【序】
昨今、終活が叫ばれていますが、終活の最大テーマは、「人間死んだらどうなる?」「あの世は在るのか無いのか?」「生命は生き通しなのか?」という自分自身への問いかけでないといけないのではないのでしょうか?
私の兄は、年齢が進み、病気がちになり、先日入院中に見舞ったとき、「もう何ヶ月も生きられないかも知れない・・・」と、気弱な発言をしていました。
この兄は、無神論者で、神を信じることはなく、当然というか、死んだら終わりと思い込んでいます。
私はこのことを前々から知っているので兄に、「兄貴は、死んだら終わりやと思っているんやろ?」と聞きました。
兄は黙って頷きました。
私は引き続き、「何ヶ月も生きられんかもしれんなんて言わんと、もうチョット頑張らなあかんで。でも、もし、そろそろ死ぬかもしれんなと思って、ほんまにあの世は無いんやろかという思いになったら、いくらでも話をするで」と、話しました。
兄はやはり、無言でいました。
その日から、私はこの兄から、あの世のことを聞かせてくれと言われた時、今ある知識をただのべつ幕なしに喋るのではなく、キチンと整理をしておかないといけないと思うようになりました。
そしてこの兄への説明は、私の主観ではなく、ある程度客観的に見た観点からのものとして、聞いた(読んだ)人がどちらの観点(あの世は在る・無い)でも選べるように、どちらの考えが自分にピッタリ来るか、その人の判断に委ねようと考えました。
従いまして、このブログの他の文章とはチョット異なった表現、私の主観ではなく、第三者的に見た表現になっていますことを、ご承知置きいただきたいと思っております(と、言いつつも、随所に主観が紛れ込んでいると思いますが・・・)。
但し、死んでもあの世があるという説に関しては、多岐に亘るものがありますが、このブログでは、高橋信次先生の説かれる内容に沿ったものを採用させていただきました。
尚、この文章は、私の兄に話す時に、パソコンの画面に映し出して話せるように、「パワーポイント」で視覚に訴えることが出来るようにしようと思い立ちました。
このブログは、その「パワーポイント」で作成する資料の元になった文章形式のものであります。
一応、巻末にパワーポイントで作成した資料も掲げますが、このパワーポイントのものは、この文章で纏めたもののダイジェスト版、もしくはパソコンやプロジェクター等で説明する場合の資料と思っていただいたら結構かと思います。
【目次】
1.人々は、人間は死んだらどうなると思っているのか?(アンケート結果)
1-1)世界の人々は、神を信じているか?・・・死後の世界は神と切り離せない
1-2)世界の人々は、「死後の世界は存在する」と思っているか?
1-3)「死後の世界は存在するか?」についての日本でのアンケート
1-4)日本での、「死後の世界について」の1958年と2008年を比較した統計
2.「死んだら終わりと思っている人」の考え方
2-1)「死んだら終わりと思っている人」の考え方の典型例
2-2)「死んだら終わりと思っている人」の考え方の問題点
3.「死んでもあの世が在ると思っている人」の考え方
3-1)「死んでもあの世があると思っている人」の考え方の典型例
3-2)「死んでもあの世で生き続けると思っている人」の考え方の問題点
4.死後の世界がないとした場合の展開について
1)死後の世界はないと思っていた人の場合
2)死後の世界があると思っていた人の場合
5.死後の世界があったとした場合の展開について・・・その1
(死後の世界はないと思っていた人の場合)
1)事故や病気で死んだ時に、意識不明になってしまった人の場合
2)事故や病気で死んでも、その直後の意識がハッキリしている場合
6.死後の世界があったとした場合の展開について・・・その2
(死後の世界が存在すると思っている人の場合)
1)序論
2)基本的な考え方・・・因果応報、原因結果の法則、作用反作用の法則
3)「慣性の法則」、「類は友を呼ぶ法則」につい
7.死後の世界があったとした場合の展開について・・・その3
1)死後の世界があると思っていても、事故などで死んでしまい、意識を無くしてしまった人の場合
2)死後の世界はあると思っていても、死んだら仏壇に入る、死んだら墓に行く、死んだらお寺に行くなどと思っている人の場合
3)その他大勢の人々
4)ごくごく希な人々
8.総括
1)あの世を信じるか否かは個人の感性
2)宗教と縁が薄い日本
3)死の予習が出来ない日本
4)あの世が在る、無いという書籍について
5)一般的な終活のテーマ
6)本来の終活の最も大事なテーマ
1.人々は、死んだらどうなると思っているかのアンケート結果
1-1)世界の人々は、神を信じているか?
