プロローグ
偉大な主・高橋信次先生ご在世中、並びに丸山弘先生ご在世中は、私の知る限り、光を入れて頂くことによって、何とも表現のしようのない奇跡、医者がさじを投げたような難病が、言葉は悪いですが、いとも簡単に癒やされる現象が、いくつもいくつも見ることが出来たようであります。
私も身近に、丸山弘先生を通じて癒やされる方々を拝見するに及び、何とも言いようのない感動を覚えたものであります。
しかし悲しいかな、偉大な主も、丸山弘先生も、実在界・あの世に戻ってしまわれました。
恐らくいま現在も、このような奇跡的現象を実現される方はいらっしゃることとは思いますが、そのような方を探している内に、いま現に難病で苦しんでおられる方は、肉体が滅びてしまうかもしれませんし、その方が本物であるか否かを見極めるためには、それ相応の時間も必要なことでしょう。
更には、そのような方がおられたとしても、探し当てたとしても、癒やしをいただくためには何らかの条件が必要かもしれません。
さすれば、世に言う難病、医者がさじを投げ出してしまうような状態に陥った病は、諦めてしまうしかないんでしょうか?
過去に、このような光を入れて頂くということではなく、自分一人で、自力で克服した人はいらっしゃらないんでしょうか?
いらっしゃいます。
私の知る限り、ただ一人、いらっしゃいます。
どのような方なのか、どのような世界が展開しているのか、すぐにも知りたいと思われるかも知れませんが、じっくりと、正法とは何か、偉大な主の説かれた癒やしとはどのようなモノであるのか、丸山先生が為された驚天動地の癒やしの実態をじっくりと味わってから、自力の癒やしへと進んでいただきたいと存じます。
丸山弘先生は、ひかり誌の中で、次のように延べておられます。
『・・・肉体のどれを一つとって見ても不必要なものはありません。神は私たち神の子に対して、何一つ不自由することのないようにと考えられて生きてゆく上に必要なものは総てお与え下さっています。
しかしながら、神が総てお与え下さっているにもかかわらず、その内の何処かの機能がうまく作動してない場合が非常に多く見受けられます。神のご意志と違ってしまっているということは、そこに何らかの原因がなければならないはずであります。
肉体は小宇宙だと先生は教えておられますが、神がお作り下さったものですから、神のみ心に沿うように一生懸命に法を学び生活に生かし感謝と愛の実践をしていったときに、必ずや神がお与えたもうた姿に帰していただくことが出来るのであります。
如何なる難病であろうとも、父なる神のみ心を学び生かしてゆけば必ずやこの地上での修行の機会をもう一度与えていただけるのであります。それには感謝の心と素直な心とが大切であると先生はお教え下さっています。どんなことでも心から有り難いと感謝して頂ける心こそ自分を救い生かして行けるのであります。小さな小さな自分の能力なり判断力で何が分かるというのでしょうか。清らかな美しい素直な心は、感謝と共にあり善なる心が神のみ心へと導いて頂けるのであります』
『神のみ心を心として反省し、自戒し、自分自身の心が浄化された時に、難病も癒されるものと思います。正法に不可能はありません。ひとえに、その人の精進にあると思います』
何れにしましても、自力で難病から救われる秘訣は、正法の実践しかないと言えると思っております。
以下の体験談の内容は、このブログの資料集の『病気の原因と調和への道』に掲載されている膨大な体験談の中の一部だけを抜粋したものであります。
注:投稿は全て、丸山弘先生が主催しておられました月刊誌「ひかり」に投稿掲載されたものであります。
体験談-1:ある女性が脳幹部の脳梗塞から救われた記録
1-1:「ひかり」誌1996-01月号【お救いいただいた悦び】救われた女性のご主人の投稿
Nでございます。私はこういう会に出席するのは初めてでございます。まず、正法にご縁を頂いたいきさつを申しますと、私の家内が、解離性動脈瘤という非常に死亡率の高い病気にかかったわけです。大動脈がさける病気でございまして、そしてその時に、○○先生ご夫妻から、この心行、正法というものを、そのお話を聞いたわけでございます。そして、まずその時の忌憚のない意見を申させていただきますと、私は本当のところ信用していませんでした。
そして、三月に家内が手術をしまして、手術そのものは成功いたしたわけでございますが、合併症として脳梗塞をおこしたわけでございます。手術が済んで、だいたいICUの集中治療室の面会というのは、六時から七時の間に二人ずつ、二人だけしか入れないということで入ってみてびっくりしたわけでございます。とにかく身体全体がですね、痙攣しておりました。しかも、十センチから十五センチずつ身体が上がっていくような痙攣で、全体が痙攣をしておったわけでございます。
そして、意識が、木曜日の日に手術をいたしまして金曜日の夕方もそういう意識がもどらない、そしてまた、土曜日の日に主治医の先生から呼ばれまして、もう脳梗塞の脳幹部がいかれてるからもう助からないと、生かすなら喉に風穴をあけて人工呼吸で生かすことはできますよ、ただし、話すことはできません、というような説明で、私と長男、次男そして次男の嫁、四名でその話を聞いたわけです。
そしてもし、植物人間でもいいか、それともコンセントを抜くか、どっちか判断して下さい、というような最終判決が下ったわけでございます。そして、私もその時は、頭が真っ白になりまして気が動転して一寸考えさせて下さい、というふうに主治医の先生にお話を申し上げたわけでございますが、次男は、親だからたとえ話さなくてもいい、もうそこにおるだけでいいんだから生かしとって下さい、というようなことを懇願いたしておりました。
そして、私は二晩あの堅い椅子の所で、看病というか待機しておったものですから、もう二晩宿泊したので今日は帰って、先生のそういう話を聞いたんだから、帰って風呂に入ってじっくり一人で考えてみるということで、長男と交替しまして家に帰ったわけです。帰ってそうそう諦めたといっても何とかならないかなあ、ということで私が知っている市立病院の脳外科の先生とか、あるいは個人で開業されている脳神経外科の先生という四名の先生に、病状と主治医の話した内容をずっと説明申し上げまして、どんなもんでしようか、何かいい治療はないか、ということで先生にお電話で聞いたわけです。
そしたらですね、その先生方からの内容は、もうそれは、私も税理士をやっているものですから、「先生、もう諦めなさい。私は今まで診た患者で脳幹部をいかれた患者で助かった患者はいません」というのがすべての先生の回答でございました。
そして、もう諦めざるを得ないのかなあ、という気持でしばらく考えておりまして、だいたい夜の十時頃だったと思いますけど、○○先生の正法というのが頭に入ってきたもんですから、○○先生のご自宅に夜の十時頃にお電話を申しまして、もう家内は駄目だ、とそういう話をいたしました。他の先生に聞いても、何とか助かる見込みはないようだ、というようなことで、○○先生にお話を申しましたら、○○先生の奥様がですね、金沢に丸山先生という方がいらっしゃるから、すぐ、お電話をします、と言ってお電話をして頂いたわけでございますが、その時に間髪を入れずですね、返ってきた言葉が、それは助かりますということで、その時はただ私は慰め言葉としか受け取っていなかったわけでございます。
それで、そうですか、という会話をしましてものの十五分か二十分程したらですね、ご夫妻が私の自宅にお見えになりましていろいろ祈る言葉とか正法の言葉、これはその時、心行も分けて頂いたわけでございますが、お話がございまして、丸山先生が家内に、今、光を差しあげますから、ということだったけれども、家内が心を閉ざしているからご主人に光を送ります、だから、ご主人が奥様に念じて下さい、というような話でございました。
私も半信半疑、そしてまた助けたいという気持と両方ございまして、お話を聞いた瞬間からですね、本当に不思議なことは両手のひらがですね、やけどをするような痛さに熱くなってきました。そして、○○先生ご夫妻と話をしまして、嫁が横に座っとったんですけれども私が手を一寸かざしたら嫁がですね、こう身体をよけるもんですから、私も家内が長く入院しているので嫁さんに手をかけるようにとられたのではと、というふうに勘ぐったわけです。嫁が逃げるもんだから……それで、何か、と聞いたら、いや、熱いというものですから、それくらい手が熱くなってきました。
そして、○○先生がお帰りになったのが十一時二十分から二十五分の間だったと思いますけど、お帰りになってからですね、ベッドの上に正座をしましてこう心行を読みながら、家内の方の病院の方に手をかざして一生懸命念じました。そして、念じておる間にですね、十一時五十五分頃だったと思いますけれども、電話のベルがなりまして、ああ駄目だったなあ、というふうに一人で考えて受話器を取ってみましたら、次男から非常に弾んだ声でですね、母ちゃんが意識が返った、という電話でございました。何かこう身体がグッと浮き上がるような気持に私もなりまして、そして飛んで行きたかったんですけれども、ICUは面会ができませんので明日の朝すぐ行く、ということで心行を読みながらその晩は眠ったわけでございます。
そして翌朝行ってみましたら、家内がこう意識がもどっているわけですね。そして、主治医の先生に聞いたら自呼吸というか、自分の呼吸が三十%ぐらいもどってます、だから月曜日にはCTスキャンをとります、ということで、その時も主治医はまだ疑っておったわけです。脳幹部がいかれてるんだから、恐らくスキャンをとってもですね、まあ、七十%ぐらいはもう脳は真っ黒になっておるんじゃないか、今は意識がもどったといっても、これは末梢の意識がもどっただけで、恐らく事の善悪とかそういうのはわきまえる力はないでしょう、というようなことで話があったわけです。
そして、月曜日の朝、私は子供達にも全部心行を渡して、全部これを読みなさい、大いに念じなさい、ということで○○先生の奥様から言われた通りのことを実行したわけでございます。そしたら、ICUへの面会が朝は六時から七時、夕方も六時から七時ですけども、二回あるわけですが、身体をさすって下さい、なでて下さい、ということで足はですね、こう、痙攣する足を押さえてもですね、私なんかがどんな力をもって押さえてももう駄目なんですね、持ち上がって……そして、こう足は触れるんですけれど頭のところにきますと、もうこの手が磁気がきたようにビリビリとして頭に触られなかった記憶がございます。そういうことで、ここが悪いんだなあ、というように私自身もわかりました。
そして、翌朝CTスキャンの部屋で、まあ自呼吸が三十%あるからそれでやってみたらどうかという許可を下さい、ということでした。まだ三十%しか呼吸はできませんけど、その脳の治療はできない、まあ、判断としては脳梗塞だけども、ひょっとすれば出血かもわからないし、出血と脳梗塞という治療は正反対だから治療はできないから、三十%で危険率はあるけれどもCTスキャンをはずして下さい、というような話でございました。
