年末年始にお金に関する、こんな出来事がありました
十数年前、ある出来事があって、子供(長男)に100万円のお金を借りました。
自分では、かなり前、時期は記憶にないのですが数年前の時点で返済は完了したと思い込んでおりました。が、年末が近づくにつれて、「ひょっとして返していないんじゃないだろうか?」という思いが湧いてきました。
100万円という、私にとってそこそこ大金であるお金を返したんなら、それなりの記憶が残っているはずじゃないか? それが明確に残っていないとしたら、返したつもりで、実は返していなかったということなんじゃないだろうかという思いになりました。
そんなある日、意を決して、過去の預金通帳を全て引っ張り出し、100万円の引き出しの記録があるか否かを調べました。
現存している通帳が過去の全てではないとは思いますが、残っている通帳には、100万円の引き出しの記録は見当たりませんでした。
私は、やはり返していなかったんだと思い、郵便局で帯付きの100万円の束を準備して貰い、いつでも返せるように現金を手元に置くことにしました。
正月に帰ってきた長男にタイミングを見計らって、「返したと思っていたが、返していなかったようなので・・・」と言いだすと長男は、「返して貰ったで。お父さんが何年か前、○○(その頃長男は遠隔地に住んでいました)に会いに来てくれた時に・・・」との返事でした。
そう言われればそんな気がしないでもありませんし、長男がここまで明確に覚えているということは、私を気遣ってのことではなく、やはりそれが事実なのであろうという思いになりました。
「じゃあ、返していたということで良いんやな?」という確認をして、この件は一件落着となりました。
この件に関連して思い出した、もっと昔のお金にまつわる出来事
私はその昔、某大企業に勤めていました。
営業畑で、一応課長職を勤めていた頃のことです。
その頃の私は毎日のように飲み歩き、半分はお客様の接待、半分は社内の同僚や部下達と歓談するというような日々で、多くはタクシーで帰宅をしておりました。
そんなある日、行きつけのスナックが閉店するということで、課の連中の時間の都合がつく人全員を引き連れて、そのスナックに行きました。
私はその店の常連でしたので、そのスナックも特別扱いをしてくれ、私のキープしているボトルが空になっても、「この人のボトル、もう来ないから飲んじゃいましょう」などと、他人のボトルをドンドン持ってきてくれて、閉店まで飲み続けました。
PM11:00か11:30かは忘れましたが、みんなそこそこに酔っていましたし、私はとても電車で帰る気にならなかったので、タクシーで帰宅しました。
翌朝、出勤しようとすると、背広のポケットに財布がないことに気づきました。
財布は背広のポケット以外入れる習慣がありませんでしたので、一応カバンも調べては見ましたが、やはり無く、昨日のタクシーに忘れたんだろうか、タクシー代は払ったようなので、タクシーの中に忘れたか、降りてからの道路に落としたかのどちらかだろうと考えざるを得ませんでした。
出勤時に、家を出て周囲を見渡しましたが、財布らしきものは見当たりませんでした。
会社に着いて、腹心の部下というか、筆頭主任が出勤してきた時に、「みんな無事に帰れたかなあ? 俺なあ、どうも財布をタクシーの中に忘れてきたみたいやねん。やっぱり飲み過ぎるとあかんなあ」などと話しかけました。
その彼は呆れたような顔をして、「これとちゃいまんのん?」と、私の財布を胸ポケットから取り出して、私に示しました。
「エッ、どうしたんや」と聞くと、「昨日のこと、覚えてませんのか? 帰る時、「俺はタクシーで帰るけど、みんなもタクシーで帰り」言うて、財布から一万円抜いて、財布ごと私に渡してくれましたやん。ほんまに覚えてませんのん?」と言います。
「そやったかー」と言って財布を受け取って、「みんなは車で帰ったんか?」と聞きますと、「みんな電車で帰りましたので、財布のお金は一銭も使ってません」との返事でした。
その頃は急な出費があっても大丈夫なように、財布の中には常に10万円ぐらいは入れていましたが、自分が引き抜いた一万円以外は元のままであった記憶があります。
お金に対する私の執着について
前述のようなお笑いのような出来事は、その頃はお金がふんだんにあったから出来た芸当で、こんなことが出来たからお金に執着がないなどと言えるものではなく、私はどうも、お金に対してはかなり強い執着があったようです。