死後の世界は、神と切り離せない。
死んだらどうなるかの前に、まず、人々は神の存在を信じているのであろうか?
「世界価値観調査」という組織があり、1990年から、5年ごとに、アンケート調査をしています。すべての国ではありませんが、55カ国からの回答が寄せられているそうです。
オランダに本拠地を置き、日本では、総研と東大がアンケートを実施しているそうです。
調査対象は各国とも、18歳以上の男女約1000人程度ということです。
「神は存在するか?」という設問に対する2000年の調査結果が下記です。
特徴的なことは、エジプト、ヨルダン、ナイジェリア等の国は100%もしくはそれに近い人々が神の存在を信じているのに対し、我が日本は、30数%しか信じていないという結果になっています。
50ヶ国中、48番目の順位で、信じている割合が50%を下回っているのは、僅か5ヶ国という結果になっています。
キリスト教国のアメリカは90%以上の人が信じており、共産国のロシアでさえ60%程度の人が信じているという結果になっています。
そして日本の特徴的なことは、信じる、信じないではなく、分からないと答えた割合が群を抜いて断トツのトップということになっています。
最下位のベトナムは、神を信じている人は、20%弱という結果です。先般の戦争が影響しているのでしょうか?
1-2)世界の人々は、「死後の世界は存在する」と思っているか?
引き続いて、「死後の世界は存在するか?」についての結果です。
日本では、「存在する」が31%、「存在しない」も31%で、「わからない」が38%ということになっており、神を信じるか否かのアンケートとほぼ同じ傾向にあります。
この調査でも、日本人の「わからない」の割合はダントツで世界第1位です。
「死後の世界は存在する」が100%なのがエジプト、最も低いのがベトナムという図式も変わりません。
アメリカは75%で神を信じる割合に比べると低くなってはいますが、逆に、順位は上がっております。ロシアは60%が神を信じているのに、死後の世界を信じるのは30%弱と、順位も大きく下げています。
全般的に見て、神は信じても、死後の世界はそこまで信じられないという傾向が見られるようですが、相関関係にあるいうことも、間違いはないということになるのでしょう。
1-3)「死後の世界は存在するか」についての日本でのアンケート
「世界価値観調査」での調査項目には「分からない」という項目が含まれていましたが、日本独自の調査で、この項目を外し、「存在する」「存在しない」の二択の調査を行ったところ、「死後の世界は存在する」が34%、「存在しない」が66%となりました。
同じ時期の調査ではないと思われますが、「世界価値観調査」で分からないと答えた人のほとんどが「存在しない」に回ったような形になっております。
2015年にライブドアが実施した、二択のアンケートでも、存在する比率が35%になっていたという報告が為されています。
1-4)日本での、「死後の世界について」の1958年と2008年を比較した統計
1958年に「死後の世界は存在する」と答えた人の割合は20%だったのが、2008年には、ほぼ倍の38%に増えています。
1958年当時では、若年層に信じる人が少なく、年齢層が上がるに従って信じる人が多くなるというパターンでしたが、2008年ではこれが逆転し、若年層の方が信じる人が多くなっています。
しかし、逆転というのは傾向だけで、高年齢層の人の信じる割合はほとんど変わっておらず、若年層の信じる人が飛躍的に伸びたということが言えます。
これは、丹波哲郎氏の「大霊界」という映画が1990年頃に上映されていますので、その頃の霊界ブームの影響を受けた若年層に、信じる人が多くなったのかも知れません。
また女性に信じる人が多いのは、感性に左右されやすいという点から見ても、当然なのかも知れません。
2.「死んだら終わりと思っている人」の考え方
2-1)「死んだら終わりと思っている人」の考え方の典型例
・意識は頭脳から発生するので、肉体の一部である頭脳が死ねば、意識も含め、すべてが無くなってしまう。
・記憶ということについても、頭脳が記憶していると考えており、肉体が死ねば、記憶も消失すると考えている。
・魂という存在は頭から否定している。
2-2)「死んだら終わりと思っている人」の考え方の問題点
・意識は肉体即ち頭脳から発生するという概念にこだわり、魂という概念を受け入れない。