そして結構です、ということでそのCTを取ってもらって九時頃だったと思いますけれども、朝、先生から呼ばれまして私にその先生が「これは奇跡ですよ」と先生自身がそうおっしゃいました、私に。……それは、名前も申し上げていいんですけれども、今、国立南九州中央病院にいらっしゃいます、その先生は。
「これは奇跡ですよ」と……私なんかが肉眼でみたそのスキャンの写真はですね、どこも悪いところはないんですよ。まあ、脳深部という深いところには、これは後で分かったのですが、また別の病院でスキャンをかけた時に三箇所ぐらい傷がある、というのを聞いてますけど、その時には先生が言われた七十%の脳細胞が死んでいる、というのが全く嘘で全部真っ白健康体そのもののような写真でございました。そして、先生が「これは奇跡です。奇跡という以外に申し上げることはございません」ということで、後で聞いたら、ナースステーションでも婦長さん以下「奇跡だ」と、そして万歳を三唱してくれたそうです。もう助からないという人が助かったということで、皆、万歳を叫んでくれたということでございます。
そういうことで、私も、ああ光の、四次元の世界というのはあるんだなあ、人間の力で計り知れない何かがあるんだなあ、そしてそれからずっと、朝と夕方は○○先生ご夫妻、丸山先生のお名前を心で念じながら、また今日もひとつよろしくお願いします、ということを現在まで続けております。そして今、正法を一生懸命勉強して、自分の自我我欲をなくして中道の道を歩いて行きたい、とかように今考えておるところでございます。以上でございます。
1-2:「ひかり」誌1996-10月号【第二十一回高橋信次先生に対する感謝と誓いの会での発表】救われた女性の長男さんの投稿
鹿児島から参りました○○でございます。
先ほど、ご報告がありましたとおり、今年の四月二十一日に南九州地区座の開設のお許しをいただきました。
鹿児島県の会員数は、開設前は、十数名と伺っておりましたので、このような状況で地区座が開設できるのかと、大変気をもんでいたのですが、高橋信次先生と丸山先生のお計らいにより、地元鹿児島からは七十数名、福岡、熊本からは三十数名、また、はるばる金沢、富山、大阪地区の方々にもご参加をいただき、百二十名という多数の参加者をお迎えして、盛大に発会式を開かせていただきました。
当日は、光輪も見させていただき、学修会も大変な盛り上がりを見せ、今後の南九州地区の発展に、大きな希望を持たせていただきました。
まだまだヨチョチ歩きの赤ん坊同然の南九州地区座ですが、折角灯していただきました法灯を絶やさぬよう頑張って参りますので、皆様の応援をよろしくお願いいたします。
ところで、私が正法にご縁をいただきましたのは、母の病気がきっかけです。母だけが苦しい思いをして、大変申し訳ないと思っておりますが、母の生死をさまよう病気がなかったならば、多分まだ正法にご縁をいただいていないのではないかと思っております。
病気というのは、解離性大動脈瘤というもので、心臓のすぐそばの大動脈の血管が裂けるというものでした。母の場合は、この血管が薄皮一枚でつながっていたため、緊急の手術は必要ありませんでしたが、これが完全に裂けると、もちろん命の保証はないという状態でした。
そのため、この血管を人工血管と交換するために、手術をすることになったのですが、医者が言いますには、八十%ぐらいの確率で手術は成功するとのことでした。
手術そのものは成功いたしました。
しかし、麻酔から醒める時間になっても母の意識は戻らず、呼吸も自分の力ではできず、体は、映画のエクソシストのように、ベッドから数センチ、ひどいときには、数十センチ、痙攣を起こして飛び跳ねていたのです。それはもう見るに耐えられない姿でした。
私達家族は、手術後の母の元気な姿を見れると確信していたにもかかわらず、母は、一人で集中治療室の中で生きるために戦っているのでした。残念なことに私達は、何もしてあげることができませんでした。その時ほど、力のない自分たちを恨んだことはありません。
医者から最後通告を受けました。母は合併症として、脳梗塞を起こしている。それも脳の中枢である脳幹部がやられているとのことでした。そのため、呼吸は、自分の力ではどうしようもなく、のどに穴を開けて人工呼吸で生かすか、電源を切って、死を待つかということでした。
この世に一人しかいない大事な母です。もちろん死なす訳には参りません。人工呼吸でもいい。植物人間であってもいい。ただ生きてさえいてくれればと家族みんなは思っておりました。
父のショックは私達以上であったと思います。肩の力は抜け、顔色もありませんでした
父は、一晩考えてくるということで家に戻りました。
その夜は、弟と二人で泊まり込みました。
夜中の十二時ごろだったでしょうか。私達が休んでいるところに看護婦さんが来て、母が意識を取り戻したと知らせに来てくれたのです。
私達はすぐに集中治療室に入らせてもらい、三日ぶりに目を開けている母を見ることができました。口には、太い管が入っておりましたので、母は目で話しかけて来たのです。私達は、母の手をしっかりと握り、良かった、良かったと、喜び合いました。そして、真夜中でしたが、早速、父に連絡を入れました。
翌日、父は病院に来るなり、前夜の不思議な出来事を話してくれたのです。
父は、家に帰ってから、親しくさせていただいている何人かのお医者さんに相談したところ、皆さん口を揃えたように、「脳幹部をやられた患者で助かった人はいない」と、それはもう残酷な言葉しか返ってこなかったそうです。
あれこれ悩んでいるうちに、以前から正法の話をしてくださっていた△△さんを思い出し、藁にもすがる思いで電話をしたところ、夜中にもかかわらず、△△さんご夫婦は飛んで来てくださり、丸山先生に連絡を取ってくださったとのことでした。
丸山先生から「奥様は助かりますよ」と意外な返事をいただき、父はびっくりしたそうです。そして、母に光を送りたいのだが、何かがじゃまをして光が入らない。そのため、父に光を送るので、父から母に光を入れるようにして、念じるようにと言われたそうです。
教えられるままに、心行を拝読し、家から病院に向かって、手をかざしながら助けていただきたいと念じたそうです。念じているところに、私達から連絡があった訳ですが、その時は、やはりだめだったかと思ったそうです。
ところが、母の意識が戻ったとの知らせに、父は、丸山先生のお力に驚き、そして、この世に神はいたのだと感激したとのことでした。
ところで、医者は、脳幹部をやられていると言っておりましたが、その後の検査の結果、「脳には何も異常は見られない。これは奇跡が起きたとしか考えようがない」と、信じられない様子でした。
そうです。奇跡は起きたのです。丸山先生を通じて高橋信次先生が母を助けてくださったのです。
今、母は、元気に暮らしております。本人もこの会に、参加させていただきたいと、切望していたのですが、まだ歩くのに苦労をしているため、残念ながら本日は欠席させていただきました。
ところで、母をお救いいただいたこのご恩に、私達家族は、どのようにして高橋信次先生、丸山先生に恩返しをして良いかわかりませんが、このすばらしい法を世に広めるため、少しでもお役に立てればと思い、父は精力的に伝道を行い、私達家族は、南九州地区座のお世話をさせていただいております。
最後になりましたが、高橋信次先生の法を忠実に、そしてまた、愛を持ってご指導くださいます丸山先生にご縁を持たせていただきましたことを、心から主に感謝申し上げ、私の悦びの発表とさせていただきます。ありがとうございました。
1-3:「ひかり」誌2003-1月号【悦びの原点】救われた女性の次男さんの投稿
去る一○月末のある日、家内からいつものように給与後の小遣いを渡されました。そこには手紙が添えてあり、次のような言葉が書いてありました。
「○○様、いつも私たち家族のためにお仕事を頑張ってくださいましてありがとうございます。今日、銀行へ行きお金を引き出し、そのお金を手に持った時、涙が溢れて止まりませんでした。今まで○○さんに対して感謝の薄い人間だったことに気付かされました。つらい、厳しい思いをしながら、『自分は何のために』という思いをさせていたことを心から申し訳なかったと思います。ごめんなさい。こんな私をどうかお許しください。偉大な法の中に生かさせて頂いている私達は、本当に幸せだと心から思っております。有り難うございます。△△より」という、文面でした。
その後、一人になった私は、感謝・感激で心が震え男泣きに泣きました。家内の善なる心からの思いが私の心に響き、本当に、本当に嬉しかったのです。私は世界一幸せな男だと素直にそう思いました。
結婚一九年を迎え、二人の素直な娘達にも恵まれました。そして、偉大な法に触れさせて頂いてから七年の歳月が流れました。私は恵まれておりました。一九九五年三月、鹿児島の母の手術後の奇跡を縁として偉大な偉大な法に出合わせて頂きました。それだけに、心から必死になられて法を求められる多くの方々と比べますと、私は棚からぼた餅の思いから精進の仕方に大きな甘さがありました。自分に対する甘さに加え、生来怠惰な愚か者でありました私は、今まで丸山先生から愛いっぱいのお電話や、お手紙でのご指導を頂きながら一歩も前に進めない自分がありました。
自我我欲に走り、曇り多い小さな心を自ら作り、法も大事、生活を支える仕事も大事。しかし、気持ちの上では生活があっての法の学修なんだと自己中心的で、正しい基準も分からない儘、身勝手な判断をしていた自分がありました。家庭や与えられた環境の調和と、愛の実践が一番重要なんだと分かっているつもりでした。しかし、それは頭で理解していたのにすぎず、心に溜まった曇りという抵抗体に遮られて、私の善なる心は全く理解していなかったのです。家族や出会う方に対しても、心では感謝の気持ちはある、詫びる気持ちはある、でも言えない。
家庭においても、家内の言動に対して、「自分はここまでやっているのに何故分かってくれないのか」、子供の教育にしても「それは、母親としての君の問題だろう!おれは仕事で忙しいんだ!」とか、こちらが正しいと思って「君のその考えは間違っているよ」と、いうと何倍にもなって言葉が返ってきて、それが怒りとなって、感情的になって口喧嘩となり、ついには、物に当たることも何度もありました。そういう愛のかけらもない愚かな時期もありました。何で分かってくれないんだろう。何で自分が苦しまなければならないんだろう。なんで、なんでと、悪い思いが循環し、正しくない思い、正しくない行為、逃避へと走ってしまう自分になっていました。
その思いは全て自己保存、自我我欲の思いだったのです。それは正しくなかったのです。片寄った心の偽善者で愛が無かったのです。これまで、神と主にお約束をさせて頂いてきた自らの使命が分からず気付かなかったのです。相手を思いやる素直な気持ちと勇気が自分には必要でした。
