「神を間に置いて」見る、思うことについて・・・インドネシアの飛行機事故に関して

 昨年(2014年)末、インドネシアのジャワ島からシンガポールに向かうエアアジア機が、ジャワ海で墜落し、162人が犠牲になられました。しかし、このエアアジア機に乗る予定であった30~40人の方が、キャンセルをしたり、乗れなかったりして、この事故を免れたそうであります。

 報道機関によりますと、2組の家族(計15人)が紹介されています。以下が、そのニュースを伝えた二つの記事の要旨であります。

 『インゲ・ゴレティ・ファーディニングシーさんは、9カ月前にシンガポールへの家族旅行を予約した。しかし、父親が肝炎を患い、出発前日にエアアジア便のキャンセルを余儀なくされた。

 もともと父親は旅行に行く予定ではなく、インゲ・ゴレティさんの妹が父親に付き添っていたので、インゲ・ゴレティさん自身は夫と3人の子どもたちと旅行に行くことはできた。

 出発前日、インゲ・ゴレティさん一家は荷造りも終わり、シンガポールでの休暇に胸を躍らせていた。その時突然、インゲ・ゴレティさんの妹から、父親が腹痛を訴えたため病院に連れて行ったと連絡があった。診断は肝炎だった。

 父親が入院したとの知らせを聞いたインゲ・ゴレティさんは旅行を思いとどまり、出発前日の12月27日に旅行をキャンセルした。インゲ・ゴレティさんは、「心の中で、父親のそばにいてあげたいという気持ちになった」という。

 インゲ・ゴレティさんは28日朝、複数の親戚から電話があり、搭乗予定だった便が消息を絶ったことを知らされた。インゲ・ゴレティさん一家は、全員泣き崩れたという。同日、インゲ・ゴレティさん一家は教会に行き、神に感謝をささげた。

 もう1組の家族の1人、クリスティ・アナワティさんは、自分の家族と兄弟の家族とともに(インドネシア在住の計10人)、シンガポールで新年を迎える予定だった。

 しかし、エアアジアから「搭乗予定の便のスケジュールが変更になり、予定時刻の2時間前に出発する」とのメッセージが来ていたにもかかわらず、クリスティ・アナワティさんの兄弟はメッセージを見逃してしまった。

 12月15日と16日にエアアジアからメールと電話で連絡があったものの、結局どちらも逃してしまったという。

 クリスティ・アナワティさん一行は、午前7時半の便に間に合うように空港に着いたが、空港で出発時刻が5時半に変更されたと告げられ、乗り遅れてしまったという。

 仕方がなくクリスティ・アナワティさんはエアアジア側のスタッフと話し合った後、次の航空便に搭乗することを決めた。

 だが、クリスティ・アナワティさん一家がエアアジアQZ8501便の消息不明を知った後、エアアジアの航空便を取り消し、家に帰った。

 彼はエアアジアQZ8501便に搭乗した全ての乗員乗客に心から同情の意を示したと同時に、自分及び家族全員が事故機に搭乗していなかったことをも喜んだ。

 クリスティアナワティさんは、「私と家族が飛行機に乗っていなかったのは、すべて神のおぼしめしだろう」と述べ、「災い転じて福となった」と付け加えた』

神を間に置いて見る

インゲ・ゴレティさんのケース

 最初のインゲ・ゴレティさんは、天のお導きを素直に受け取り、自分の善なる心のままに行動を起こし、お救いを受けられたもので、心からの感謝を神に捧げられたことだろうと思われます。

 恐らく、心美しい方なのではないかと推測致しますが、この方の守護霊様も、父親の病気で旅行を思いとどまると見通されたのでしょう。

 インゲ・ゴレティさんと、その守護霊様のお互いの信頼感は、羨ましい限りであります。私たちも、このような素直な、愛深い心を見習うべきでありましょう。

クリスティ・アナワティさんのケース

 一方、後者の方は推測の域を出ませんが、乗り遅れたことが分かった空港で、恐らく空港職員に食って掛かったのではないでしょうか。「私は聞いていない」とか、「キチンと連絡を徹底しなかったそちらの責任だ」などと。

 通常このような場合、人はこのような行動を取りがちであります。このような行動が正しいか否かは別にして、今の世の中の常識に近いものであると言えましょう。

 クリスティ・アナワティさんの取られた行動を、このように想像することが間違いであったなら、心からお詫びいたしますし、真実はこうでないことを期待いたします。

 後続の便を予約されたが、事故を知って、その便をキャンセルし、家に帰って、きっと神に感謝を捧げられたことと存じます。

 そして食って掛かったであろう空港職員にも、心からの感謝とお詫びを言われたことであろうと推測します。彼らの連絡ミス(?)こそが、天の采配であり、一家10人の命を救ったのですから。