・死後の世界は無いということの証明は不可能に近いらしい。
無いものを無いと証明するためには、いくら探してもないということを証明しなければなりません。
数年前、東京でテング熱が流行しました。
「代々木公園にテング熱をもった蚊がいる」という事実は、代々木公園の何カ所かで蚊を捕まえて、その中に1匹でもテング熱に罹患した蚊がいれば、立証に成功します。
が、「代々木公園にテング熱をもった蚊は1匹もいない」ことを立証しようとすれば、
(1)代々木公園にいる蚊を全て捕獲し(100%でないといけません)
(2)その全ての蚊を検査したが1匹もテング熱をもっていなかったこと、を立証しなけれ
ばなりません。
それでも尚、捕まえた後に、外から入ってきたかもしれない等と言われると、その瞬間に、この証明も証明たることを得ないことになってしまいます。
無いということの証明は難しく、これは悪魔の証明と呼ばれていて、その証明は不可能に近
いと言われているそうです。
このように、「死後の世界はある」という側からは、いくらでも仮説が提出される。例えば臨死体験、例えば幽霊、例えば魂の存在・・・。
臨死体験は、在るという証明として完全ではないにしても、死後の世界を予見する力を持っている。
これに対して否定論者側は脳の反応という反論をしている。しかしこれ又、ある一つの臨死体験の事象に対する反論でしか無く、あらゆる臨死体験に対して、脳の反応と説明することは恐らく不可能なことでしょう。
四次元以降の世界と言われる魂の存在に至っては、「ナンセンス」という否定しかできていない。
これ(魂)を否定するためには、次元を異にした世界を見通さなければならないのかもしれませんが、それは不可能であります。そんな測定装置は、現状、地球上に存在しないからであります。
もし、あったとしても、4次元じゃない、5次元だ、6次元だと言われれば、もう解釈の違い、土俵が違う、住む世界が違うとしか言いようが無くなってしまいます。
3.「死んでもあの世があると思っている人」の考え方
3-1)「死んでもあの世があると思っている人」の考え方
・魂という概念を持っており、肉体とは別次元の魂が、あの世でも生き続けるという考え。
・否定論者が唱える脳に意識があるとする考えに対し、魂が意識の根元であり、記憶もそこに貯蔵されていると考えている。
・魂とは意識のことであり、この意識が肉体船の支配者であり、永久に変わらない自分自身であるとしており、この世とあの世に適応した体(肉体、霊体・意識体)を持って、転生輪廻しているとしている。
・過去世の記憶は、この世に生まれてくるときに、水中の氷の水中部のように、潜在意識に潜在し、表面には僅かしか出てこないという説明をしている。
3-2)「死んでもあの世があると思っている人」の考え方の問題点
・この考え方も、魂の存在や四次元以降の存在の証明は、現時点での科学レベルでは証明不可能である。因みに、4次元の考え方は、下記イメージで説明されているようです。
0→1次元 1→2次元 2→3次元 3→4次元 4次元
・あの世があるという説も、色々な証明らしきモノを持ち出すが、俗に言う状況証拠、傍証と言うべきでありましょう
・魂も、幽霊も、臨死体験も、否定論者を納得させる証明とはなっていない。
・因みに、4次元以降の世界観は、上記のようなイメージで、この3次元世界より振動数の精妙な世界と説明されているようであります。
4.死後の世界が無いとした場合の展開について
4-1)死後の世界は無いと考えている人が死んで、やはり死後の世界がなかったら
死後の世界なんか無いと考えている人が実際に死んで、やはり死後の世界がなかったとしたら、何も起こらないというか、ただ死んで、その思い通り、何も残らなかった、何も無かったというだけのことであります。
4-2)死後の世界はあると考えている人が死んで、死後の世界が実は、なかったら
死後の世界はあるんだと考えていた人が死んだけれど、やはり死後の世界はなかったとした場合、このケースでも何も起こらない。単なる無、である。
当然、「何だ、死後の世界はなかったのか!」というような感慨や、「あゝ、自分の考えは間違っていた」などという思いをその人が持つこともありません。何もない世界、死んだら終わりの世界なのですから。
5.死後の世界があったとした場合の展開について
(その1)・・・死んだら終わりと思っていた人の場合
死後の世界なんか無いと思っていた人が死んで、死後の世界があった場合は、一体どういうことが起こりうるのか?