お金第一というか、お金が絡むと人が変わるというか、現役で仕事をしていた当時はそれなりに給料を貰っていたので、上記のような鷹揚な態度も取れたのかも知れませんが、大企業退職後は、通帳の残高をいつも気にしているような日々であったような気がします。
かなり前のことですが、あるスーパーの通路に1000円札が落ちていました。
咄嗟にというか、無意識にそれを拾い、ポケットに仕舞い込んでしまったことがあります。
何とも情けない話ではありますが、その頃はまだまだそんな心の状態であったということのようであります。
そして、その瞬間から心の中での葛藤、こんなことをしてはダメだという葛藤が始まり、直ぐさま、次のようなことを自分の中で決めました。
①自分で得たお金、若しくは天が与えて下さったお金しか自分のものとはしない。
②もしお金を拾った場合、どこかの敷地内であれば、その敷地の人に提出する。
敷地外であれば、高額の場合は警察に、少額の場合はどこかの募金箱に入れる。
③天が与えて下さったお金か否かが判然としない場合は、自分の心に違和感がないか、堂々と公表できるか否かで判断する。
この拾った千円は、後日、ある飲食店の募金箱に入れましたが、このように決めたことで、それ以降も何度かお金を拾うことがありましたが、ルールに則って処理が出来るということは、非常にストレスを感じないものであることを実感しております。
又、オークション等で商品を購入する場合は往々にして、商品の性能や外観とお金の関係で違和感を感じるものでありますが、相手の方が話の通じそうな方であれば素直に話をし、チョットおかしいと思える方に対しては、自分の心を汚す前に手を引くことにしておりますので、これも又、ストレスを感じなくて済むようになっています。
当然、お金に関する問題なので、引っ掛かりが皆無かというと、そうではありませんが、天が私を試しておられるんだなということに意識を向けますと、その理不尽な対応をして下さった方にも感謝の思いを持つことが出来るようになってきたように思え、嬉しく感じております。
今回の100万円の出来事の意味は何か?
100万円という金額は、私に取りましても、それなりの重みを持っている額なので、あゝ、忘れていたなと、簡単に右から左に回せる金額ではありません。
でも、自分が背負った借金を、相手が忘れている、若しくは口に出さないから、頬被りをしようなどとは、全く考えてもいませんし、今生で背負った借金(お金や物だけではなく、精神的にも)は、今生で完済したいと念願しております。
今生で清算しきれなかった借金は来世に持ち越し、あの世で反省をし、如何にあるべきであったかを理解し、また次の世、この現象の世界に生まれてきた時に、同じような状況で、今度は間違いなく対処が出来るか、精算が出来るかを再度、試されるとお教えいただいております。
そういう意味合いからしまして、今生の借金は今生で返しておかないと、来世に持ち越すということは、次回のこの現象界での人生のスタートが、今生のおさらいから始まるということになってしまいます。
更に、それがおさらいと分かっていない状況で対処しないといけないため、同じ過ちを犯しかねないという問題を抱えての人生になってしまいますので、何世に亘って同じテーマのクリアーが出来ない人も居られるということのようであります。
もしこの出来事が天のお試しであったなら、今の私にとっては、容易にクリアーできそうな問題であったような気がしております。
しかし、もしこの金額が2倍、3倍、5倍の金額であったらどうするのか? こういうことを私は常に考える癖があるようですが、“家族に対する申し訳のなさ”は格段に増えるにしても、知らん振りをしたり反故にするようなことは考えられませんし、貯金額が目減りするなら、仕事をしてお金を増やすようなことも考えるでしょう。
そういう意味合いからして、天のお試しとは考えにくいのですが、お金に対する心美人に至る一つのケジメだったのかな、とも思わせていただいております。
何れにしましても、お金は必要なものですから、軽々に扱うつもりは毛頭ありませんし、お金や物にも感謝をしておりますが、お金に限らず、物であっても、色んな出来事であっても、そのようなことに心を乱されてはならないということなのでありましょう。
第三者の眼で見る(天のお試しと見る)ということ、それが出来れば、心の痛みや苦しみは格段に小さくなるものだと、こう思わせていただいたことを持って、何とも締まりのない終わり方ではありますが、この出来事の〆としたいと思っております。