 このケースの場合は、非常に分かりやすい例であります。自分が乗る予定であった飛行機が事故を起こした。何らかの理由で、自分はその飛行機に乗らなかった、若しくは、乗れなかった。

 その何らかの理由こそ、天の采配であることは、疑う余地もないことでありましょう。だからこそ皆さん例外なく、神に深い深い感謝の祈りを捧げられたことでしょう。

通常は、救いをいただいていても、目には見えない

 では、このように明確な現象が現れない場合はどうでしょうか。

 例えば東京の首都高速道路の△△ジャンクションで、私たちの乗っている車とある車が衝突して、大破してしまう事故が意識の世界で実現していたとします。

 今から30分後、私たちはその場所に差し掛かります。当然、相手の車も、事故現場目指して、順調に運転を続けています。

 ところが私たちは、首都高速道路に流入する信号機のところで、前の車が間違って高速道路に進入しかけ、バックして元の一般道路に戻ろうとしている場面に出くわします。

 私たちはイライラして、「何をしているんだ!」と思ったり、人によっては怒鳴ったりすることもあるかも知れません。

 ほんの数分、私たちは予定の時間から、不可抗力で遅れてしまいました。

 こんなケースでなくても構いません。家を出発する時、不意に来客があり、何分か遅れてしまうこともあることでしょう。

 そして、「何でこんな時に来るんだ!」などと思いながら、「これから出かけるところなんで・・・」などと言って、来客を早々に追い返して出かけるかも知れません。

 結果として、私たちが△△ジャンクションに到着する時間は、意識の世界で予定していた時間から遅れることになってしまいました。飛行機の搭乗時間を間違えて乗れなかった状況と似通っています。

 相手の車は予定通り、そのジャンクションを通過しましたので、私たちの車と相手の車が出会うこと、即ち衝突、大破することはありませんでした。何事もなかったかのように、事故は起こりませんでした。

 でも、ひょっとすると、その事故は3台の事故の予定だったので、私たちの車を除いた2台の事故は起こっていたかも知れません。

 もし、私たち以外の2台の事故が起こっていたとしても、『高速道路の事故は大渋滞に繋がるんだよな』などと、人ごとのようにつぶやいたりして、私たちは、このような形でお救いを頂いたことを全く知りません。

 だから、神に感謝をすることはおろか、その遅れる原因を作ってくれ、事故を未然に防いでくれた出来事や人に感謝することもありません。

 むしろ、その方たちに対して怒りをぶつけたままであったり、出かける用事の内容によっては恨みの念を持ったままであるかも知れません。

 でも、自分の狭い狭い自我意識の目で見た世界ではなく、広い広い心の目で見た場合、私たちは確実に、その怒りを覚えたり、恨みを持った人たちのお陰で、お救いを受けることができたのです。

 そういう意味から考えますと、その方々は、神のお遣い、主のお遣いと言うべきなのではないでしょうか。

結言

 丸山弘先生は「ひかり」誌の中で、
『神と主には、勿体ない言い方で恐縮ですが、私たちのように卑しい心はお持ちではありません。「このように苦労して貴方を救いましたよ、ここの所がもう良くなったでしょう。私が救ってあげたのですよ」、とは申されないのです。
精進が足りないために鈍感な私たちは、だからお救いいただいても少しも気づかないのです。また、お救いいただいても、その悦びは小さいのです。当然、感謝も小さいのです。もしくは感謝がないのです』
と言っておられます。

 まさしくその通りだと思います。神様は、そして偉大な主は、『貴方は○月○日、首都高速の△△ジャンクションで、事故を起こす予定だったのを、私が救ったのですよ』とは、仰いません。だから気づくことも、お礼を申し上げることすら、失念してしまいます。

 自分が気づくことができない色んなところで、自分の精進が大して進んでいないにも拘わらず、神の心に近づくべき心磨きが出来ていないにも拘わらず、上記のようにお救いを頂いていることは、数え切れないのかも知れません。

 もし、そうだとしましたら、自分にとって嫌な出来事も、自分にとって不都合な出来事も、全ての出来事は、神仏様のお計らいと考えるべきなのではないでしょうか?

