町内の神社の祭の屋台を孫たちと巡って、教えなければならないと思った大事なこと

町内の神社の祭に孫たちと参加

 先日、町内の神社の祭りがあり、孫たちと屋台巡りをしました。

 屋台の一番奥は神殿になっていますが、私はそこに普段は行くことはありません。そこに神仏はいないと信じているからであります。もし居るとすれば、動物霊か、悪霊の類であろうということになります。

 孫たちも幸い、その一角は屋台もなかったので、神殿に近づくことも、お詣りと称することもすることなく、屋台の終点でUターンをしたことで一安心をしました。

 なぜ一安心か?
 髙橋信次先生が、次のようにお教え下さっているからであります。

 『神社仏閣に参詣することはその人の自由であるが、神仏はその人に対する幸、不幸の責任は持たないということを知らなくてはならない。
 ・・・現代の神社仏閣の中には、霊域の高い場所もあって、実在界の諸天善神が常に連絡所として一念が現象化される場合もあるが、そのような神域ははなはだ少ない。従って神社仏閣はどこでも霊域が高い所だ、と信ずることは危険であり、かえって不幸を呼びこむこともあり得ることを悟らなくてはいけない』

 ここに書かれていますことは、神社仏閣に行ってお祈りをすれば幸福になると言われているが、そんなことはあり得ない。

 むしろ、欲深い人間が集まることが多い神社仏閣は類は友を呼ぶという風に、自我我欲に満ちた動物霊や地獄霊が集まっていることが多く、そこに欲心を持って参拝などをすると、そのような悪霊に憑依されることがある。そういう意味で、参拝すること自体が危険であり、そうなれば当然、不幸を呼び込むことになると、お教え下さっているのであります。

 車の交通安全祈願に神社等に行き、ご祈祷なるものをして貰い、お札などをいただいて、その帰り道で交通事故で死んでしまう、こんな例が、このことを如実に物語っているのかもしれません。

7台の御輿(山車)が町内を巡行する

 この神社はそれなりに有名な神社で、昔の格付けの、最尊貴の神社として社格制度の対象外とされた伊勢神宮を除き、最も社格の高い官幣大社であり、現在でも巡行する御輿(山車)も7台を数えるほどありました。

 若者の地元離れが言われている昨今ではありますが、この御輿の巡行の主体は若者であり、共同で何かを成し遂げるということには、それなりの魅力があるのだろうと思いました。

 7台の御輿の内、5台は車輪付きの御輿で、地面の上を引き回すものでありますが、2台は車輪がなく、担いで町内を練り歩くものでありました。

 そしてその2台の内の1台は、若者に混じって、数人のお年寄りが御輿を担いでいました。

 引くだけの御輿に比べて担ぐ御輿は個人個人の担ぐという責任分担があり、参加意識が強いのでしょう、充実感もあるのでしょう。肩で息をしながらも、ご老人たちは、十分にその分担を果たしているように見受けられました。

 ひょっとすると、このご老人たちにとっては、年一回のこの祭が自分を主張する最大のチャンスなのか、そして更にひょっとすると、この日のために、散歩やジョギングで身体を鍛えているのかもしれないと思いました。

金魚すくいの金魚

 孫たちは、神社には勿論のこと、自分たちが参加できない(町内の住人ではないため)と分かっているので、御輿にも余り興味が無いようで、興味の対象は、出店一辺倒になりました。

 先ずはくじ引き。
 1割程度の当たりが出ればそれなりの金額のぬいぐるみ等が貰えるのですが、9割のハズレ、店側は“小当たり”と言っていますが、100均商品のようなものの中から選ぶことになります。

 このくじ引きが500円ですから、子供の好奇心を突いた粗利の大きい商売だなと思いましたが、親や祖父じいちゃん祖母ばあちゃんの財布の紐は、こんな所では緩んでしまわざるを得ないのでしょう。

 その次は金魚すくい。
 すくえたらすくった匹数だけくれるのですが、すくえなくても、一回当たり2~3匹程度の金魚をくれるようです。

 結果として合計12匹の金魚が、我が家にやってくることになりました。庭の池が久しぶりに賑やかになりました。

神社に参詣するということの意味、危険性を孫たちにどう伝えるか?

 先述しましたように、神社仏閣は不用意に近づくと、危険であるということをいつかは孫たちに伝えなければならないと思っていますが、どのように伝えればいいか、なかなか良い方法が見つかりません。

 親たちは、無意識に参拝するものだと思っているようなので、例えば何故私が参拝しないのかというようなことに疑問を感じ、質問が出たときぐらいしか、話しても耳を傾けないのでは無かろうかという気がしています。昔の私が盲信していた頃は、恐らく私もそうだったのでしょう。

 孫たちには、いつ話が出来るかが分からないし、孫たちの年齢も異なるので、童話の中に残してあげようかという思いがしています。

 次回はこのようなことを扱った童話になるかもしれませんが、このようなものが童話と呼べるものかどうか。呼べる呼べないに関係なく、読んでくれて理解してくれたら、十分にその目的は果たせたということになります。

 序でにと言うと語弊がありますが、その親たちもこの童話を読んでくれたら、更に嬉しいことになりますね。

 そういう意味では、この童話集、孫たちへの良い遺産になってくれたら、有り難いなと思わせていただきました。

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