鼻舌身意によって、正しいモノから変えられていってしまったのでございます。

 それは恰も、肉親の啓示のように説いていったのでございます。

 わたくしたちはそのことを、心の普遍性を説きたかったのに、いつしか人間は心を忘れ、魂の偉大性、転生を忘れてしまったために、そのように変えてしまったということに、悲しく思いました』

 私は、このこと、ミカエル様のお言葉を信じなさい等と言うつもりはありません。

 ただ、高橋信次先生のご講演の中で、天上界のミカエル大天使長と仰る方が、このように述べておられる事実がある、その録音テープが残されているということをお伝えしたいだけです。

 興味、関心のある方は、このテープを探すも良し、高橋信次先生のご著書を紐解かれるも良しということで、材料を提供させていただいているだけであります。

4.【イエスさまは十字架の上で本当に、「何故、神は我を見捨て給うのか?」と言われたのか?】

 ここでもまず、高橋信次先生のご著書から抜粋したいと思います。

ご著書「心の指針」 P154

 「わが神よ、わが神よ、なんぞ我を見棄て給いし・・・」とあります。十字架上のイエスは、息絶える寸前、こう大声でいったと、マタィ伝では記されています。

 ところがルカ伝二十三章では、「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」といっています。いったい、どちらが本当なのでしょう。

 イエスは、事前に、十字架も、復活も知っています。ユダが自分をパリサイ人に売ること、ペテロが嘘言を吐くことも知っていたのです。

 新約聖書にしろ、仏典にしろ、いろいろな人の手によって書かれてきました。聖書はイエスの手によったものではありません。とすると書く人の気根なり、心の在り方によって大分表現が違ってきますし、間違いもあるでしょう。さらには、これを訳す人の心構えによっても変わってきます。

 ・・・イエスのこのときの言葉は、「神よ、人びとを見棄て給うな、その為す所を知らざればなり」と、いうことです。

 聖書にしろ、仏典にしろ、文字にとらわれると、その真意を見失ってしまいます。全体の大意をつかむことが大切です。全体の大意で、それが本物か偽物かの判断がつくようにしたいものです」

 続いて、高橋信次先生のご講演会の中でのミカエル大天使長のお言葉をご紹介いたします。

1975(S50)-03-20のご講演会(質疑応答)

 Q:イエス・キリストが殺されるとき、『何故神は私を見捨てたのか?』といってと教えられているが、何故イエスはそのような言葉を投げたのか?(大学でキリスト教を学ばれた方の質問)

 A:あの時、イマネールが何故死ななければいけなかったか?

 そうしなければ、あの時に彼は、あれ以上法を説くことが困難だったのでございます。

 そしてあの時の世には、多くの彼に対する反発の心を持っている者がおられたのでございます。

 それは仕方がないことで、肉体を持ってすべてを忘れてしまっている多くの悩める衆生なのでございます。

 そのために彼は、磔にされて、死んでゆきました。

 しかし、彼は疑うことをしませんでした。

 聖書にはどう書いておられるかは、わたくしは知りません。

 しかしわたくしは、この目で見たのでございます。

 あの時、イマネール、イエス・キリストがゴルゴダの丘の上に磔されたときに、わたくしたちはとても苦しい思いを致しました。

 しかしそれはあの方の、自分が決めてきたことなのでございます。

 「もし、わたくしがそこまでしか法が説けなかったら、わたくしは、何時かわたくしを裏切る者によって磔にされて、あの世に還るであろう。しかしわたくしは、この世に復活して、多くの者に魂の偉大性、転生の偉大性を、肉体を現さずに、光子体の肉体で、皆の者に説くであろう」と、復活したのでございます。