平成一四年の春、「お世話人(東京地区)をご夫妻で引き受けてほしい」とのお話を頂き、それまでの愚かな心の大転換の機会をお与え頂きました。今思い返しますと『これまでのようなだらだらとした学修の在り方では駄目じゃないか。一日も早く前に進みなさい』と、後ろから背中を押して頂いたのだと、心から有り難く思わせて頂きました。
その後は、家内もガソリンに火が付いたように急激に法の灯が燃え上がり、毎日帰宅しますと、テーブルの上はご著書、「ほくりく」誌、「ひかり」誌、そしてテープレコーダーで埋め尽くされ、悦びの涙で顔がぐしゃぐしゃになっていることもしばしばでした。
毎日、二人で法の話をさせて頂き、気付くと夜中の二時、三時となり、それまで好きだったテレビも殆ど見ようと思わなくなり、又、あれが欲しい、これが欲しい、あれがしたい、これもしたいという気持ちにならなくなっている自分たちに気付かせて頂きました。不思議でも何でもなく、狂信や盲信でもない、ただただ心が安らぎ、悦びに満たされている自分自身があるだけなのです。
正しく思ったら、素直に相手の気持ちを理解して、正しく語れば良かっただけなのです。感謝の気持ち、詫びる気持ちを素直に、そして勇気を出し相手に語ることで、どんどんと心が洗われて、大きな悦びを頂けることを分からせて頂きました。悦びを頂いたことに対して感謝し、報恩実践の行いをさせて頂くことで、さらに悦びを頂けるという、悦びの循環を体験させて頂きました。そして、冒頭の家内からの手紙という最高の悦びを頂ける様になったのです。
私の悦びの原点は鹿児島にあったのです。鹿児島の母は、平成六年の暮れに「解離性動脈瘤」(発病後一~二週間の死亡率五○%)という重い病にかかりました。
それは、心臓の上部約一○センチの動脈の内部が裂けている状態でした(後から聞かされたのですが、あと数ミリ裂けていれば動脈破裂で即死だったそうです)。
平成七年三月二三日、裂けた動脈部を切除して人工血管を結合するという大手術が行われました。午前九時「がんばってね!だいじょうぶだからね」と、声をかけると母は涙を流しながらうなずき、母を乗せた寝台車は手術室へ消えて行きました。長い長い一日でした。待つこと八時間、手術成功の説明を受け嬉しさと感激で喜び合いました。
しかし、その喜びも束の間、数時間と続かなかったのです。意識が戻らなかったのです。それどころか体全身が痙攣を起こし時間を増す毎に『パタン、パタン』と体が浮くようにひどくなっていき、目は見開いて断末魔の様相で、今思い出しても涙が出る程のひどい状態でした。
二四日の夕刻、すべての検査を終えた主治医から結果を聞かされて頭の中が真っ白になりました。「奥様の脳幹部の全体が白くなっています。結果的に申しまして言い難いのですが、このまま植物人間として生かされますか、それとも喉に入れている管を外されますか」という、死刑宣告を受けたようで大変ショックな言葉でした。私は痙攣が続く母を見ながら「今まで何の親孝行もしてこなかった!迷惑ばかりかけてきた。どうか植物人間でもいいから生かしておいて!お願いだから」と、父に懇願しました。父は「ウン」と、肩を落としながら席を立ち帰宅しました。
夜となり、その頃実家で奇跡への第一歩の動きが始まることも知らないで、兄と病院のベンチに腰掛け、「これまでお袋さんには苦労ばかりかけて親孝行してこなかったよね」と、二人で男泣きに泣き合い、母の思い出を語り続け夜が更けて行き、見上げると空には美しい星が明滅していました。
その頃実家では、父の友人の歯科医のご夫婦が心配して駆けつけてくださり、早速「金沢の丸山先生に、とにかく今直ぐにお電話をしてお願い申し上げてみましょう」と、おっしゃられ、歯科医の奥様が先生にお電話をされたところ、丸山先生は快く「はい分かりました。きっと奥様は助かりますよ。今奥様には光が入りませんので、ご主人様に光を送り続けますから、奥様の頭部と体をさするようにして差し上げてください」と、温かいお言葉を頂きました。
そこで初めて偉大な主・高橋信次先生の御名と、お弟子の丸山先生のことをお聞きいたしました。その直後から、父の手が電流を流したように熱くなって来たのです。
二五日の朝、父と家内が来て昨夜あった事を初めて聞かされました。初めて手にする『心行・祈願文』を開いて拝読させて頂いた時「あっ!これだ!捜し求めていたものがここにある!」という感動と、何とも懐かしい安らぎをその時に感じました。みんなが異口同音にここに縋るしかないと言い、母のいるICUに向かいました。とにかく周りの目も気にせず、必死になって母の体をさすり、祈るように『心行』を読ませて頂きました。
規則で一日一回一人だけの面会となっているICUで、制止する看護婦さんに何とか入室をお願いし、夜まで同じ行為を家族皆で続けました。とにかく必死でした。そこには何の疑問もありませんでした。
ICUの前のベンチで私は三日目の夜を迎えました。その日はとにかく眠れず、母が横たわっている所に向かって『心行・祈願文』を拝読しました。
二六日の深夜、うとうととしていた私を顔馴染になった看護婦さんが、私の体を揺り動かしながら「お母さんが私の手を握ったわよ!」と、笑顔で云いに来てくださったのでした。「え!!本当ですか」と、嬉しさで飛び起き、跳ねるようにして公衆電話に向かいました。弾む父の声が電話口の向こうで聞こえました。
朝、ICUが開き母を見た瞬間びっくりしたのです。あの激しい痙攣が弱くなっていたのです。そして見る見るうちに痙攣が鎮まっていくではありませんか。右手、左手、右足、そして最後に左足と、刺激に反応するのですが、どうしても、意識が戻っているのか、正常なのかが分からなかったのです。数時間が過ぎ、遂に奇跡の瞬間がやってきたのです。
指差し板(五○音ボード)に対し「今、何が一番欲しいの」という、私達の質問に対し母の指が「み・ず」と、自らの意思でその文字を示したのです。泣きました。嬉しさに泣きました。
本当に感動と感激、そして、大奇跡の瞬間を頂きました。こうして母は救われたのです。
主治医は「私も長年医師をやっていますが、このような事例は初めてです。正に奇跡です」と、はっきりと言われました。
正に、その大奇跡の瞬間が私どもが法を学ばせて頂き、悦びを語れる原点であり、スタートだったのです。
なぜ、鹿児島の母をお救い頂けたのだろうか、という疑問もありました。しかし、疑問など持つ必要などなかったのです。
一九九五年一二月九日、私は大阪学修会に出席させて頂きまして、そこで初めて丸山先生にお目にかからせて頂き、感動・感激の時をお与え頂きました。
学修会が終了して大阪駅に向かう道中、丸山先生は私に「こう歩いていて石ころが靴の先に当たることも偶然ではないんですよ。すべて、すべて必然!必然なんですよ。分かりますか。それから私は来年の四月、鹿児島に行かせて頂くようになっています。その時ご両親様にもお会いしますよ」と、やさしくお話しくださいました。
その時、愚かな私は先生のお言葉の重大な意味の深さを理解する事が出来ませんでした。それからずっと「必然、必然。鹿児島、鹿児島」という、お言葉が心に残り反復する日々が続いたのでした。
法の道を踏み外しては戻り、戻っては外れての七年、ある時心の中に「ポッ」と、電灯が灯るように「今お与え頂いている環境全てが必然なんだ、そして、その一つ一つに対する感謝の心が重要なんだ」ということがようやく分からせて頂けるようになりました。そのことを分からせて頂いて『鹿児島の母は有り難くも必然的に偉大な偉大な神と、偉大な偉大な主・高橋信次先生の慈悲と愛、法のみ心(光)によってお救い頂いたのではなかろうか』と、深く思わせて頂けるようになりました。
かつて、偉大な主には、法を二度も説かれた鹿児島は、法灯が消え、連日桜島が鳴動し噴煙を上げ、生活に支障をきたすほどの降灰も激しく厳しく起り、また、大きな被害を出す大水害にも見舞われ、さらには、毎年台風は枕崎を目指して襲来する等、正に天の嘆き悲しむ様が現れるという天変地異が続いておりました。
その状態の中で、偉大な主のご下命により、再び偉大な法灯を灯すために丸山先生が来られ、ついに平成八年四月二一日、南九州地区学修会が開催されたのでした。丸山先生が大阪でお話しくださったことの意味の深さが想起されて、胸が熱くなりました。
学修会開催後の鹿児島は、桜島の降灰もピタリと止み、水害も無くなり、台風の直撃もまぬがれ、正に奇跡としか言い様のない偉大な偉大な現象を私たちにお見せくださいました。
さらに、学修会が開催された当日から連日四日間、そして、その後の開催日当日に限って必ず太陽の回りに『大光輪』の現象をお見せくださり、天上の偉大な偉大な主・高橋信次先生がお悦びになられご祝福されておられるのだと、心から心から思わせて頂きました。
今になって思いますと、私達に数多くの偉大な奇跡と現象をお見せくださった事は、何と畏れ多く、本当に感動・感激で心が震える程、只事ではない事だと思わせて頂きました。早く気付かなければならなかったのです。
偉大な偉大な主・高橋信次先生には大いなる慈悲と愛をお導きお計らいくださったにもかかわらず、私たちは感謝と報恩の行いを捧げる事を知らなかったのです。「これから先、永遠に二度と経験する事の出来ないお計らいを私たちは神と主より頂いているんだね。これは本当に只事ではないんだよね。報恩という調和と愛の実践の精進を積み重ねていく事が私たちの道だね」と、勿体なくも家内共々法悦の日々を頂いております。
今生特に一秒一秒、己を生かし他を生かす愛の実践が重要であり、今お与え頂いている環境に心から感謝し、さらに、お与え頂いた悦びを叫び続けて行くことが、今私たち家族が実践して行かなければならない報恩の道であり、自覚しなければならない事を分からせて頂きました。
去る平成一四年九月二一日、偉大な主のご生誕の日、東京の上空に『大光輪』を拝見させて頂いていた時、愚かな私の心に響いた『初心に帰れ!』とのお導きを常に大切にし、一人でも多くの心在る方々に対して、偉大な法を確実にお伝えして行くことを固くお誓い申し上げます。
偉大な法に今生出会わせて頂き、大きな悦びと、大いなる慈悲と愛のみ心をお与えくださいました偉大な大宇宙大神霊・仏、高橋信次先生に心から心から感謝申し上げます。
いつもいつも愛いっぱいのご指導を頂いている丸山先生に心から感謝申し上げます。
今生、愛と悦びの機会を頂きました、愛しい両親に感謝致します。
1-4:「ひかり」誌2003-2月号【悦びをいただいて】救われた女性の次男の奥さんの投稿
私が偉大な正法に出合わせて頂きましたのは、鹿児島に住む義母の病気を縁とした大いなる悦びと感動の奇跡の体験からでした。それは、義父を始め義兄とその家族と私達家族一同が奇跡の一瞬、一瞬を目の当りにする中で、偉大な、偉大な主・高橋信次先生の大慈悲により義母の命をお救い頂いたのでした。
ここに改めて、畏れ多くも大宇宙大神霊・仏様に対して、心から心から感謝と報恩の誠をお捧げ申し上げます。
