義母の米寿祝い
先日、義母の米寿の祝いがありました。
義母は車で一時間半ほどのところに一人で住んでおります。
一般的に最近は長寿になったため、70歳の古希などを祝うことは少なくなってきたようで、喜寿(77歳)も、傘寿(80歳)の祝いもしなかったため、この米寿だけは何としても祝って上げたいと、一年以上前から気運を盛り上げておりました。
幸い、義母の長男がその気になってくれて、子供三人とその連れ合い、孫5人とその連れ合い、ひ孫等に囲まれての祝いの会となりました。
88歳ともなると、記憶がおぼつかなくなり、同じことを何回も聞いてきたりします。足腰も弱くなり、一人で出歩くこともままならなくなってきてしまいましたので、卒寿(90歳)の祝いをするならともかく、その次の白寿(99歳)までは、寿命は続いたとしても、意識や足腰がどうなっているか、今回が最後のお祝いというか、子・孫・ひ孫が一堂に会する最後の機会になるのかも知れないという思いがありました。
そういう意味からしても、つつがなくお祝いが出来ましたことは、大変嬉しく思わせていただきました。
妻の気に障る言動、癇に障る言動
祝いの数日前、私は妻にこう尋ねました。
「お義母さんを宴会場まで、誰が送っていくの?」と。
義母宅から宴会場までは、歩くと20分ぐらいかかり、お義母さんの足ではとても歩ける距離ではありませんし、段差の多い一般道を、車いすを押していくのも大変だと思ってのことでした。
妻はこう答えました。
『○○(弟)も居るし、△△(孫)も居る(近くに住んでいる)ので、どちらかが車で送っていく』と。
「じゃ、私は、宴会場の近くの駐車場に止めようか」と言うと妻は、「私も歩いていくから、家まで来たら?」と言うので、「じゃ、そうしよう」と、宴会場の近くで停める時のために調べていた駐車場のメモを破棄しました。
当日、宴会の約一時間前に義母宅に着きました。
コーヒーを飲んでいると妻が、『お母さんを車で連れて行ってくれない?』と言います。
「○○か△△が連れて行くんやなかったの?」と聞きました。
『「○○(弟)は、酒を飲むつもりだから車の運転はしない」と言ってるし、「△△(孫)は遊びに出掛けていて、出先から直行するから」って』
私は、自分の心の中に、怒りの思いが湧いていることを自覚しました。
その理由は、まず最初に、『ごめんなさいだろう?』と。そして、最初から言ってくれていれば、元々、自分が連れて行くつもりであったこと、それを不要と言ったではないか、という思い。
送迎不要と言われたため、宴会場付近の調べていた駐車場のメモを破棄していたこと。私は大画面のパソコン派で、小さな画面のスマホでのネット検索は、基本的にしたくないと思っていましたので、駐車場は、お義母さんを送り届けてから、カーナビで調べざるを得ない思いました。
又、自分が連れて行くことが分かっていれば、20~30分の駐車であれば、何も有料駐車場に停めなくても良かったこと。時間調整しても良かったこと。たかが2~300円の金額でも、ドブに捨てるようなことはしない、してはいけないという思い。
更には、宴会開始の30分ほど前に車を取りに行くとき、『そんなに早くなくても良いんじゃない?』と言われたので、「主賓が遅れたらあかんやろ」と答えながらも、「頼んでおきながら、何を言っているんだ」というような反発の思いを持っておりました。
そして、まだかまだかと、かなり待ったあげく追い打ちをかけるように、『予定時間は30分ほど余裕を持たせてあるんだって』と、言われたこと。「それは宴会場のことであって、来賓は知らないことだろう?」と、一言一言がカチンカチンと気に障りました。
見方によっては、何を小さな事を、ケツの穴が小さいと言われそうですが、何十年という人生の日々の積み重ねの結果なので、当人にとってはごく自然なというか、如何ともし難い心模様なんでしょう。