ケース-1:事故や病気で死んで、意識不明になり、意識回復の時期が遅れた場合:
あの世なんか無いと思っていた人が事故等で死んでしまい、意識が無い状態であの世に行き、何日か経った後に意識が蘇った場合は、その人はまず、自分は死んだなどと思わないそうです。
当然のように体も見えます。この場合の体は、俗にいう霊体をいいます。
ただ、人によっては、事故の記憶がある場合、事故後の状態、例えば足がちぎれているような形で体が表現されているケースや、癌で闘病中であった人なんかは、癌の症状を持ったままで存在しているそうです。
このような場合でも、本人は死んだなどとは思わない。体(霊体=意識体ともいう)が自分の目に見えて在るのですから(死んで次元の異なる四次元以降の世界に行くと、四次元の眼を持って四次元以降の世界も見通せるようになるそうです)。
どうしたんだろうと、自分の記憶に従って、事故現場や病院で目覚めたら、その場にとどまるか、自分の家に帰ることでしょう。
周囲の人や、奥さん、ご主人、子どもたちに話しかけるが、誰ひとり気づいてくれません。
どうしたんだ、何故なんだと必死に話しかけるが、埒が明かないので、何日か経つと、諦めてしまい、そこに地縛霊となって住みついてしまうことになるそうです。
ケース-2:事故や病気で死んでも、死んだ直後から意識がある場合
死後の世界なんか無いと思っていた人が死んだケースでも、死んだ直後から意識がある場合、意識体(霊体)は肉体の外に出てしまっているそうです。
死んだら何もないと思っているのですから、そして意識があるのですから、自分は死んだなどと思うことはありません。当然、生きていると思ってしまうようです。
「どうしたんだろう?」「何で身体の中に入れないんだろう」と考えますが、肉体の中には入ることは出来ません。
この人は考えます。「病気の所為で、こんなことになっているんだろう」と。
しかし、家族は死んだと言ってその準備に取りかかります。
いくら「俺は死んでいない」と叫んでみても、誰も取り合ってくれません。気づいてもくれません。
その内、葬式が始まります。お坊さんの読経が始まります。
その内に、火葬場に行って焼却炉に、自分の肉体の入った棺が入れられますが、どんなにわめいても、粛々と葬儀は進められていきます。
「熱い!」と叫んでも、肉体は焼けてしまいます。が、その内、自分の体は残っていることを自覚します。この場合の体も、肉体ではなく、霊体ということになります。
ここでも、自分が死んだなどと思うことはありません。死んだら身体も意識も何もなくなると思っているのですから、そして自分の意識はそのままだし、体(霊体)は見えてここに存在しているのですから。
この場合もケース-1と同様に、家などに、地縛霊として住みついてしまうことになるようです。
6.死後の世界があったとした場合の展開について
(その2)・・・死後の世界が存在すると思っている人の
場合
6-1)序論
さて、死んだら終わりと思っている人に、論理の展開は望めません。何故なら、死んだら終わりだから、死んだ後の世界はどうだこうだと言うことは出来ません。無、何もないのですから。
ところが、もしあの世があると考えた場合、その在否は別として、多くの展開が考えられます。
ここでは特に、この世に於ける「因果の法則」や「慣性の法則」などが、あの世に於いても適用されるのであるという考えについて説明致します。
6-2)あの世が在るということについての基本的な考え方・・・因果応報、原因結果の法則、作用反作用の法則
基本的な考え方は俗に言う、『良いことをすれば良い世界に行き、悪いことをすれば悪い世界に行く』という考え方であります。
もっと正確に言いますと、因果応報、原因があるからそれに相応しい結果が現れるというものであります。
ヒットラーとヘレンケラーの死後の人生が同じもの(何も無い、若しくはバラ色のパラダイス)とは到底考えられないというものであります。善因善果、悪因悪果であります。
もし不公平に見えるとしたら、それはこの人生だけを考えているからであり、あの世の人生を含めて考えると、『与えたものが与え返される』という法則が厳然と作用し、与えた物に応じた世界を体験するというものであります。
与えた物が与え返されるという法則の説明
高橋信次先生は、このことに関し、次のように述べておられます。
【ご著書 心の発見(神理篇)】
ヒットラーにしても、スターリンにしても、無間地獄に陥ちている。人間の心を狂わしてしまった指導者に対しては、特にきびしい現象が現われてくるのである。
【ご著書 心の対話】
ヘレン・ケラーという人を知っているでしょう。ヘレン・ケラー女史は、物も見えず、聞えず、語れないという三重苦の身体障害者だったのです。
