義母の家のトイレットペーパーホルダー
私の妻は時々、電車で一時間半ほどかかる距離のところに住んでいる実家の母(私にとっては義母)のところに参ります。盆と正月は定例として、それ以外は季節の変わり目が多く、2~3泊して、衣替えや母の身の回りの世話をしたりしています。
秋のお彼岸が近づいてきたので、私に「母のところに行こうと思っている」と言ってきたので、「車で送っていくよ。私もちょっと顔を出したいから」と返事をしました。
長年に亘って盆と正月、それと義父の命日以外は、ほとんど行ったことがありませんでしたが、ちょっとした用事があったので、その理由は言わずに、そう答えました。妻は、どうした風の吹き回しかと思ったかもしれませんね。
家に着くと私は、仏壇にお参りをして、様子を覗いながらトイレに入りました。
10分、15分くらいでしょうか、「やっと直ったよ」とトイレから出てきて、妻にそう言いました。
『何が直ったの?』と聞くので、「トイレットペーパーのホルダーが壊れて外れていたやろ。それを直したんや」と答えました。
それからコーヒーを飲んで一休みして、「じゃ、帰るわ」と言って、一時間半か二時間ほどかかる高速道の道のりを帰ってきました。
話はこれだけです。お終い・・・と言っては身も蓋もない話になってしまいます。
私は、ひとり暮らしの義母の家のトイレのトイレットペーパーホルダーが壊れているのを盆に行ったときに見つけました。
お義母さんが、恐らく用を足して立ち上がろうとして手をかけて力を入れたときに、ボルトで留めているプラスチックの穴のところが欠けて、壊れたんだろうと推測し、座金(ボルトと穴の間に入れる金属製のもの)を介してボルトを締めたら直るんじゃないかと思っていました。
善意の行動は、手をこまねいていても訪れてはこない
義母はもうすぐ米寿を迎える年格好であります。自分の身の回りのことをするだけで精一杯。このような余計な仕事は、誰かがしてあげない限り、ずっとそのままになってしまいます。
トイレットペーパーはいつも、便座の後のタンクの上に置かれていました。不便だろうと思いましたが、女性には手をつけにくい仕事というか、作業内容かもしれませんね。
この世知辛い世の中、自分のことだけで精一杯と言うより、自分のことしか考えられないようになってしまっている我々人類。
アラアラ、こんな些細なことで、大きく“人類”を持ち出してしまいましたね。
無償でお与え下さっている太陽の熱、光、大地、空気、水……我々人類が生きていく上で必要なものはすべて与えて下さっている……その慈悲と愛に対する感謝の心は、他の人々のためになるような報恩の行為として現さなければならないとお教えいただいています。
髙橋信次先生のご著書の中にも、次のようにお教えいただいています。
『神の光は、慈悲と愛に対する感謝の心が、人々に対する報恩の心と行為になって行くような人類にこそ注がれる。私達は、一歩一歩、このような社会を作らなくてはならない。そしてそれは、手をこまねいていても訪れてくるものではない。実践行動の中に、善意の運動は広がって行くものなのである』
このような行為が自分の親や家族だけでなく、周囲の人、困っておられる人々に、自然と何のてらいもなく行える人がいっぱい現れると、キットキット素晴らしい世の中になることでしょう。
我田引水かもしれませんが、小さい小さい事柄だけれども、自分の行動を振り返り、そんなふうに自然に出来る自分を、嬉しいものだと思わせていただきました。