 あの方は、みんなで晩餐会の最後の日に、それをもう全部、知っておりました。

 そしてわたくしたちも、すべてを全部、見て参りました。

 あの方は、わたくしたちが助けようと思えば、助けることはできたのでございます。

 しかし、ご自分からその命を絶つことを決められたのでございます。

 その為にわたくしたちは、その命(めい)と意思に背くことはできません。

 彼は神ではありません。神の使いなのでございます。

 わたくしたちも同じ神の子なのでございます。

 しかし彼にはそれだけの重大な使命と、魂の鼓動と、ユートピア建設の目的があったのでございます。

 その為に自ずから、自分で十字架にかかられたのでございます。


5.【「幸いなるかな、心貧しき者……」の真意は?】

 マタイ伝第5章には次のように書かれています。

 「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。……」

 ネットでのあるキリスト教会の解釈は、次の通りです。

 「(心の貧しき者とは)経済的にも物質的にも貧しく、きょう一日のパンをも神により頼まなければならない人、生きる知恵や力に乏しく、心弱く、あらゆる面で欠乏し、困窮しており、徹底的に貧しい人。
 第二の、「悲しむ人」とは、悲惨の中でくずおれている人、再び立ち上がる希望もなくただ悲嘆にくれるほかない人、嘆き、泣き叫んでいる人を意味しています。
 第三の「柔和な人」とは、力弱く、それゆえに敵に脅かされ、この世の権力によって抑圧され、打ち砕かれている人のことです」

 ネット上でのほかの解釈も、50歩100歩、似たような解釈か、自己流の解釈に終始しているようです。

 高橋信次先生は、次のようにお教え下さっています。

ご著書「心眼を開く」 P116

 『聖書マタイ伝第五章で、イエスは、このようにいっています。「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん……」

 これはどういうことかというと、心の貧しいとは、おごる心のない者。柔和とは心のおだやかなこと。平和ならしむる者とは、争いを好まぬことをいっており、こうした心を持った者は神の愛をうけ、天国の住者であるというのです。こうした心は、自我が強くては生まれてきません。無私なる心、なさけの心がなくてはでてこないのであります。

 慈悲の心も、無私、なさけ、思いやりでありますが、愛もやはり同じなのです。慈悲も愛も、ともに神の光ですから、同じでなければなりません。

 ただ、愛は、その根本は慈悲と同じですが、働きとしては、「許し」であり、相互扶助です。

 もし、この地上に「許し」という免罪符がないとするなら、人間は、原罪というカルマから、のがれることはできません。原罪とは、煩悩という神の子の神性を汚す、想念行為をいうのです。しっと、怒り、偽我、欲望……。こうした想念は、神性であるべき己の心を毒します。しかし、人間が肉体を持ち、相対界で生活していますと、どうしてもそうした想念にとらわれてしまいます。そこで、地上の人間を救うために、神は、愛の光を投げ与えてくれているのです。

 すなわち、「許し」という光です。

 人間がその原罪を認め、ザンゲし、素直な心で新生しようとするとき、神はその人に愛の手をさしのべ、その罪を許してくれるのです』

 もう一カ所、ご著書に記載されています。

ご著書「心の対話」 P18

 『「心の貧しきものは幸いなり。天国はその人のものなり」とイエスの言葉が出てきますが、これはなにも貧困の生活、地獄のような苦しみをいうのではありません。心が貧しかったら困ります。心は豊かでなければいけない。

 イエスのいう貧しいとは、欲深ではない、ということです。心の中に欲望がいっぱいつまると世の中が混乱します。つまり地獄の世界ができてきます。心が豊かで調和されれば、それはそのまま天国を現わすわけです。

 聖書や仏典は言葉の使い方がむずかしく、解釈に苦しむ点が非常に多いのですが、聖書や仏典を読まれる時は、自分の心に聞いて理解するようにしてください』

6.【イエスさまは、「イエス・キリストを信じ、・・・もしそれを信じないならば、永遠の滅びに至る」等と言われたのか?】

 ある宣教師の方の質問に答えて・・・【1976-4-11-ご講演会】での質疑応答でのミカエル大天使長のご回答

 Q:「すべてのキリスト教会とは申しませんけれども、多くのキリスト教会は、神は愛であると言いながら、イエス・キリストを信じ、教会に行き洗礼を受け、忠実に礼拝を行い、そして収入の十分の一を献金として捧げ、教会にとって誠に都合の良い愛の行為を為さなければ、神の国にはいることは出来ない。そしてもしそれを信じないならば、永遠の滅びに至るのだと、そのような教えを致します。