まだ続きます。
お義母さんを降ろした後、コインパーキングをカーナビで探し、行ってみるとと、一件目は満車。二件目でやっと停めることが出来ました。会場に急ぎ足で着くと、妻が入り口で待っていてくれたのは良いが、『お父さんが最後やから、みんな待っている』と。
「お前がそうさせたんやろ!」と、口には出さずとも、心の中はまた、煮えくりかえっていました。
・・・でも、正法をかじっているということはとても有り難いことも実感しました。「ああ、こんな思いを持っているんだな。“まだまだ”だな」と止観することにより、心は一瞬にして平静を取り戻すことが出来、お義母さんの祝いの中にとけ込むことが出来ました。
夜の反省
前段
時間が取れるときはいつもやっている反省ですが、当日は夜遅くなって家に帰ってきたために時間が取れず、翌日の実施となってしまいました。
翌日、反省を始めると直ぐに、「まだまだ、こんなレベルなんだな。長いこと、正法をやっているといいながら、こんな程度なんだな」という思いが、真っ先に浮かび上がってきました。
次いで、「こんな思いが湧いてくるということは、今までの長い習慣とはいえ、少なくとも自分を傷つけている。どうしたらこんな思いを持たずに済むんだろう。我慢するのではなく、心を波立たせずに受け止めるためには、どうしたらいいんだろう」と、反省を深めていきました。
ここまで集中して怒りなどの思いが湧いてきたことは、過去にもあまり記憶が無く、こんな強烈な思いが心の底に隠れていたんだと実感しました。
反省して、こんなことはもうやめようと決心し、それでやめられるレベルのものは、心の浅いところで形づくられた癖なんでありましょう。
やめようと決心しても感情がついていかない、「公平に見たって相手が悪いだろう?」と自我が叫んでいる、こういうレベルのモノは、やめようと思っても、おいそれとはやめることは出来ないモノのようです。
こういう癖こそ、業・カルマというようなものなんでありましょう。
おそらく麻薬中毒患者が、何度も何度も手を染め、犯罪として検挙され、世間の目にさらされてすらも、尚且つまた手を染める。いくらその人が、「もう、いい加減にせんといかん。もうやめよう」といくら決心しても、恐らくその人の自我は、「何で捕まらなあかんのや? 誰にも迷惑かけてへん。犯罪扱いにする方がおかしいわ!」と叫んでいることでしょう。
頭で理解しても決心しても、感情がついてこないと、実行、実践にはなかなか繋がっていかないのでしょう。
核心に触れる
反省を深めていったとき、こんなことが思い浮かんできました。
「妻のシャクに障る言葉は、私の貧しい思い・心を際だたせるために、我が守護霊が、妻の守護霊に頼み込んで、そのような言動をさせて下さっているのである。そのことを理解すれば、少なくとも、妻を非難したり批判したりする思いは出ないであろう」、と。
……私の心の中には、まだまだ貧しい思いが山積している。その一つが、このような、気に入らないことがあると直ぐに、その人を非難してしまうというような思いである。そのことを修正させて上げようと、我が守護霊が、妻の守護霊にお願いをして、その結果として妻が無意識に、私の気分を逆なでするような言動を取ってくれたのである。
私はその計略にまんまとかかり、怒り、反発の思いを抱き、そんな思いを抱いた自分を哀れに思い、この深い反省へと進んだのである。
このように考えることで、妻への批判的な思いは跡形もなく消え去ってしまいました。怒りをぶつけて申し訳ありませんでした、我が良きパートナーよ、と思っておりました。