一九九五年三月、義母は解離性動脈瘤の手術の為、人工心肺に血液を送り心臓を停止させ、心臓の動脈部分に人工血管を取り付ける大手術を行いました。手術の前日、医師から「手術の成功率は九○%ですが、手術後、合併症として人工心肺から心臓に血液を送り込む時、血栓が脳に飛ぶ場合には脳梗塞になります。また、腎臓に飛ぶ場合は腎不全になり死亡となる場合があります。手術後五時間ぐらいで麻酔が切れますが、その時に意識が戻れば手術は成功です」と、説明を受け、家族全員で義母を励まし、そして見守りながら手術当日を迎えました。
「手術は成功致しました」と、担当医に告げられ私達は大喜びいたしましたが、手術後、五時間過ぎても意識が戻らず、夜が明け、とうとう朝を迎えておりました。義母は心配していた合併症を併発し脳死状態となり「仮に意識が戻ったとしても脳幹部の細胞が死んでいるので話すことは不可能です」と、医師に宣告され、私達は失意のどん底に突き落とされました。主人と私は、零れ落ちる涙を拭うことも忘れ義父に対し「母を生かして欲しい。植物人間でもいいから生かしてください」と、懇願致しました。義父は予期せぬ大変な事態に直面しながらも、義母の身を心から案じておりました。
自宅に戻り、義父は電話で知人の医師数人に義母を救う手立てはないか相談しておりましたが、現代医学では不可能という答えばかりでした。その中で、正法に触れておられた鹿児島市内のある歯科医のご夫妻が「金沢の丸山先生にご相談してみましょう」と、直ぐに電話でご相談してくださり、そして一刻を争う事態にすぐさま自宅まで駆けつけてくださり、偉大な主・高橋信次先生がお説きになられた正法のこと、そして、その法を正しく伝えていらっしゃる丸山先生についてお話しくださいました。
突然の電話にもかかわらず、丸山先生は「奥様はきっと助かりますよ。今、奥様には光が入らない状態なのでご主人様に光をお送りいたします。病院のある方向に向かって『心行・祈願文』を唱えてください。奥様の頭を擦ってあげてください」と、ご指導頂きました。義父は二階に上がり、病院のある方向に向かって長い時間手をかざし『心行・祈願文』を唱えておりました。私はその声を階下で聞きながら、義母の命を救うために全身全霊を捧げ一心に祈る義父の姿に心から感動致しました。
その時私は、義父は丸山先生を信じ、この正法で必ず義母が救われることを確信されたのだと思いました。丸山先生から光を頂いた義父の手が熱を帯び触れないほど熱くなり、手を近づけると電流が通じているかのようにビリビリとしびれたのには本当に驚き、光=熱=エネルギーであり、この偉大な慈悲により義母が救われるのだと、さらに素直にそう直感致しました。
翌朝から家族全員で『心行・祈願文』を唱え神に祈り、面会時間には必死になって義母の意識を呼び覚ますように声をかけ、死んでいると言われた細胞を覚醒させるように、そして痙攣している体を鎮めるように体中を擦り続けました。義母の姿が哀れでならず、流れ落ちる涙を拭う事も忘れ必死で擦り続けました。時間の経過と共に信じられないほど義母の病状が良くなって、痙攣も治まり、無反応だった手足も反応するようになりました。そしてついに奇跡が起こりました。意識が戻り、自発呼吸をするようになり、死の淵から生還したのです。
『生き返らせて頂いた』私たち家族は至上の悦びで心が打ち震えておりました。そして畏れ多くもさらなる大いなるお計らいを頂き、義母は語る事が出来たのです。死んだとされた脳幹部の脳細胞が蘇生したのです。意識が戻った義母は「蛍が沢山飛んでいて、その光景がとても綺麗だった」と、今見てきたかのように何度も語り「今は夏なの?」と、尋ねられたので「お義母さん、今は春です。外は桜が満開ですよ」と、その時答えましたが、今思うにその光景は、死の淵にいた義母を神の光によってお救い頂いたのだと思わせて頂いております。
その時の感動は、今でも心が震え、畏れ多くも偉大な主・高橋信次先生のお計らいによって義母は生き返らさせて頂いたのだ、と心から感謝、感激致しました。
ICUから個室に移った後も父は一時も休まず毎日毎日、義母の頭と痙攣が最後まで残った左足を両手で擦り続けておりました。そして母を心から労わり、励まし、深い愛情で義母を支えておられるお姿を見て、その深い愛情に心から感動感激致しました。今から思うと既に法による夫婦の在るべき姿がそこにはありました。義母は、勿体なくも神の大慈悲と、夫婦の愛、親子の愛に満たされお救い頂いたと思わせて頂きました。このような深い愛情を持った義父を父として育った夫は、本当に幸せな人だと心から思いました。
大いなる悦びを心に抱き鹿児島から東京に戻り、岩手の実家の母にこの奇跡と悦びの体験を話すと「鹿児島でそんな素晴らしい事があったのか」と、何の疑いもなく心から感動し、この偉大な事実に大変驚いておりました。
その後、母が長年父のように敬愛しておりました私の叔父が肺癌で余命一カ月という宣告を受け、起き上がる事も食べる事もままならない状態である事を知らされた私は、丸山先生にその事をご相談申し上げましたところ、いともたやすく「直ぐ北上に行き、叔父様に法についてお話をしてあげましょう」と、仰ってくださり私は大変驚いてしまいました。
金沢から岩手の北上まで新幹線を乗り継いでも約八時間はかかる道程を、まるでお住まいの近くにお出かけになるかの様に快諾されたのです。その先生のお心に心から驚き、この荒廃した世の中に(当時、東京は地下鉄サリン事件から端を発しオウム事件でひどい状態でした)義母をお救い頂いたばかりか、さらに、日本の北の地まで今直ぐに来てくださり、余命幾ばくもない叔父に正法のお話をしてくださるという予想を遥かに越えた、思ってもみないそのお返事に大変驚きました。
《今までに経験した事のない計り知る事すら畏れ多い事が起っている事に疑いを持つ事は、自分の良心にウソをつくことであり、自分の心にウソのつけない良心があるとするなら、丸山先生を心から信じることが、神を信じることだ》とその時そう思いました。
この世の中がどんなに荒廃していても、この無償の愛に対して疑いを持つほど自分の心は腐ってはいない、これは正しい、真実だと、丸山先生の無償の愛に、言葉では云い尽くせない程心から、心から感動致しました。
かつて、偉大な主・高橋信次先生には、お悟りになられて、一番最初に地方講演をされた土地が岩手県盛岡市であることをお聞きいたしました。また、岩手へ行くには、金沢から大宮経由でどうやりくりしても大宮で一時間の待時間をとらねばなりませんでした。先生が、大宮駅で乗換えされる六月六日はかつて、偉大な主・高橋信次先生と今生最期のお別れをされた昭和五一年六月六日と重なり、そのことをお聞きして大変驚きました。『何事にも一切偶然はない、全てが必然である』とお導き頂いていますが、このことには、大変驚きました。勿体なくも偉大な主のお計らい、お導きを頂いたのだとお聞きして、私たちの思いでは計り知る事すら畏れ多い光の世界がある事を実感させて頂きました。
一九九五年六月六日、大宮駅で今生初めて丸山先生と○○様にお会いし、偉大な主・高橋信次先生がお説きになられた正法について、正法の偉大性についてお教え頂きました。北上駅に着かれると直ぐ叔父が入院している北上市民病院にお越しくださり、叔父に、ここへ来たいきさつと、正法についてお話しくださいました。その翌日も、出発時間ぎりぎりまでお話しくださいました。叔父は奇跡としか言いようのないくらいに元気になり、退院するまでに体が回復しましたが、やがて家族に見守られて安らかに別れの時を頂くことが出来ました。苦しむことなく安らかな最期だったとお聞きしました。大宇宙大神霊・仏様に対して、心から心から感謝申し上げます。
私の目の前で次々起こる奇跡の体験、今生体験した事のない偉大な無償の愛は丸山先生を通して、偉大な主・高橋信次先生のお計らい、お導きをお見せくださったように思います。
偉大な主・高橋信次先生におかれましては、鹿児島で二度もご講演をされ深く愛された土地とお聞き致しました。その深く愛された土地で義母が奇跡の体験をさせて頂いたということは只事ではなかったように思います。
かつて、今から約四五三年前フランシスコ・ザビエル様には、キリスト教伝道のため、マカオからポルトガルの帆船で坊津(ぼうのつ)に到着され、小船で一五四九年八月一五日、聖母マリア様ご昇天の日、鹿児島に上陸されたのでした。伝え聞くところによれば、フランシスコ・ザビエル様が鹿児島に上陸して間もない頃、鹿児島の町に病にかかり脳死状態になった少女がいました。その父は、嘆き悲しみ、身も心も砕けんばかりにあらゆる神仏に祈祷しましたが、娘の意識は戻りませんでした。
その様子を見て、キリスト教に改宗したばかりの近所の信者の一人が「フランシスコ・ザビエル様にお祈りを願えば、天主には、必ず受け入れてくださり娘さんを生き返らせてくれるでしょう。早く行ってお願いしなさい」
父はザビエル様に涙を流しながらおすがりし、ザビエル様はこの父親の悲嘆を哀れんで部屋に引きこもり祈りを捧げました。長い時間が経って、ザビエル様が部屋から出てくると「貴方の娘さんは健康になっています。そのように嘆く必要はもうありません」と言われ、その後、娘が息を吹き返し元気になりました。ザビエル様の前に感謝をこめて平伏した親子に対し、ザビエル様は二人を労わり「このご慈悲をくださったのは、我らの父キリスト様と神様のお力です」と、教えを説き一家親族がザビエル様の霊験を目の当たりにして、その後みな洗礼を受け熱心なキリスト教信者となったことが伝えられています。
私たち夫婦の悦びの原点である義母の奇跡について感動感激の毎日を過ごしている時、今から約四五三年前のフランシスコ・ザビエル様の偉大な奇跡と義母が頂いた奇跡とが重なり、この鹿児島の地で二度も「生き返る奇跡」を頂いたということは「何事もすべて必然であり、一切偶然はない」とお導き頂いているように、このことが真実であるならば、何時の日かその繋がりについて分かることもあるのではなかろうかと思います。
私たち家族は、只事でない義母の奇跡の体験と先生の無償の愛を今生、生きている限り語り叫ぶ事が法によりお救い頂いた私たちの感謝と報恩の道だと思います。
しかし愚かな、愚かな私は、神仏から偉大なお計らいお導きを頂いたにも拘わらず、明日があるという甘い気持ちから日々の生活が一番、正法が二番という生活を続けておりました。そのような心でおりましたので、特に家庭の中では自分中心の思いで家族を振り回し、それが正しいという思いあがった思いでおりました。相手の話す事を、自分中心のフィルターに通して聞く事も多かったように思います。正しく聞く事が出来なかったのですから、特に子供との関係におきましては、子供の本当の思い、考えている事、魂の叫びを理解してあげることなく、私の、自分中心の考えで子供を縛りつけていた様に思います。
何時の間にか、共に語り、共に喜ぶ事も少なくなってきておりました。心はいつしか固く小さくなり、安らぎのない日々に、これではいけないという危機感が常にありました。命懸けで真剣に正法を学ぶ姿勢に欠けており、ご著書を拝読したりしなかったりと、七年間足踏みをしておりました。何事に対しても心からの感謝が無かったのです。