 果たして、イエス・キリストはそのようなことを言ったのだろうか? これが長い間の、聖書を説き、多くの人々に伝えようとしてきた私の心の中にある苦しみである。

 具体的に教えていただけたら非常に有り難いと思います」

 A:『わたくしはミカエルでございます。

 イエス・キリスト、イマネールはこの地上界に出たのは、モーゼがヤーベの教えを多くの者に伝えたが、それが余りにも戒律的になり、一週間の内に一日とある安息日が、まるで戒律的に定められ、何もしてはいけない。食べることも少ししか食べられないと、余りにも戒律的になってしまったために、すべてを正しく元の中道の位置に戻し、また多くの者に愛を説くために、天上界から神の使いとして、この地上界に現れた者でございます。

 イエスは、多くの者に愛の心を説き、慈悲、またヤーベがモーゼに伝えましたように、「汝、人を愛せよ」「汝、中傷するなかれ」、そのようなこともイエスは多くの者に説いたはずでございます。

 イエスは後に、サタンの手先により、十字架にかかり、天上界へと帰ってゆきました。
その後彼の弟子が、多くの者を救い、七つの教会を建てました。

 その教会といえども、初めは……で、多くの者に説法をしてゆき、また他の者の家を借りて、そこの家で正法を流布しておりましたところ、多くの宣教師を信じる者が、初めて建物を造ったのでございます。

 それがいつか、あのような戒律的な教会となったのでございます。

 その後、イエス・キリストの伝えた教えを書物にされた物が……の前に、許可されたのでございます。書物では恰も……でございますが、あれはローマ政府が許可したのでございます。
イエスの教えを盗み、「信じる者よ、汝は救われる」とイエスが説いた真の教えがいつか、「疑ってはならない。疑うこと、汝を滅ぼす」と、変えてしまったのでございます。

 権力者と、法王とまた牧師は手を組んで、封建的な政治をするために、キリスト教の教えを変えていったのでございます。

 今のキリスト教サイドは、聖書を研究しなさい、聖書を読みなさい、教会へ来なさい、でなければ汝の魂は救われないと教えているはずでございます。

 しかしそれはモーゼも、イエス・キリスト、イマネールも、それ自体を望んだのではございません。

 律法よりも、戒律よりも、彼らが望んだモノは、神が教えた愛と、自分自身が神我なる自分の心に持っている愛を、多くの者に、自分以外の者に分け与えることを教えたのであって、形式化した教会を、また教会組織を教えたのではないのでございます。

 人間という者は、いつの世に於いても、形というモノに囚われ、肉に翻弄され、己自身の心を忘れてしまいます。形ではないのでございます。

 イエス・キリストもモーゼも、またインドの地におけるゴーダマ・ブッダも、今の仏教もキリスト教も形式化されているだけで、彼らがわたくしたちに教えた法は、自分の心を、我が身を振り返り、多くの者に愛を与えよということなのでございます。

 教会など作れとは教えてはおりません。ただ集会の場所がいつしか人間の手によって形作られ、今の教会と、また仏教に於けるお寺となったのでございます』

7.【教会で行われているミサは、イエスさまが望まれたことなのか?

 あるキリスト教徒の方の質問に答えて・・・【1976-4-11-ご講演会】での質疑応答でのミカエル大天使長のご回答

 Q:「最後の晩餐の時に、葡萄酒とパンを分け与えられ、それが今の教会のミサで行われているが、キリストはそのようなことを望んでいたのですか?」

 A:『そうではございません。

 彼はそのことなど、望んではおられませんでした。

 あの時に、晩餐したときに、彼は自分の力を十人の弟子に分け与えたのでございます。

 それと共に、自分が死んでゆく、しかしその法は永遠にいつまでも、多くの衆生の心に、
「そなた達、私の弟子よ、ペテロ、シモン、そしてルカ、みんなそれを説かなければならないよ。パウロそなたも、ヨハネそなたもだ。そなた達がいつしか多くの衆生を助けてこの世がユートピアになるまで、そなた達の力をわたくしは信じる」

 そう彼は申したのでございます。

 教会を建てることも、ミサをやることも願ったのではございません。

 ただ多くの者は形だけとらえて、それを今、牧師、それらの方々が行っているのでございます。

 本当の心というのは、彼が説いた愛の教えの、その根本の心なのでございます。

 それはいつの間にか、形だけにとらわれて、変えられてしまったのでございます。

 しかし彼は分け隔ては致しません。皆、どの衆生も、同じように愛していたのでございます。

 そしてその教えがいつしか、多くの者に説かれるであろうということも、皆々、彼は知っていたのでございます。


8.【その他】

1)モーゼ様は、旧約聖書にあるように、戦いによって多くの人を殺したのか?