彼女は生まれたときは元気のいい、男のような女の子でした。なに不自由のない家で生まれたヘレンは、家族の温かい愛情の見守るなかで育ちました。ところが、二歳になる前に急性脳炎にかかり、高熱を起し、何日も意識不明の日が続きました。医者に見放されますが、彼女は奇跡的に助かります。ところが、生命は助かったが、目が見えず、耳も聞えなくなってしまったのです。
耳が聞えなければ人の話もわかりませんから、口もきけなくなってゆきました。ヘレンの運命は、ここで大きく変ってゆきます。ケラー家は悲しみのどん底に落ちてゆくのですが、両親はなんとかヘレンを助けようと、いろいろ手をつくし、やがて、指で話ができるようになり、続いて相手の唇から話がわかり、ようやくの思いで、自分の考えと意思をロで語れるようになってゆきます。
こうして、ヘレンはハーバード大学女子部を卒業し、文学士の称号を得ると、アメリカ国内の不具者、黒人、貧乏な人たちのために社会事業を起こしてゆきます。彼女は、その社会事業を推進するために、世界各国を講演旅行して歩き、日本にも戦前と戦後を通じて、三回訪れています。
私は、実在界で彼女に会い、聞いてみました。
「あなたは、大変苦労しましたね。よくがんばりましたね……」
といったら、女史は、
「私は目が見えないために、不調和なものを見て心を乱すこともなく、耳が聞えないので不調和なことも聞くことがなかった。だから不調和な言葉を話すことがないので、絶えず神と話をすることができました。私は、本当にしあわせでした」
と、いいました。
心こそすべてであることを、女史は身をもって教えています。
【1973-8/2~5 長野県(志賀高原)でのご講演】
今まで、あの世へ帰ってすぐ、「やるだけやったぞ」という人はいませんね。
最近では外人であります、ヘレン・ケラー。「やるだけやりました」といって天上界へ帰ってきました。
それから、シュバイツアー、エジプトで治療に従事した。
この人達は菩薩界の人達ですからね。こういう人達は使命を持って出られた人です。
6-3)「慣性の法則」、「類は友を呼ぶ法則」について
慣性の法則とは、「運動をしている物体は運動を続けようとし、停止している物体はその位置にとどまろうとする」ということであります。
例えば、だるま落としで、一つの段を強く叩くと、他の段はすべて静止の状態を保とうとして、叩いた段だけが抜けていきます。
また私達が乗物に乗っているとき、急ブレーキをかけると、人はそのまま運動を続けようとするため、進行方向に体は動いていきます。
この慣性の法則が、この世とあの世の間に共通して作用しているというものであります。
即ち、この世の想念(心、想い)の状態をそのままあの世に持ち込んでしまうということになります。
即ち、単に肉体が消滅してしまうだけで、意識は全く変わらない状態で残っていきます。
肉体が無くなり、俗に言う霊体(意識体とも言います)だけになっていますので、思いがそのまま直ぐに霊体及びその環境に現れてしまうようです。
自分の意識レベルの世界、人のことはどうでも、自分さえ良ければ良いと思うような人は、そういう人たちだけで構成されている世界に、次に説明している類は友を呼ぶという法則のように、引きつけられていくそうです。
これが俗に言われている閻魔様の裁きであり、自分で行く場所を決めるとも言われていることのようです。
どんな意識の状態で肉体を無くすか、そのときの意識のレベルはどの段階であるか、それがあの世での落ち着く場所を決めてしまう要素のようです。
次いで、「類は友を呼ぶ」という法則とは、砂の中に磁石を入れると、砂の中の鉄分だけを引きつけます。
このように、アメリカや外国では、日本人だけが集まりを作り、東京の中でも同郷人が県人会を作ったりすることも、「類は友を呼ぶ」という法則に従っているのであります。
社会主義者はその同類だけ、ヤクザはヤクザだけのグループを形成しています。
重い肉体を脱ぎ捨てた後の意識だけの世界では、特にその傾向が顕著に現れ、意識のレベルに従ってグループを作り、その階層も何段階にも分けられているとも言われています。
7.死後の世界があったとした場合の展開について
(その3)・・・あの世への転生の仕方
7-1)死後の世界があると思っていても、事故などで死んでしまい、意識を無くしてしまった人の場合
このような人は、死んだら終わりと思っていた人と同様に、意識が戻ってきたときに、自分
の体=霊体が見えるものですから、なかなか自分が死んだとは思えないようです。
「慣性の法則」そのままに、自分の意識をそのまま持っていますので、生きている時の行動と同じように、家に帰ったり、自分の思いのある所に行って、声をかけますが、生きている人
間には通じません。
そのまま、自分は死んでいないと思って、家などにそのまま居着くようなケース。
もう一つのケースは、どこかの時点で「自分は死んだのだな」と気がつくケース。