こんなことが現実にあるのか、という思いも湧いてきます。私の単なる思い込みかもしれません。私は心の窓が開けているわけではないのですから、守護霊様の思いがキチンと伝わってくるものではありませんから。
でも、そうであるか否かは問題ではないのです。大事なのは自分の心を綺麗にすること、批判や怒りの思いが出ないようにすること、自分の心がどんなときにも平静であること、その一点だけです。
もし雑巾で心を24時間磨けば綺麗になると保証してくれるなら、私は磨くことでしょう。念仏を1000回、一万回唱えれば綺麗になると保証してくれるなら、唱えることでしょう。
でも、神仏を初めとして、誰一人、保証して下さる方はいらっしゃらないでしょう(既存宗教の似非指導者は別にして)。人の心というモノは、そんなに安易には出来ていないようであります。
しかし、この思い、即ち、我が守護霊が頼み込んで、妻がそれに応えてくれたと思うこと、実感することによって、我が心の曲がりが正せるのである、少なくとも怒りの思いが消え去ってしまうのであるからから、それを信じて進もうと思います。我が守護霊が保証してくれているようにも思えます。
後日の反省
この反省を通してブログを書き始めた頃、「待てよ、この反省で良かったのか? 今回は、トリッキーなお導きによって問題をクリアーしたかも知れないが、反省の要諦は、原因の追究、排除にあるはずだと思い立ち、一つ一つの自分の心の動きに対しての反省を深めないといけない」ということに思い当たり、そういう反省を行いました。
一つ目は、妻が前言を翻して、詫びの言葉もなく、平気で用事を頼んできたこと。
このことに苛立つのは明らかに、自分中心の思い、「前言を翻すのであれば、詫びて然るべき」という、小さな小さな自分の心、愛薄い心が浮かび上がってきました。
自分の思い通りに物事が進まなかったらむくれてしまうという、幼いときから野放しにしてきた自己保存の思い、自分を守ろう、自分さえ平穏であればそれで良いじゃないかという、自己保存の思いがその原因なんでありましょう。
二つ目は、分かっていれば、有料駐車場に停めなかったということ。
確かに、お金をドブに捨てるということは、してはいけないことでありましょうが、2~300円のお金が気にかかるということも、お金に対する執着、自我我欲の現れなんでありましょう。
必要があったから、お金を使ったんだという思いになれないのは、執着、なんでしょう。
三つ目は、車を取りに行くとき、及び、妻と義母が車に乗り込むとき。
ここまで反省を進めますと、これらも自己中心の思いが優先していることに気づかされるのでありますが、同時に、すべてがすべて人を相手にしている、妻の言動に対して反応しているということに、やっと気づきました。
人ではなく、自分でなければならないと、自分の心がどう動くかを見なければならないと、嫌というほどお教えいただいているにもかかわらず、ついつい、人を見てしまう、人の言動に対応してしまう、左右されてしまうということに気づきました。
最後の、会場に着いたときの妻の言葉も然り、です。
根本は、自分の自己保存、自我我欲であることは明らかなので、それを取り払う努力をしなければなりませんが、それと共に、人を見る、人の言葉に動かされてしまうのではなく、動かされた自分の心を見ることに留意しなければ、動かない心に至ることは難しいのではないかと思わせていただきました。
何れにしましても、これらの心癖を解消する手段は、『止観』、それしかないと、改めて思わせていただきました。
常に同じ結論に辿り着いても、なかなかに進展がない。しかし、答が分かっているということは、悦びでしかありません。後はただ、実践するのみ。
ゴールへの道筋が見えているということは、歓喜であります。
反省の纏め
一つは、我が心の歪みを修正するための守護霊様のお導きであると受け止めること。