二○○二年五月より東京地区のお世話人の大役を仰せつかり、法を真剣に学び、実践していく事を心に誓わせて頂きました。
六月二一日のことです。『我今見聞し正法に帰依することを得たり』この言葉が突然に心に響き、法の中に生かされている自分があることに、心から、心から感謝の気持ちが溢れるように湧きあがってきました。そして大きな大きな悦びを頂きました。空を見上げると、虹の大光輪が出ており、心から熱いものが込み上がり涙しました。
今生かされている自分があるのは、この世に命を与えてくださった両親がいるからこそであり、今までの感謝の気持ちを伝える手紙を書く事が出来ました。父は私に対して「立派な娘だね」と、有り難くも言ってくださいました。そして、鹿児島の義父に対しましても「私が正法を学ばせて頂いているのもお父様が正法を信じ、そして、お母様をお救い頂いたからです。本当に有り難うございます」と、心から言える自分がありました。
義母にも「私が今あるのは、お義母様がご自分の身を以って正法を教えてくださったからです。本当に心から感謝しています。有り難うございます。△△さん(主人)は実に愛情深い方です。その方と夫婦になれたことは心から幸せな事だと思っています。お母さん、本当に有り難うございます」と、感謝の気持ちを伝えることが出来ました。
主人に対しましても、一九年間しっかりと家族を支え、仕事をしてくださっている事に感謝の少ない自分であったと反省致しました。家庭とは、心が癒され、勇気と力を与えてくれる場所、安らぎの場でなくてはならないと思わせて頂きました。そして、その安らぎの場で、家族が円満に生かさせて頂いている事が、何よりの幸せだと思わせて頂くことが出来るようになりました。今ここに、私はようやく正法の門を一歩くぐらせて頂いたように思います。
そして私は今、法の中に生かされている悦びの日々を頂いております。起きている時も、寝ている時も、一時も休むことなく、神は私達に対してエネルギーをお与えくださっております。神仏のみ心と、自分自身の心が常に直結している事を思う時、私は、神仏のご意志に素直に生きなければと思わせて頂きました。
法の中に平安に生かして頂いている今日を、大宇宙大神霊・仏様に対して、心から感謝申し上げます。
かつて、偉大な主・高橋信次先生には、勿体なくもお悟りになられた偉大な正法を、長年、私たち衆生に対し、無償の愛により、遠路各地にお越しくださりご説法くださいました。今生、二度とないこの尊いご縁を大事にし、一人でも多くの人達にお伝え申し上げ、永遠に偉大な法が曲げられることのないよう、消されることのないよう法友と共に精進努力して行くことをお誓い申し上げます。
1-5:「ひかり」誌2007-3月号【脳幹死から復活された現証】第三者の医師の方の投稿
二○○六年五月二一日、KKR鹿児島敬天閣において開催されました、鹿児島地区学修会に私達夫婦が初めて参加させて頂いた時のことでした。一人の女性がスッと立ち上がられ、「私が頂いた癒しの現証について話をさせてください」と、ご自身が体験されたことについてのお話をされました。そのお話の内容は、にわかには信じ難いような驚くべきものでした。ふつうでは生き返るとは考えられないような状態からよみがえられたというお話をされました。その女性は、鹿児島の○○○○様のお母様です。生き生きとお話しされるお母様のお姿に、私達は深く感銘を受け、正法の偉大さを実感せざるを得ませんでした。
この度、○○○○様から当時のご様子をお聞かせ頂き、また、「ひかり」誌に掲載されています、ご家族様のお書きになられたレポートを読ませて頂きました。お母様が頂かれた偉大な現証について、皆様にお伝え致したいと思います。
お母様は、一九九四年一二月に解離性大動脈瘤という病気を発症されました。この病気は、大動脈解離とも呼びますが、大動脈という、心臓から全身へと向かう大きな血管が裂けてしまう病気です。裂けるというのは、カッターナイフで切ったように裂けるのではなく、例えば、二枚の紙をぴったり貼り合わせたものが一枚ずつに分かれるように、血管の壁が二枚に分かれるように裂けるのです。裂ける場所や程度によって違いますが、重度の場合には手術が行われます。手術の内容は、裂けてもろくなった血管を切り取り、人工血管に付け替えるというものです。
お母様は、一九九五年三月二三日にこの手術を受けられ、血管を付け替える手術自体は成功しました。しかし、ご家族様の悦びもつかの間、お母様は麻酔から醒めることなく、意識不明の重体となってしまわれました。自分の力で呼吸することが出来ず、人工呼吸器という機械によって酸素が送られている状態でした。原因は、手術の合併症として、脳幹部に障害が起きたことでした。脳幹部が全く機能を失っていたのです。脳幹部とは、脳の中心部分を指して言いますが、ここには人間が呼吸する為に必要な、呼吸中枢というものがあります。従って、脳幹部の機能が失われると、呼吸することが出来なくなるのです。
翌日、ご家族様は主治医からひとつの選択を迫られることになりました。それは、「このまま人工呼吸器で生かしますか、それとも人工呼吸器を外して、死を待ちますか」というものでした。人工呼吸器という機械で酸素を送っている間は心臓が動いていますが、自分の力ではもう呼吸が出来ないのですから、人工呼吸器を外すということは、遅かれ早かれ心臓は停止し、死に至るということを意味します。
もう一方の、「人工呼吸器で生かしますか」という選択肢は、「生かしますか」という言葉の後に、「でも意識は絶対に戻りませんし、自分の力で呼吸出来るようにはなりません」という言葉が隠れているのです。なぜなら、現代医学では、医者が、自分の力で呼吸が出来ない患者さんの家族に、「人工呼吸器を外しますか」という選択肢を提示する時というのは、人工呼吸器を外さずにそのまま心臓を動かし続けたとしても、意識が戻る可能性は全く0(ゼロ)であるという時しかありません。なし得る全てのことをし尽くしても、もう可能性は0(ゼロ)という時だけです。
百分の一、万分の一でも意識を取り戻す可能性があるならば、「人工呼吸器を外す」という選択肢はあり得ません。ですから、この時点で、お母様は、「もう意識が戻る可能性は0(ゼロ)です」という宣告を受けられた事になります。もし人工呼吸器という機械が存在しなかったら、この時点で既に、死亡宣告を受けられていた状況であったことになります。
その日、お父様は、知り合いの医者四人の方にお母様のことを相談されました。返事は全て、「脳幹部をやられた患者で助かった人はいない、諦めなさい」というものでした。一○○人の医者に聞かれたとしても、おそらく一○○人から同じ返事が返ってきたことでしょう。
しかし、丸山先生のお返事は、それとは違っていました。丸山先生は、歯科医の△△様を縁として、相談を受けられましたが、その時のお父様に対する丸山先生のお返事は、「奥様は助かりますよ」という、驚くようなお返事でした。
丸山先生は、金沢から光を送られました。お母様に直接送ろうとされたのですが、何かが邪魔をして光が入らなかったため、お父様に光を送られ、お父様にお母様のことを念じるようにご指示されました。お父様は丸山先生のご指導の通りにされ、ご家族様も一生懸命に『心行』をあげられ、お母様の体をさすって差し上げました。
そして奇跡は起きました。お母様の意識が戻ったのです。CTで検査しても脳の異常がなくなっていました。主治医もはっきりと、こう言われたそうです。「私も長年医師をやっていますが、このような事は初めてです。まさに奇跡です」と。ナースステーションでも、婦長さんを始め看護師さん達が、「奇跡だ」と万歳三唱されたそうです。
主治医は、奇跡という言葉を選ばれました。逆に言うと、奇跡という言葉しか当てはまらなかったのだと思います。なぜなら、これはあり得ないことだからです。医学の常識で判断すると、全くあり得ないことなのです。
しかし、その常識ではあり得ないことが現実に、事実として起きました。もう二度と意識は戻らないと宣告を受けた方が、意識を取り戻し、元気に日常生活を送るようになられました。この事実が、あまりにも偉大であるために、その偉大さをどんな言葉で表現したらいいのか分かりません。
丸山先生が常に私達にお教えくださっている、「正法に不可能はありません」ということを、実際に、私達の目の前で証明してくださっているのではないかと思わせて頂きました。このような偉大な現証をお示し頂ける、今という機会をお与え頂きましたことに心から深く感謝申し上げます。
その奇跡の時からちょうど一二年が経過した今も、お母様はお元気で、皆様に正法の正しさをお示しくださっています。今から四五八年前、フランシスコ・ザビエル様が日本に初めてキリスト教を伝えたのは鹿児島でした。その時ザビエル様は、やはり鹿児島の地で一人のある女性を生き返らせるという奇跡を起こされているようです。このような奇跡が、また同じ鹿児島で起きたということは、何か偶然ではない、お導きを感じずにはいられません。
○○様のお母様には、これからもますますお元気でお過ごしくださって、私達に正法の偉大さを語り続けて頂きたいと思います。お母様の平安を心からお祈り致します。
1-6:「ひかり」誌2009-6月号【母に奇跡をいただいて】救われた女性の長男さんの投稿-その2
大宇宙大神霊・仏様、そして丸山先生、この度も一四年前と同じく、母・○○○○子を死の淵からお救いいただき、ご慈愛に対し心から感謝申し上げます。そして法友の皆様には、母のために熱き心でお祈りいただき、そして、温かいお言葉までもお送りくださいまして、誠に有り難うございます。五月二〇日現在までの母の経過を取り急ぎご報告申し上げます。
四月一四日午後一〇時頃、母・○○○○子は呼吸困難に陥り、緊急入院いたしました。その後容体は持ち直し、このまま元気になって退院出来ると思っていました。一五日午後三時頃、母は、私と妻と三人で笑いながら話をしていたのですが、その時再び母は呼吸困難に陥り、完全に息が止まってしまいました。
すぐに肺にチューブが挿管され人工呼吸が始まりましたが、左肺は真っ白で心臓はどうにか動いていましたが、危篤状態が続き、医師からは「今夜が山です。ご家族に連絡してください」と告げられました。私は直ぐに、金沢の丸山先生にご報告させて頂きました。駆けつけた父が、一四年前に母の解離性大動脈瘤を手術して頂いた循環器専門の鹿児島医療センター(旧国立病院)への転院をお願いしましたところ、院長先生には、「転院しても同じかもしれませんが、いちかばちかやってみましょう」とおっしゃり、鹿児島医療センターに移ることが出来ました。そこで初めて分かったことですが、当初、呼吸困難の原因は、気管支喘息によるものと思っておりましたが、鹿児島医療センターで診て頂いたところ、今回の呼吸困難は、大動脈瘤が大きく膨らみ気管支を塞ぎ、それが原因で呼吸困難になっていたことが判明しました。