しかし、どうして良いかが分からない。
仕方なく、このようなケースも、7-2)に記載のように、自分の信じているところに行ってそこに居着くことになるそうです。
そういうことから考えますと、このような人々も、死後の世界を信じていなかった人同様、地縛霊としてこの地上界にとどまることになるようです。
7-2)死後の世界はあると思っていても、死んだら仏壇に入る、死んだら墓に行く、死んだらお寺に行く等と思っている人の場合
こういう人は、死んだら間違いなく、その思っているところへ行くようです。
墓なら墓、仏壇なら仏壇へ。
お寺で説法などを聞いていた人はお寺に行ったら救われるんだと思って、お寺に行く人
も多いそうです。
ところが、お寺に行っても救われることがない為に、お寺は地縛霊の巣窟になっているそうで、昼間でも暗い、昼間に電気を煌々とつけてさえも、明るくならないと言われているようです。
病院で死んだ人は、病院で救ってもらえると思っている人も多く、死後の世界を信じない
人も含めて、病院にも多くの霊たちがいると言われています。
その為に、病院でも不思議な現象が少なからず起こっているようで、看護婦さんなどは、その体験も多いようです。
7-3)その他大勢の人の場合
その他大勢の人も、いくらあの世があると信じていても、死んだらどうすればいい、どうしなければならないということが基本的に分かっていないものですから、死んでしまった時に、自分で積極的に、アクションをすることが出来ません。
そして、「類は友を呼ぶ」という法則のままに、同じ意識レベルのあの世の人たちと意識が通じ合ってしまうものですから、そういう人たちのいる世界、同じ意識レベルの人の集団の中に住することになるそうであります。
その集団とは、「お金に執着の強い人の集まり」だとか、「地位や名誉に固執する人々の集団」、「異性に異常な関心のある人々の集団」「戦争のような異常な闘争心を持った人々」等々がグループを形成しており、それらの集団を称して、阿修羅界だとか、煉獄地獄、餓鬼界、無間地獄などと言われているようであります。
7-4)ごくごく希な人の場合
人間はどんな生き方をしなければならないか、死んだらどうなるのかを知っている人、学んだ人は、その思っている意識のとおり、そしてその意識レベルのとおりのところに落ち着くそうであります。
これも、類は友を呼ぶ法則そのままであるそうであります。
この世界が俗に言う天国だとか、天上界と言われている世界のようで、この世界も、その意識レベルに従って、多くの階層に分かれているそうであります。
その代表格というか、最上段階におられる方が、お釈迦様であり、イエス様になるということのようであります。
この方たちは、人間が如何に生きるべきか、あの世はどうなっているかを理解し、その正しい生き方を実践した方々で、その心のレベル、愛とか慈悲とかの調和度のレベルに従って、それにふさわしい世界に行くことになるそうであります。
8.総括
8-1 あの世を信じるか否かは、個人の感性
冒頭に触れましたように、あの世を信じるか否かについては、神を信じるか否かに関わっている要素が非常に多いように見受けられます。
しかし、先述のように、神を信じるか否か、あの世を信じるか否か、あの世の有・無どちらの証明も、非常に難しいようであります。
畢竟、あの世の有・無、どちらを信じるかは、人々の感性にかかっているようであります。
この、あの世が在る・無いの証明が難しいことは、宇宙の成り立ち、生物や人間の進化論についても同様のようであります。
ホーキング博士(故人)は『全ては自然の法則によって説明できる』と言っているが・・・
例えば宇宙の進化について見ますと、現時点では、ビッグバンが起こったから、この今の宇宙が出来上がったという説が一番信じられているようですが、何故ビッグバンが起こったのか、その前はどうなっていたのかについては答えようがありません。
有名なホーキング博士は、「全ては自然の法則によって説明できる」と仰っておられますが、その自然の法則がどうして出来たかを説明することは不可能でしょう。
一方、宗教家はそこにつけ込んで、神がお創りになったということで決着を見ようとしますが、ならばその神はどうして存在するのかということについては、答えようがありません。
ビッグバン論者は、神の創造説に関しては歯牙にも掛けないようですが、あの世など無いという方々が、魂の存在などナンセンスと言うのと同じ理屈なのではないのでしょうか?
そして、このことは、最初から神が存在していたというのと、最初から自然の法則が存在していたということと、何の変わりもありません。
「神」という言葉と「自然の法則」という言葉を入れ替えると、全く同じことを言っているようにも思えます。
進化論も同じ?