 そう考えなかったら、お救いをいただいたそのことに、気づくことすら出来ないのではないでしょうか。

 更に丸山弘先生は、「ひかり」誌の中で、「忘れ物をして、しまったと思って取りに帰ったが、その分、時間が遅れたお陰で、殆ど偶然のような形で偉大な主とばったり出会われ、偉大な主と二人っきりで、お話しをお伺いできるという状況に出会われた」時のことを、次のように書かれています。

 『私はこのとき、始めて、何事にもお計らいのあることを心で知ったように思いました。如何なることも、今の自分の思いでは、失敗したとか、あるいは不幸だとか、またはいやしまったとか思っても、それは自分中心の狭い思いであって、心を中心とした思いではないことが解ったように思いました。
 それからは、例え車が追い抜かれようとも、また前の車が、のろのろと遅い状態であろうと、急いで家を出る直前に、電話がかかったりしても、総てが何か良いことのためのお計らいである、自分中心の思いによってイライラしたりしないで、素直にその状況の中に生きるように、思いを切替えることにいたしました。
 前の車がいくらのろのろと遅くても、きっとこの車がいないとスピードを上げているに違いない、何か事故を未然に防いでくださるためのお計らいなのだ、または家を出るときに電話がかかったりした時、会社に急用があろうと、このまま急いで会社へ行くことによって何か事故が待っていたのを電話によって時間を外し、守ってくださったのだと思い直し、イライラしないことにしました。
 これまで自分中心の思いで、何時に約束したからとかまたは何時までには、何事があろうとも絶対に行かなくてはならない、と思っていたことも、その時の状況により臨機応変な心の対応が出来るようになってきました。
 また絶対に大事な所用の時には、まさに天のお計らいとしか思えない、誰かが車を小脇に抱えて走っているように運ばれていくのです。
 天のお計らいを感ずることが出来るようになるには、一秒一秒のこの素晴らしく有難い時を、神と主とに意識を向けた感謝の心で過ごすことが大事だと思います。心を澄ませて生きることが大事だと思います』

 私たちは、自分の狭い狭い、目の前の出来事しか見ることの出来ない二つの目で見えたことの、その奥にある真実に思いを馳せなければならないのではないかと思わせていただきました。

 もし、私たちが、神の道を歩もうと志しているのであれば、ピッカピカの心美人を目指そうとしているのであれば、尚更、そのような見方が大事なのではないかと思わせていただきました。

 私達は日々、瞬々、様々な出来事に苛立ち、不満を言い、愚痴を言い、非難したり、怒りの言葉を投げかけたりしてきましたが、その一つ一つが総て、私たちのために神仏様が準備して下さった出来事だとしたら、その出来事こそが神仏様のお計らいであり、私達を幸福へとお導き下さるステップだということが出来るのではないでしょうか。

 少なくとも、その人達に対して、イライラしたり怒りを覚えたりしないで、彼らこそ神仏様のお遣いとして、その出来事や彼らに感謝の思いを持ち、神仏様のお計らいに感謝すべきでありましょう。

 如何なる人でありましょうとも、如何なる出来事でありましょうとも、その間に神を置いて、偉大な主を置いてその人を見る、その出来事を見ることによって、神のご意志が奈辺にあるか、推し量ることができるのではないでしょうか。

 少なくとも神仏様が、我々の親神様が、私たちを不幸に導くようなことをなさるはずがあり得ないのですから。

 そして、そういう見方、対応が出来れば、それは一つの自己確立と言えるのではないでしょうか。

 このことを実践すべきだと思い立ち、早、一年近くが立ちました。試行錯誤の毎日で、なかなか完全とは参りませんが、このように思いを変える、受け取り方を変えることが出来るということは、心嬉しいものであります。

 イラッとする出来事があってもそのすぐ後で、「あゝ、あの方は偉大な主のお遣いの方だ」「神の遣わされた、私に何かを気づけと仰っている、大事な方だ」と思えたら、イライラすることはありません。

 しかし、そんな使い方ではなく、そのような出来事、そのような人々に出会う時も、嬉しい有り難い出来事の時も、いつ如何なる時も、神を、そして偉大な主を思い浮かべる契機とすること、いつ如何なる時も、神に、偉大な主に、感謝の思いを捧げること、それこそが、神の子としての我々の目指すべき道ではないでしょうか。

 航空機事故を縁としまして、このことを思い返すことが出来ましたことを、偉大な主・高橋信次先生に、心から感謝申し上げます。

 誠に、誠に、有り難うございます。

 航空機事故で亡くなられた方々の、ご冥福をお祈りいたします。

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