さらに私は、丸山先生にお電話でご相談させて頂きましたところ、既に先生には、勿体なくも、母のためにお祈りくださり、神仏様の『御ひかり』を入れ、浄霊してくださっていたのでした。お蔭様で、母は危篤状態から脱し、人工呼吸器をつけた状態ではありましたが、どうにかこの世に命がつながりました。担当のお医者様も驚いておられ、本当に奇跡を頂いたと大感激いたしました。丸山先生には、本当に有り難うございました。深く感謝申し上げます。
その後、不思議とご加護を頂いているのではないかと思えることが続きました。まず、大動脈瘤を切除する手術を受けることになったものの、手術の予定が詰まっており、手術をいつ受けられるか予定が分からない状態で、更に、母は肺炎を起こしており、肺炎のまま手術をすれば合併症で死亡する確率が高くなってしまうため、肺炎が治まらなければ手術が出来ない状態でした。高齢者となりますと、肺炎が治るまで約一カ月はかかるところですが、何と、母の肺炎は二、三日で軽快し、そして、四月二○日に予定されていた別の手術が急遽キャンセルとなり、そこで母の手術をして頂くことが出来、早くに手術を受けることが出来ました。お医者様のお話では、人工呼吸器でもやっとの状態だったそうで、あの状態で手術を待っていたら、今頃母はこの世にいなかったかもしれないと思いますと、本当に、丸山先生、そして法友の皆様がお祈りくださいましたお蔭様で、神仏様にお救い頂くことが出来ましたことを、深く深く感謝申し上げます。
手術は四月二○日の午後三時ごろから始まりました。通常の手術ですと、四~五時間が目処らしいのですが、状況が状況ですので、日付が変わるのは覚悟してくださいとのことでした。早く出てきた場合は、命がない時らしいとお聞きしていましたので、手術開始後三時間経った時には、ひと山越えたと少しホッといたしました。手術はその日の午後九時過ぎに無事終わりました。丸山先生には、朝から手術の成功をお祈りくださり、お蔭様で手術が無事終わり、心より感謝申し上げます。
その後は、手術後の合併症が起きないことを祈りながら、母の意識が戻るのを待っておりました。翌二一日には、まだ母の意識が戻らず、点滴などの影響と尿量が少ないため体中に水分が多く、意識回復は一週間、早くて五日間はかかるであろうと言われ、まだまだ予断は許さないとのことでした。このことを丸山先生にお話しさせて頂きましたら、その点を重点的に、神仏様の『御ひかり』を送って頂きました。そうしましたら、手術後二日目(二二日)には、薄目をあけるまでに回復し、お医者様の言葉にも反応し、「右手を握って」と言うと、母は右手を握りかえし、「左手を握って」と言うと左手を握りかえしてきたのです。今朝のお医者様のお話では、尿量が予想以上に多くなったとのお話で、丸山先生のお祈りくださったお蔭様と感謝しております。
その後経過は順調でしたが、四月三○日の昼過ぎぐらいから母は深い眠りにつき、声をかけても目覚めない状態が一時続きました。お医者様のお話では、血圧が高かったので降下剤を投与していたが、上が八○と薬が効きすぎているので、次には血圧を上げる薬を投与しているので、そのうち効いてくるでしょうとのことでしたが、そのうち血圧も測ることが出来なくなり、黒色便が出ているということで、潰瘍を疑い、急遽胃カメラで診察することになりました。結果は出血性胃潰瘍で、一リットルほど出血しており、あと一時間ほど遅れていたら、母はこの世に命はなかったとのことでした。過去には心臓の手術をすると強いストレスで胃潰瘍になる人がいたけれど、潰瘍予防の薬も投与しており、ここ五、六年は潰瘍になった人はいなかったとのことで、医者も予想外の出来事にビックリの状態でした。このときにも畏れ多いことではありましたが、丸山先生に電話させて頂き、神仏様の『御ひかり』をいれて頂けるようお願いいたしました。
今現在、母はリハビリを行いながら、少しずつではありますが快方に向かっております。今回は二度にもわたって、母・○○○○子の命を危機からお救い頂き、正法による「意識の医学」の偉大さを、改めて実感いたしました。丸山先生には、合併症のことも気にかけて頂いており、感謝の気持ちでいっぱいです。本当に有り難うございました。法友の皆様方には、温かい励ましの言葉を何度もお送りくださり、また母の為にお祈りくださり、言葉では言い尽くせないほど感謝でいっぱいでございます。
大宇宙大神霊・仏様に対しまして、母をお救い頂きましたことを、幾重にも深く、深く感謝申し上げます。
1-7:「ひかり」誌2009-7月号【感謝と誓いのことば】救われた女性の次男さんの投稿・・・その2
今から遡ること一五年前、平成六年の暮れに、鹿児島の母が『解離性動脈瘤』という重い病に罹り、その後平成七年の三月二三日に手術が行われました。
約八時間に及ぶ手術は成功し、悦んだのも束の間、母の意識は戻らず、体全身に麻痺が起こり、主治医からの説明を聞き愕然としました。『脳幹部が完全に機能しなくなっているので、このまま植物人間として生かすか、それとも、喉に入っている管を外しますか』という選択を迫られ、正に死の宣告をされました。
その後、父の友人の歯科医ご夫妻様が実家に見えられ、「金沢の丸山先生に直ぐにお電話をしてお願い申し上げてみましょう」とおっしゃられ、その時全く面識の無い丸山先生には、その話を聞かれて、「ハイ分かりました。きっと奥様は助かりますよ。今奥様には光が入りませんのでご主人様に光を送り続けますから、奥様の頭部と体をさするようにして差し上げてください」と温かいお言葉を頂きました。
それから三日後に体の痙攣も止まり、遂には意識が戻り、正に人智では計り知れない偉大な奇跡の瞬間を拝見させて頂き、大きな大きな悦びと感動を拝受いたしました。
その奇跡は今から約四六○年前、一五四九年八月、聖フランシスコ・ザビエル神父様が鹿児島に上陸されて間もなく、裕福な家の一人娘が亡くなられ、ザビエル神父様のお祈りによって生き返り、一族がキリシタン宗に改宗したという『聖師の奇跡』というお話と重なり、母がお救い頂けたのは只事ではない、決して偶然ではなかったのだと思わせて頂きました。更には、その翌年の平成八年四月には、丸山先生をお招きして南九州地区学修会が開催されました。
それまでの九州は、長崎普賢岳の噴火、鹿児島は連日桜島が鳴動し、生活に支障がきたす程の降灰があり、又、大水害、更には毎年台風が枕崎を目指し襲来するなどの天変地異が続いておりましたが、丸山先生が事前に仰っていた通り、学修会開催後は全てが『ピタリ』と止み、その偉大な神仏様の御業、現象を拝見させて頂きまして、正に、『神はいませり!偉大な主はいませり!』と、心から思わせて頂き、大感動・大感激を頂きました。
畏れ多くもその時をご縁として、偉大な主・高橋信次先生にはお説きくださいました、偉大な正法に出会わせて頂きました。
その後、東京地区学修会も開催され、暫くして会員として、またお世話人として夫婦共にお許しを頂き、丸山先生より、夫婦の調和、過去における宗教遍歴の反省、両親の反省等等、ご慈愛溢れる沢山のご指導を頂いてまいりました。
時には厳しく思いやりくださり、時には優しく、転んだ幼児をそっと抱きかかえて起こしてくださるように、また壁にぶつかって、悩み苦しんで座り込んでいる時には、そっとお気に掛けてお見守りくださいました。これまでの丸山先生の深い、深い無償の愛に対しまして、心から感謝の気持ちで一杯でございます。本当に有り難うございます。
またこの度は、母がたびたび重篤な状態となり、畏れ多くも、偉大な神仏様のご慈悲を頂きまして、二度も奇跡を頂くという、大きな大きな悦びと、大感動・大感激を頂くという事がございました。
重篤な状態から安定させて頂く過程で幾つもの峠がございました。しかしながら、一つ一つの峠を迎える毎に、正に人智では計り知れない偉大なお計らい、お導きを頂きまして母をお救い頂きました。大宇宙大神霊・仏様に対しまして、心から深く、深く感謝をお捧げ申し上げます。
また、丸山先生におかれましては、母が重篤になってから毎日、毎日御祈りをお捧げくださっておられ、毎日お気遺いのお電話を頂いていることを兄からお聞きし、丸山先生の深い深いご慈愛溢れるお心に対しまして感謝申し上げます。誠に有り難うございます。
母が重篤に陥った一つの峠は、去る四月一五日の夕刻のことでした。鹿児島より連絡が入り、「母が重篤になったので直ぐに帰るように」ということで、気も動転する中、着の身着のまま、家内と次女の三人で空港に向かい、最終便に飛び乗り鹿児島へ向かいました。鹿児島到着後、鹿児島医療センター(一四年前に母が手術を受け奇跡を頂いた病院)へ直行しました。
父、兄からの説明では、前日の一四日の夜中、母が急に呼吸困難に陥り、父の応急的処置でそのまま近くの病院へ救急車で搬送、翌一五日の医師の診断では、「動脈瘤が破け出血し、今左肺に血が溜まっている状態で、間もなくすると右肺へ移行するでしょう。持ってあと数時間かもしれません」とのお話でした。父が、一四年前の主治医Y先生にお願いしてみてはと心に浮かび、そのことを医師に申し出ると、ちょうどその医師とY先生は知り合いでいらっしゃり、「しかし、もうこの状態ですよ!」と仰いましたが、「まあ一か八かでやってみますか」と、直ぐにY先生に連絡をしてくださり、病院側も受け入れてくださることになり、救急車で搬送されたそうです。
搬送先の鹿児島医療センターの循環器科で詳しく調べて頂いた結果、動脈瘤は破裂しておらず、『胸部大動脈瘤による気道狭窄と肺炎による呼吸困難』(大動脈瘤が肺の気道を押し潰している状態)であることが判ったそうです。
主治医のM先生からは、「一命は取り留めたものの、いつ大動脈瘤が破裂するか判らない状態ですし、また再び呼吸困難に陥るかも判らないという状態で、直ぐにでも手術しなければならないのですが、まず肺炎が落ち着かないかぎり手術は無理です。それに毎日他の手術が入っており、いつ手術が出来るか今は判りません。それに、現状の精密な検査が出来ないばかりでなく、時間的猶予が無い状況で、予測される手術の方法もかなり難しく、仮に成功したとしても様々な合併症が予測されます。また、更に回復したとしても年齢的に手術でのダメージが強く、そのまま寝たきりの生活になるかもしれないので覚悟しておいてください」と、事細かな説明がありました。
次の峠は、ICU(集中治療室)に搬送された二日後の夜でした。夜中に病院から電話が入り、長女が取ると、「危ない状態となりました。急いで来てください!」とのことで、車を猛スピードで飛ばし、家族全員で病院へ駆け付けました。
着いた時には、医師団の懸命な処置により、狭窄した気道を確保して頂いて一命は取り留めて頂いている状態でした。皆安堵していると、暫くして主治医のM先生が来られ、「熱はあるものの、白血球が正常値の八○○○まで下がっています。レントゲンを撮った結果、肺炎もほぼ治っています。来週は全て他の手術で埋まっていますが、他の医師とも相談をし、早目に手術に取り掛かる方向で検討します」との大変有り難い説明を受けました。
肺炎が数日で治ることは考えられないことらしく、その時も、正に偉大な神仏様のお計らいと思わせて頂き感謝申し上げました。その後、何回もの呼吸困難が起こりその都度医師の方々の処置で難を逃れる事が出来ました。