 あるクリスチャンの大学生の質問に答えて・・・1976-4-11のご講演よりミカエル大天使長のご回答

 Q:「旧約聖書を読んでいて、旧約聖書の神が、怒りの神、戒律の神と捉えられることに疑問を持っております。

 モーゼはヤーベの命ずるままに、40万人の民を引き連れ、40年かかってカナンの地に行ったが、その間に無数の人々を戦いによって殺したことになっています。そしてそれは神の命令であったと書かれています。

 古代に於いては、神の人モーゼでも人を殺すことは許されたのでしょうか?

 A:それは、モーゼが多くの者を殺したように聖書には書いてあり、またヤーベがそれを命じたと書いてあります。しかし書物という物は、その耳に、言葉が耳に、また次の者に伝えられていった物です。不確かな物なのでございます。

 あの時はモーゼがカナンの地に行くまでに、40年間かけました。カナンに行く間、そのような多くの年月は、距離的にいって不必要なはずでございます。

 なぜ、40年間かけたか? それはお互いに調和を取りながら、少しずつカナンの地にはいっていったのでございます。

 天上界に於いてヤーベは、モーゼに絶大な力を与え、天変地変を起こす力も与えました。当時、凶作を得ていたあの地方に於いて、モーゼはヤーベに頼み、豊作になるために、雨を降らせていただきました。

 ヤーベは、人を殺せとは、一度も仰ったことはございません。一人の命も百人の命も同じだと、いつも仰っているのでございます。

 モーゼは40年間の長い月日をかけ、少しずつ少しずつ、多くの民に食糧を供給しながら、またカナンの地に於いて、先住から居た民族に対しても、心の教えを多くの時間をかけ、少しずつ少しずつ浸透させていったのでございます。

 もしモーゼが人を殺し、多くの人を殺めたとしたら、天上界からの使いではなく、地獄の主のサタンです。

 天上界の者は、そして神の使いである、真の使いであるヤーベは、そのようなことは申してはおりませんでした。

 それは天上界にいたわたくしたちが、一番知っております。

 少しずつ時間をかけ、相手の心を考え、また地理的な位置を、また住むところを、食物を、衣食住をすべて考えた上でモーゼは、多くの民族を調和的に進めていったのでございます。

2)安息日の本当の意味

 あるクリスチャンの大学生の質問に答えて・・・1976-4-11のご講演よりミカエル大天使長のご回答

 Q: 安息日について、イエスの時代に於いてすら病気の人を癒してはならないとか、厳しい戒律になっておりました。安息日の本当の意味はどういうことだったのでしょうか?

 A:安息日について、モーゼはヤーベから聞いた、一週間に一日だけ心を安定させる、一週間の反省をするよう、一日を人々に持たせようと、ヤーベはモーゼに申したのでございます。

 何もするなとか、病める者を助けるなとか、商売はするなとか、そのようなことは申してはおりません。

 ただ、そういう一日だけ定めて、その日に於いて心を浄化せよと、一週間の反省をせよと申したのでございます。

 先ほどもわたくしが申しましたように、人間はすべて、形式化、戒律化したがると申しました。

 イエスの当時に於いても、今と同じようなことが行われていたために、天上界の命を持って生まれたイエスは、それを打開し、真のヤーベの言葉を再び再現するために、この地上界に生まれたのでございます。

 またイエス・キリストが亡くなり、同じような封建的なキリスト教に、封建的な宗教に、再び人間の心、肉に囚われる心に、それ自体が作られてしまうのでございます。

 モーゼは人を殺めもしなければ、人を憎みも致しませんでした。それが天上界の心なのでございます。

 それだからこそヤーベが、あのような力をお与えになったのでございます。

 そして多くの民族はカナンの地に、幸せをもたらすために参りました。

 今の、正しく伝えられていない教えは、多くの者を狂わし、日常の生活をも狂わせている地域がございます。それは正しい教えではなく、人間の手と、またその人間の意識によって作り替えられたキリスト教になってしまったことを知って下さい。

 ユダヤ教も同じことでございます。

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