今一つは、人を見ずに、我が心の動きを見るということ。
この作業を進めることにより、自分の気に入らない言動に対して我が心が動揺するというカルマを、今生で消し去ってしまいたいと思わせていただいております。
そして、この妻の逆なでするような言葉があったからこそ、我が心の中に眠っていた怒りや非難の思いが湧き上がって表面化したのですから、そしてだからこそその心を修正をすることが出来るのですから、そのことに、逆なでしてくれたことに、妻に感謝すべきであることは、自明のことでありましょう。
このように思うこと、思えることが、「嫌な人にも感謝」ということの真意なんでありましょう。
しかし、このような思いを持ったから、もう人さまの逆なでするような言動に動揺することはないでしょう、等と言うつもりはありません。これからも何度も何度も同じような怒りの思いを持つことでしょう。
でも、その瞬間、止観することによって、今回よりも格段に早く、怒りや非難の思いから脱却することが出来るのではないかと思っております。そして何時かは、このような妻の言葉に対して、「そうだね」、「分かった、そうしよう」と、にこやかに返事をしている日が来ることを信じて疑いません。
“まだまだ、まだまだ”ということはよく分かっているつもりですが、このような思いになれたこと、解決策ではないかという光明が見えたことを、感情的にそれが受け止められるようになったことを、心から嬉しく思っております。
高橋信次先生は、『自己を見つめるためには、他を意識しては、正しい自己は発見しにくい。他はあくまで、自己の心を正す材料であって、自己の延長とみてはなるまい』とお教え下さっています。
妻の言動は、まさしく、我が心を正すための材料であったということなんでしょう。
天上のお導き
かなり以前にお教えいただいた天上の方からのお導きに、次のような一節がありましたことを思い起こしました。
『嫌な方がいる。嫌な方が悪いのではなく、あなたの心がその方を嫌だなと思う、その心が卑しいのです。
相手のこんなところ、嫌だな。相手のこんなところ、変えて欲しいな。その心こそ、変えなければいけないところなのです。あの人が悪い、そう思うあなたの心が悪いのです』
こんな文章が含まれた、珠玉のご文章です。宜しければ、以下、全文をお読み下さい。
なお、このご文章は、『天上からいただいたご文章』の中のP174(2004-1/11分)に掲載されております。興味を抱かれた方は、是非、ここにもジャンプしてみて下さい。
相手ではなく、自分ということ
相手の方を責めるのではなく、いつも自分の心の中に鍵があるということを、忘れないで下さい。
人を責めるのは簡単です。人の所為にするのも簡単です。けれども、自分の心は良くなりません。いつまで経っても、壁や色んな汚れで曇ったままです。
ご自分の心を綺麗にするのは、自分で自分を点検し、勇気と努力を持って克服していくことです。
相手の方、どんなことがあっても、どんな言葉を言われても、どんな人が現れようとも、ご自分の心はいつも平常、安らかな心でいられる時こそ、あなたは本物に近づいていった事になります。
太陽があなた方に分け隔てして熱・光を与えているでしょうか? Aさん、Bさんには心が良いから、たくさん上げよう。Cさんは心が悪いから、あまり上げない。このようなことをなさるでしょうか?
どの方に対しても、平等ではないですか? 悪人であっても、親切な人であっても、同じ太陽の熱・光、エネルギーを、皆様に与えてはおられないですか?
皆さんはどうですか? Aさん、Bさん、Cさん、それぞれ自分の心の持つ光のエネルギー、愛、同じように与えられますか? まだまだ、Aさんに不足、Bさんに不足、Cさんに不足、それぞれに持っておられるのではないですか?