四月一九日、主治医のM先生から「明日午後に予定していた方の手術がキャンセルとなり、そこにお母様の手術を当てることになりました」と、突然の朗報が入りました。手術のキャンセルは滅多に無いとのことで、この事も偶然ではなく、畏れ多くも、偉大な神仏様のお計らいを頂いたのではなかろうかと思わせて頂き、感謝申し上げました。
四月二○日手術の日を迎えました。午前中に麻酔医の説明を受けました。そして午後一四時一○分母は医師、看護師の方々の慎重な運びでゆっくりと手術室に向かいました。その後、私は気持ちを落ち着かせ、「心行・祈願文」、「健康祈願文」を何度となく唱和させて頂き、周りを見ると兄夫婦、家内そして次女も同じように唱和しておりました。
また、東京地区代表委員の△△様から、東京地区会員の皆様からのお祈りと励ましのメッセージがメールで届き、皆様のお心に深く感謝申し上げました。更に本部の□□様から兄宛のメールには『丸山先生に月刊誌の編集の件でお電話させて頂きましたが、○○○○子様のことでお心が一杯とのご様子でお話が出来なかつたほどです……』とあり、改めて丸山先生の愛深きお心に感謝申し上げました。
午後二二時○○分、約八時間に及ぶ手術を終え、主治医のM先生が来られ「きれいに、無事終えました」とお話しくださり、家族全員それぞれ抱き合って悦び合いました。力が抜けると同時に、嬉しさが込み上がる瞬間を頂きました。手術室からICUに戻った母を見て、術後のむくみはあるものの、安らいでいる様子を見て大変安堵いたしました。
翌日、母の様態は、多量の点滴等の水分で、顔、手足がパンパンに腫れている状態でした。看護師さんの記録帳の中に主治医の説明があり、『水分が抜けて目が覚めるまで一週間、早くて五日程掛かると思う』と記されてありました。その日の午後には、「早く目が覚めるように無理の無い程度に語り掛けてください。そして、手や足もさすって差し上げてくださいね」と、看護師さんからお聞きし、父が母の耳元で「おい!」と語り掛けましたところ、薄っすらと母の目が開き、私が「憲市だよ!がんばったね」と話し掛けましたら、涙を薄っすらと流しました。その時、母の意識は一歩一歩確実に戻りつつあると確信させて頂きました。
その後の経過は良好で、術後五日目で呼吸器が外され、完全な自呼吸にまでとなり、頻繁に水分を求め、水を飲ませる毎に、かすれた声で「おいしい。おいしい」と言いながら飲むまでに快復しました。
術後八日目の、四月二八日には、ICUから一般病棟の観察室へと移ることが出来、これで一安心と思っておりました。その時には、次に来る大きな峠など微塵にも予測することが出来ませんでした。
四月三○日、次の大きな峠を迎えました。この日から徐々にリハビリに入ることになり、リハビリ専門の先生の説明を聞き、筋力の衰えた手と足を、目を見開き必死に動かそうと努力する母の姿を見て感動いたしました。しかし、午後に入り変化が起こりました。食事で出されるゼリー(嚥下食)を□から戻し、力が抜けるように寝入ってしまいました。『疲れているんだろうな……でも何かおかしい』と思っておりました。血圧を測ると、上が八五、下が四七と下がっており、定期的に測ってもその値は変わらず、看護師の方からは「降圧剤を点滴で投与しているせいでしょう……」との説明でしばらく静観しておりました。
夕刻となり、それまで見せなかったあくびをする様になり、それまで□で呼吸をすることで常に開いていた□も閉じ、安らいで寝入る姿に、『これは完全におかしい!』と思い、父もそう思ったらしく看護師さんに「この様子はおかしい!今血圧を測ってみてください!」と頼みました。二人の看護師の方が来られて血圧を測ったところ、その二人の看護師の方がお互いに顔を見合わせ、首を横に振る仕草を見せ、慌て出しました。もうその時点では手動の血圧計では数値も表せないほど低下していると直感しました。
ちょうどその時手術が終わられたばかりの、主治医のM先生が来られ、母の様子を診てくださいました。暫くして外で待機していた私達にM先生から、「血圧の上が五○まで低下し、下血も診られ、胃の中に異常があるようです。これから至急ICUに運びます。ある面見落としがありました。すみません」と、素直に話される先生の顔が引き攣り、焦りの様子が伺われました。そこから大慌ての状況に陥りました。
ICUに運ばれて中の様子を見ると、ちょうど勤務が終わり帰宅するところでいらっしゃった消化器系の医師の方々が集まられ、緊急用の器具が運ばれて処置が行われている最中でした。
午後八時、主治医の先生と消化器の先生から処置後の説明があり、「かなりのストレスだったのでしょう。出血性胃潰瘍を起していて、胃の中心部に三mm~五mmの潰瘍が出来、その潰瘍が胃の壁を突き破り、たまたまそこに有った動脈をも突き破り、胃カメラを入れた時に血が噴出していた状況です。
約一リットルの出血が見られました。恐らくあのまま数時間放置して処置が遅れていれば駄目だったでしょう。緊急で輸血をして、潰瘍部は完全に止血処置をしました。更に血圧を上げる為に多量の点滴を入れましたのでまた暫くICUで対応します」とのことで、大変危機的な状況にあったのだと実感し、同時に、この度も母をお救い頂きましたことを、大宇宙大神霊・仏様に対しまして心の中で何度も何度も御礼申し上げました。
その夜はそのままICU近くのベンチにて、父と兄と三人で泊まりました。
父は高齢にもかかわらず、仕事も現役でこなし、危機的な状況が続く中での看病でしたので、精神的にも相当疲れが出ているのではないかと心配しましたが、私が声を掛けると決まって「大丈夫!大丈夫」と言いました。私は父の気力には頭が下がる思いになり、父に対して、また、難局の時必ず傍に居て力になってくださる兄に対しても、微力ながら支えさせて頂きたいと決意し夜を過ごしました。
夜が明けその日の午後には、血圧も、上が一三五、下が七○と上がっており、母も目を開き、手を握り返すことが出来るまでとなっておりました。心から『ホッ』と安堵いたしました。
しばらくは安定的な状態にありましたが、また次の峠が待ち受けておりました。
五月七日に、白血球の数値が一六八○○(通常値約八○○○)と異常に高くなり、炎症反応数値も異常に高くなっておりました。調べて頂いた結果は、黄色ブドウ球菌(MRSA)感染による無気肺(肺に痰が溜まり炎症を起し空気を十分に吸い込めない状態)を引き起こし、心配していた合併症であることの診断でしたが、様々な抗生剤を投与して頂き、神仏様のお計らいを頂きまして、日が経つにつれ改善させて頂きました。
五月九日には、ICUから一般病棟の個室へと移らせて頂き、重篤の状態に陥り何度となく危機を招き、その都度偉大な神仏様のお計らいを頂きまして乗り越えさせて頂き、一カ月後の現在では、まだ以前のような状態になるまでには相当な時間を要するという状況ですが、しかし、全ての医学的数値が安定するまでにならせて頂きました。
鹿児島の地において、一四年前に引き続き、丸山先生のご慈愛を通しまして、偉大な神仏様より、二度も母の命をお救い頂きまして湧き上がる悦びで一杯でございます。
大宇宙大神霊・仏様に対しまして心より深く深く感謝申し上げます。
また、丸山先生におかれましては、大変お忙しいところを、母のために毎日毎夜お祈りを捧げて頂きまして、心から感謝申し上げます。誠に有り難うございました。
この度の母が重篤になってお救い頂いた約一カ月間、母の命を救いたいという一心で、大宇宙大神霊・仏様に対しまして祈らせて頂きました。
未熟児で生まれた私を、母は夏の季節にも関わらず湯たんぽで毎日、毎日小さな体を暖めてくださったとの話を思い出し、命がけの無償の愛で育てて頂いたことを思いますと、僅かばかりの期間でしたが、『明日は無い、一秒一秒が生涯。今、今です』という丸山先生のご指導が心に浮かび、母の髪に櫛を通し、頭皮をもみ、手足をさすり、たんを取り、食事のゼリーをスプーンで食べて頂き、偉大な主・高橋信次先生の御講演のテープを耳元で拝聴して頂くなど、一日一日その日を精一杯に過ごさせて頂きました。これから母には、元気で安らいだ日々を過ごして頂きたいという気持ちが一層強くなり、これからも時間を作って鹿児島に帰省し、介護に努めたいと思っております。
数年前のある日、丸山先生より『法は参考にしたらだめです。実践が重要です。一秒一秒が生涯と思い精進してください』とご指導を頂きました。更には、学修会の中で、丸山先生が、偉大な主・高橋信次先生より頂かれた最後の『おことば』を拝聴させて頂き、その内容が今でも強く心に残っております。
・人生に無駄は一つもありません。万象万物は全て我々に何かを語りかけています。どのような環境も無駄は一つもありません。
・神理に巡り合えたのもご両親様のお蔭です。
・求めよさらば与えん。神の子として努力すればそれに応じて与えられます。
・自分を大きくすることよりも、まず第一に、今の自分の器に愛の泉をたたえることが大事です。
・人を中心ではなく、法を中心に生きてください。
・いつも余裕、すなわちゆとりを持つことが大事です。特にユーモアが大切です。また涙を流すことは大変尊いことです。心は神仏様のもと一つであります。人の心は、神仏様の御心と一つに結ばれています。
これまで頂いてまいりましたご指導と、偉大な主・高橋信次先生のお言葉をこれからも大事に大事にし、そして肝に銘じて、初心に返り、法の実践者として自己の確立に向けて日々精進してまいります。また、この度の母が二度もお救い頂いた奇跡の話を、心在る方々に熱く、素直に、声高々と叫んでまいります。そして、偉大な主・高橋信次先生がお説きくださいました偉大な正法の伝道に励ませて頂くことをここに固くお誓い申し上げます。
1-8:「ひかり」誌2009-8月号【伝道だより】
去る四月一五日、鹿児島地区の○○○○子様が危篤状態になられたとのことで、ご子息様がご相談して来られました。神仏様のお計らいにより、そして、法友の皆様のお祈りのお蔭様で、現在お元気になられましたが、お医者様と私とでは、その治療の仕方は全然違うのです。
お医者様は肉体を物質として見て、肉体中心の現代医学に基づいた治療をされますが、私は、偉大な主・高橋信次先生よりお導き頂きました意識(魂)を中心とした治療を今日までさせて頂いてまいりました。
この魂を中心とした治療を、今回○○様にもさせて頂いたのです。この方がお救い頂かれるよう懸命に神仏様の『御ひかり』を入れさせて頂きましたが、それだけではなく、この方をお導きくださっている守護・指導霊様に対し、『血管の意識よ、ここの血管をもっと広げてください』『そこではなくて、もう少し左の膨らんでいる所を切ってください』等と、細部に亘ってお願いさせて頂くと、『ハイ』とご協力くださり、奇跡的にも再びお救い頂きました。