また、進化論についても、どれだけ長い年月、どれだけの自然条件を組み合わせても、人間はおろか、単細胞の生物すら自然には出来ないと、確率論者は結論づけているようです。
これはよく、机の上に10枚の積み木をバラバラに置き、この10枚の積み木がキチンと重なって積み上がるには、何年、何万年、何億年の年月が必要であろうかと問えば、常識的に考えて、「あり得ない」としか返っては来ません。
実際の人体は、60兆個もの細胞が、ただ並ぶだけでなく、各がびっくりするような仕事をするという、勝手に等ととても言えないような状況であります。
にもかかわらず、生物学者は、こんな条件が重なれば微生物が誕生する可能性があると、不毛な研究と論議を続けているようです。
そして宗教家は、やはり元々から神がお創りになったと・・・。
8-2 宗教と縁が薄い日本
日本に於いて、宗教を信じている人は全人口の約1/3にしか過ぎません。
輪を掛けて、仏教は元々、あの世を肯定していたようですが、今の日本にある仏教は、宗派によってあの世の存在を肯定したり、否定したり、まちまちになってしまったようで、宗教を、神仏を信じている人でも、死後の世界が信じられない人を生み出してしまっているようであります。
輪をかけるように、仏教の登竜門、仏教大学では、『神は存在しない。あの世など無い』と、教えているそうであります。
これはキリスト教についても、色んな分派が出来てしまい、似たような状況にあるようであります。
日本人は、年末年始に、三つの宗教を渡り歩くと言われているそうです。年末のクリスマス、年越しの除夜の鐘、そして初詣。
クリスマスはただのイベント、除夜の鐘は昔ながらの習慣、初詣に行く人は果たして、神を信じているのでしょうか?
このように表面的な宗教習慣はあるものの、「無宗教」を自称する人も多いようで、先に見たように、神の存在を信じない人の割合は、実に70%近くに上っています(分からないと答えた人を含む)。
縁が薄いと表題に書きましたが、縁だけがあって、心が伴っていないと言うべきなのかも知れません。
8-3 死の予習が出来ない日本
宗教は、死後の世界を扱うことが大きな柱の一つでありますから、宗教の本質から離れていった日本は、死の予習ができない国になってしまったようです。
人間は、大きなイベントの前にはたいてい予習・練習をします。
大学受験の前には模擬試験を受けます。結婚の前にはおつきあいをします。人によっては同棲したりします。
小学生ですら、運動会の前には何度もかけっこの練習をする子もいます。当然、小学生に限らず、中高生も、テストの前には必死になって勉強をします。
そういう意味では、試験前の勉強をしない子供は、試験で良い点を取ることを諦めているということなのかもしれません。
それでは、死の予習をしない人は、人生を諦めているというと言いすぎかも知れませんが、死というモノを理解するのを諦めている人と言えるのかもしれません。
何れにしましても、私たちにとって、死の予習は非常に難しくなってしまいました。予習をしようとしても、教科書がないのですから。有ったとしても、日本に於いては、どれが正しい教科書か、分からない状況になっているのですから。
8-4 あの世が在る、無いという書籍について
あの世が在るということを言いたい書籍は、枚挙にいとまがないほどたくさんあります。臨死体験、霊現象等々。
古くはスエーデンボルグの「天国と地獄」という書名の霊界通信。比較的最近では、飯田史彦氏の「生きがいの創造」などが有名ですね。
逆に、2/3の人があの世など無いと言っている割には、「死んだら終わり」という類の本は、全くといっていいほど見当たりません。
「悪魔の証明」宜しく、無いという証明は出来ないので、書きようがないのかも知れません。
しかしこのことは、「あの世など無い」と思っている人の多くは、考える材料がないので、深く追究することも出来ず、恐らくそうだろうと、闇雲に信じているだけかも知れませんね。
また、あの世が在ると思っている人も、漠然とそう思っているだけで、その実体を見極めようとする人も少ないのではないのでしょうか?
その原因は、宗教も科学も、真実らしきことを教えてくれない、上記の書物も、問題提起にはなっても、疑問の解決には程遠いのかも知れません。
8-5 一般的な終活のテーマ
昨今、終活ということが叫ばれるようになってきました。
終活とは、「自分の死を意識して、その最期を迎えるための準備やその総括を言う」ようです。
終活のメインテーマの多くは、次のことが言われています。
・エンディングノートや遺言を書く
・葬儀のやり方を決める 墓を決める
・身の回りの整理
その目的は、『後に残る遺族に負担をかけない。残された今後の人生を充実したものにする』と言われているようであります。
しかし、これで充分なんでしょうか? 残された人生が充実するのでしょうか? 死の間際に、あの世は在るの? 無いの? 死ぬのは嫌だ!・・・等と考えたりしないのでしょうか?