不足は、Aさん、Bさん、Cさんにあるのではなく、あなたの心に不足の種があるのです。Aさん、Bさん、Cさんが悪いのではなく、あなたの心に鍵があるのです。
自分を、心の点検せず、相手の人はこうだから、相手の人がああなんだから・・・これは違いますね。
どんな方であっても、どんな人であっても、いつも自分の心が安らぎ、悦びに満たされている姿勢、どんなに不調な時も、どんなに病める時であっても、いつもいつもこの心に変えていく、いつもその心がある状態、それが本物、神の心に近づいていってる証拠です。
・・・色んな些細なことに、まだまだ心が動くようなことでは、まだまだ精進、足らないです。奥様の一言、ご主人の一言、友の一言、子供の一言、一つの行動、それが心に引っかかるのは、まだまだ心が出来ていません。
いつも丸く豊かに、光り輝く心を、それぞれ皆さん、養っていって下さい。いつも謙虚に、心明るく、悦びに、安らぎに、どんな方であっても憎むことなく、争うことなく、いつもいつもご自分の心磨きのために相手がいるのだということを忘れないで、自分の心を磨いていって下さい。
相手は、自分のどんな嫌な相手であっても、自分の最高の教科書、先生であります。相手のお陰で、自分の悪いところを変えれます。
嫌な方がいる。嫌な方が悪いのではなく、あなたの心がその方を嫌だなと思う、その心が卑しいのです。
相手のこんなところ、嫌だな。相手のこんなところ、変えて欲しいな。その心こそ、変えなければいけないところなのです。あの人が悪い、そう思うあなたの心が悪いのです。そう思っている内は、丸い豊かな心ではありません。
どうぞ、そういう心が少しでも減るように、いつもいつも心を養っていく、そして輝かせ、大きく光らせていけるご自分造りをなさっていって下さい。
そしてご自分の引っかかる点を「あゝ、こんなことも引っかかっている」と、見過ごすことなく、一つ一つ正しく点検していって下さい。相手の方にいつも感謝する心を持って下さい。どんな嫌なことを言われようと、どんな嫌な存在だろうと、感謝できる心が必要です。
自分に親切な人、感謝できて当たり前です。自分に嫌なことをしてくれる人、その人に感謝して下さい。どんな方にも感謝を、悦びの心を持てた時、あなたは誰にも負けない、誰にもない、あなただけの一人の華を、たくさん心に持てるようになっているときでしょう。
どの方にも心を、どの方にも感謝の心を、どの方にも悦びの心を併せ持っていけるように生かしていって下さい。
今まで自分が歩いてきた道も、その軌跡の一つです。まだまだこれから先、沢山たくさん歩いていかなければいけません。
素直になることです。心を開くことです。心を閉じていては、自分の本当の心、見えません。人を変えるのではなく、自分を変えること、これを始めていきましょう。
皆さん、まだまだ、人を変えたいと思っていますね。自分の周りにいる人、自分の都合の良いように変えたいと思っています。
相手は変わりませんよ。自分を変えるのも難しいのに、相手を変えようなんていうことを、実際、難しいことです。
相手の方の色んな現象、現状に囚われることなく、ご自分の心が囚われない心を作ることこそ、大事なことです。
花が囚われますか? 太陽が囚われますか? もし太陽が、そのような囚われの心を持ったとしたら、この地球は一秒たりとも存在できなくなります。
皆様、神の心、神仏のような心、高い心になりたい、そのように仰りますが、本当のそのような心とは、太陽の心ではないですか?
太陽の心になるためには、太陽がそのように囚われることなく、ご自分を皆様のために尽くすといいますか、皆様を分け隔て無く与えるように、ご自分の心もそうならなければなりません。
妻が、夫が、父が、母が、周りの友人が、ではなく、ご自分の心を変えることです。
嫌なことを言われたら、嫌なことを言われてるその心を見て下さい。嫌だと思う心を見て下さい。引っかかる心を見て下さい。そして修正して下さい。他に何もありません。
人を変えるのではなく、自分の心を変える、それです。それが自己確立に繋がっていきます。
相手は関係ありません。自分の心、それが自分と神ということです。
自分と神ということは、相手は関係ない、相手と自分は関係ないとか、そういうことではなく、自分の心を丸く磨く道ですから、相手を変えるのではなく、自分を変えていく、それが自分と神の道です。
あの人がこうだから、違う道を行くから、イヤこうだから、だから関係ないとか、言ってもダメとか、それはまだ、相手を変えようとしているということです。
そのようなことではなく、どのような人であっても、どのようなことを言われたとしても、それに動かされない心造りをする、そして今の自分の心の状況、相手との状況を正しく見つめて、その上で、して差し上げなければいけないことを、して上げられる最大限のことをするということです。