終活のメインテーマは、「あの世は在るのか無いのか? 無ければそれも良し。もし在るとしたら、どんな世界なのか?」ということでないと、いけないのではないのでしょうか?
8-6 終活の、本来、最も大事なテーマ:あの世は在るのか?
あの世が在ると信じていても、無ければそれまでです。どれだけ深く信じていても、どれだけ頑なに信じていても、あの世がなければ、何の関係もありません。ただ、何もないだけです。
しかし、あの世なんか無いと信じていて、もし在れば、これは困ったことになってしまいます。何の準備もしていないのですから、どうして良いのか分かりません。
言うなれば、何の情報もない未知の外国に急に行かされたようなモノでしょう。知り合いはいない、言葉も通じない、第一、何をして良いのかも分からない。死んだら終わりと思っていたのに生きていた、どうしたら良いんだと困惑してしまうでしょう。
ひょっとすると、自分は死んでいないんだと思うかも知れませんね。
自分が必ず行くことになる世界・あの世・・・在る・無しは別にして。
行ったと思ったら何もない世界かも知れませんが、本当にそうなのかということぐらいは、自分でキチンと納得した方が、人生の終焉に向かって、安心できるのではないでしょうか?
あの世など無いと思っている人も、「在る」と思っている人の意見に耳を傾け、信じるに足りないと思えば、無いと思う自分の信念をより強固なものにすればいいでしょう。私の個人的思いからしますと、残念でなりませんが・・・。
また、あの世が在ると信じていても、その実態を理解していない限り、あの世に行って当然、戸惑ってしまうことになるでしょう。
あの世は在ると、そう信じているなら、生きている内に、そのために為すべきことがあるかも知れません。
在ると思っている人は、その詳細を見聞し、追究し、より理解を深めればいいのではないのでしょうか?
この世への誕生が人生の最初の大イベントだとしますと、もうすぐ人生最後の一大イベントがやってきます。
終活の一環としてと言うよりは、終活のメインテーマとして、今一度、死後の世界に思いを馳せて、少なくとも自分が納得した上で、悔いのない人生の終焉を迎えていただきたいと思っております。
付属書類:パワーポイントで作成した OHP説明用資料 *1式
参考:下記関連記事も、もし興味があれば、覗いてみて下さい。
1) あの世への旅立ち
2) お祖父さんの墓
※追記:
先日、この兄が亡くなりました。
葬儀に一緒に行った妻が、「綺麗な顔をしている」と言っていました。私もそう思いました。
高橋信次先生は、肉体に執着がない人は、死後硬直がないと教え下さっています。
私が葬儀に行った時は既に棺桶に入れられていましたので、死後硬直しているのかどうかは確かめることは出来ませんでした。
兄は、あの世など無いと言い放っていた人で、残念ながら私は最後まで、あの世の話をする機会がありませんでした。
従いまして、どうして兄の顔が安らかなのだろうと、不思議でなりませんでした。般若のようだとは言わずとも、何かしら苦悶に満ちているのではないかと危惧しておりましたが、穏やかさをたたえておりました。
数日後、ふとこんなことが心に浮かんできました。
兄は、魂と肉体が分離される時(死の瞬間)、意識が無かったのではないか、と。高橋信次先生は、一種の記憶喪失のようなものだとお教え下さっています。
従って、肉体に執着することもなく、ただ普通に眠っているような表情で、死を迎えたのではないかという気がしました。
然らば、このような状態で死を迎えた人は、死後硬直もないのかということに関しては、私の浅はかな知識レベルでは、何とも言いようがありませんが・・・
ともあれ、私は毎日、高橋信次先生、丸山弘先生にご指導いただきました先祖供養を、両親を初め、近親縁者の方々にしておりますので、一日も早く兄の意識が目覚め、私の呼びかけに耳を傾け、真実に目覚めて欲しいと願うばかりでございます。
大宇宙大神霊・仏様、我が心に光をお与え下さい。安らぎをお与え下さい。我が心を正し、一切の魔よりお守り下さい。
我が兄、○○○○に光をお与え下さい。心に安らぎをお与え下さい。○○○○が、一日も早く、真実に目覚めますよう、お見守り、お導きをお願い申しあげます。