・・・鹿児島の○○様のお母様のご病気の原因は肉体ではなく、心にあったのです。戦争当時女学生であられたその方、お世話をされた特攻隊の青年兵士のことが今でも忘れられず、毎日仏壇に線香を焚いてご冥福を祈り、魂を弔っておられたのです。私はその方のお宅に伺いまして、直ぐにそこに来ている迷える霊たちに対して、『戦争はもう終わったのです。貴方々はこの方との関わりを断ち切り、離れなさい。そうすれば苦しみから解放されるのです』と懇々と諭しましたところ、その方のご病気はすっかり良くなられたのです。
先日また具合が悪くなられたのですが、その原因はその方の意識が戦争当時に戻り、その模様が心の中に展開されたことでした。その思いを取り除くことによって、心身は健全になるのです。
心(意識)に原因があることは、肉体中心の現代医学では分からないことなのです。このような意識の世界のことが、ご著書『心の発見』にはたくさんお導きくださっています。ですから、棒読みや上滑りな続み方ではなく、私の申し上げた今のお話を通して拝読されたら、よりご理解頂けるのではないかと思います。
体験談-2:前立腺肥大、手術不可、排尿困難から救われた記録
2-1:「ひかり」誌2006-8月号【両親への伝道について】癒やされた男性の娘さん(主婦)の方の投稿
七月の福岡地区学修会に、母が初めて参加させて頂き、発表の機会を頂きまして有り難うございました。本人はただ見学でもさせて頂ければという気持ちでおりましたので、先生からの温かいお言葉を頂き、また光を入れて頂き、本当に感激しております。有り難うございました。
今思い返しますと、母に初めてご著書をお渡ししましたのは、母が入院した昨年の八月でした。父を自宅で介護して一七年になり、母も七一才という高齢で、半身不随でほとんど寝たきりの父を介護するには、体力的に限界がきておりました。母は胃潰瘍のため吐血して救急車で運ばれました。
私はその少し前に、お向かいの○○様からご著書を紹介して頂いておりましたので、この機会にと思い、母の病室に『心の発見・神理篇』を持って行きました。ところがその時は「読むと頭が痛くなる」と言って、ご著書を拝読することが出来ませんでした。
母が退院してからも、母に毎日のようにご著書のお話をし、私たち夫婦がこのご著書によってお救い頂いたお話なども色々いたしましたが、母は一向に聞く耳を持ちませんでした。それどころか、私が正法のお話をし始めると、激しく怒り出すようになりました。ついには、亡くなった兄の事も、私が殺したようなものだと言われ、まともに聞いていたら、私はショックで母と話も出来なくなっていたかもしれません。
いつも母が怒る時には、心の中で「大宇宙大神霊・仏様、我が心に光をお与えください。心に安らぎをお与えください」と唱えさせて頂き、母の感情的な言葉を心に入れないようにしておりました。私はただ、このままでは母が地獄に堕ちてしまうという危機感でいっぱいでした。どうにかして少しでもご著書を読ませなくてはと思っていました。それで、しばらくは正法のお話はせずに、只々私が八正道を行じることにしました。毎日実家の玄関に入る前に、「今日もどんな事を言われても、毒を食べずに八正道頑張ります。守護・指導霊様、どうかよろしくお願いします」と誓って家に入るようにしました。
そして私は、この家のへルパーのつもりで、お客様に対するような態度で手伝うことにしました。そうして一ヵ月くらいした頃、母が私に「あんたはどうしてこんなに良くしてくれるの?」と聞いてきました。私は「偉大な主・高橋信次先生のご著書を拝読しているからよ。とても心が安らぐからお母さんも読んでみたら」と答えました。その頃から少しずつ読み始めてくれるようになりました。ただ、拝読してはいるようでしたが、深く理解するところまでいかず、他の本との違いが分からず、伝道がなかなか進みませんでした。
その時丸山先生に相談させて頂き「一六番のテープを聞かせて上げなさい。そうすればあの世があると分かってもらえるから」とご指導頂きました。そして同時に私の実家の電話番号をお聞きになられました。その時私はドキッとしました。まだ両親は私が正法の学修会に参加させて頂いていることも知らないし、ついこの前まで正法の話は禁句だったので、もし丸山先生から母に電話があったら、母は丸山先生に失礼な事を言うのではないか、それに気性の荒い母のことだから、怒りにまかせて私を勘当するかもしれないと思いました。丸山先生との電話をお切りしてから、私は天をじっと見つめ、考えました。「もしかして勘当されるかもしれない。でもそれは今生だけのこと、母の魂を救うには正法しかない。何があってもひるまずに私は正法をお伝えしなければならない」と天に向かってお誓い申し上げました。そして一六番のテープを持って実家に行き、丸山先生からご指導頂いていること、そしてテープをお借りした事を伝えました。
母はまた怒り出し、テープは聴かないと言いましたが、「偉大な主・高橋信次先生は、自分の言うことをうのみにするなとおっしゃっておられるから、とりあえず聴いてみて」と言いましたら、母は「それなら聴いてやろう」と言ってテープを聴き始めました(偉大な主・高橋信次先生、母の無礼をお許しください)。ところが母は偉大な主・高橋信次先生の第一声を聞いた瞬間、「この人は本物!声がウソを言ってないね。本当に人を救おうと思っていらっしゃる声だね」と言ってくれました。そしてテープを最後まで聴いて、両親ともにあの世がある事と、転生輪廻が本当の事だった事を素直に信じてくれました。本当に丸山先生のおっしゃった通りになり、私はびっくり致しました。それから少しずつ、実家で正法のお話をすることが出来るようになりました。
それでもまだ母は機嫌が悪くなることがあり、母の目を気にして父はご著書を拝読せずにおりましたが、ようやく今年の四月頃から父がご著書を拝読するようになりました。父が拝読し始めたことを丸山先生にお伝えさせて頂いたところ、先生は父の方がもっと正法が分かるとおっしゃってくださり、父への伝道に力を入れる事にしました。父はとてもご著書に感激し、一回で読むのはもったいないからと、一ページを分かるまで何回も拝読して次のページに進むようにしています。私が実家に行くといつも父は「偉大な主・高橋信次先生はすごい方だね」と言って、ご著書の中で感動した所を話してくれるようになりました。
そして兄の七回忌の日が近づいた六月のある日、丸山先生から頂いた「供養は、まずは残された家族が正法を勉強し、正法を生活に活かし、幸せに暮らすことである」という供養についてのご指導をお伝えしました。そして母も亡くなった長男の為に正法を頑張ると言い始めました。
そして父もご著書を拝読し、今までの態度を改めました。「偉大な主・高橋信次先生のご著書を拝読して、感謝が一番大事だと分かったから、これから母さんに感謝を伝えていく」と言って、母に一つ一つ有り難うと言葉をかけるようになりました。そして今までは、テレビしか見ていない様な生活でしたが、あんなに欠かさず見ていたNHKの朝の連続テレビ小説や大河ドラマさえも、馬鹿らしいと言って見なくなり、ご著書を一心に拝読しております。
その姿を見て、母も感動し、また最初からご著書をしっかり読み直し始めました。そして、今回の七月の学修会に是非参加させて頂きたいと母が言い出し、七冊のご著書を頑張って読み終わり、学修会へ参加させて頂くことが出来ました。父も学修会に参加したいと言い、そのためにもしっかり拝読し元気になろうと頑張っております。
学修会で、母の発表の時、母の心が悦んでいると丸山先生がおっしゃってくださり、そして光が出ているとまで言って頂き、びっくりしました。本当にこれまであきらめずに母に伝道してきて良かったと思いました。大きな約束を果たしたような、心の重荷が一つおろせたような安堵感でいっぱいです。母は、帰りの車の中でもとても興奮しておりました。こんな素晴らしい世界があったのだと悦んでおります。
先生に光を入れて頂いてから、白内障でいつも痛みを訴えておりました右目が全然痛くなくなり、他にも歯痛や肩のこりなどがありましたが、全部痛みがなくなったと本当に驚いております。
初めてお目にかからせて頂き、こんなにもお計らいを頂けて、母は本当に幸せです。有り難うございます。これからご著書をイギリスに嫁いだ親友に送るのだと張り切っております。他にもいろいろ伝道したい人がいるみたいです。これからは親子で伝道を頑張って参ります。
この半年間、先生には両親への伝道のことで多くのご指導を頂き、本当に有り難うございました。これからは先生のご提案の「引きこもりの家庭を救う」という素晴らしい活動に向けて、精一杯お手伝いさせて頂きたいと思っております。
2-2「ひかり」誌2006-11月号「会員からのレポート」癒やされた男性の娘さん(主婦)の投稿-2(上記投稿(2-1)の方と同じ方です)
丸山先生、ここ二~三ヶ月の間、まるで本当の主治医の先生のようにいつも両親の事を気にかけてくださり、愛情一杯のご指導を頂きまして、有り難うございました。
この度、一七年間半身不随であった父を、神仏の御業により治療くださり、また両親の不調和、そして兄の供養まで、沢山の奇跡とご指導を頂き、有り難うございます。正法に出会えた幸せを日々実感し、感激感謝申し上げております。
初めて先生にお目にかかりましたのは、今年の一月だったと記憶しております。その学修会で、先生が「明日までご両親様が生きている保証はないのですよ。皆さん今日帰られたら、是非直ぐにご両親様に伝道してください。それが一番の親孝行です」と、熱くお話しされたのが、とても心に響き、いてもたってもいられなくなったことを覚えています。
私の父(現在七九歳)は、一七年前の八月、脳梗塞で倒れ左半身不随となり、ここ数年はほとんど寝たきりの状態でした。自宅で介護する母も七○歳を越え、先の見えない不安と疲れから、父と母はいつも衝突し、険悪なムードが流れておりました。
「このままでは二人とも地獄に堕ちてしまう。両親の心を救い、苦悩から解放するのは正法しかない、すぐに正法を伝えなければ」と焦りました。しかしなかなか伝道はうまくいきませんでした。父も母も「宗教はダメだ!」と言って、ご著書を読もうとしてくれませんでした。丸山先生にご相談し、ご指導通り偉大な主・高橋信次先生のご講演のテープ一九七五年中京六月講演会『正法と現代宗教』を両親が聴かせて頂いてからは、「このお方は、本当の事を言っていらっしゃる」と分かって頂きました。
そして六月に兄の七回忌を迎えるのをきっかけに、丸山先生からの「一番の供養は、残された家族が心を正して正法の生活をすることです」というご指導を頂き、初めて、両親も亡くなった兄の供養にと、ご著書を拝読してくれるようにならせて頂きました。兄の七回忌の当日には、丸山先生のご指導通り、両親と私の三人で「心行」を上げさせて頂き、偉大な主・高橋信次先生のご講演のテープ「一九七五年GLA熊本研修会」を拝聴させて頂きました。両親とも「とてもいい供養になった」と本当に悦んでくださいました。
兄は一六歳のとき、「てんかん」を発病し、三一歳のとき、一人暮らしのアパートで、発作を起こして亡くなりました。突然の死で、父も母も未だ受け入れられず、遺骨をお墓に入れることが出来ない侭、仏壇の中に置いてありました。一度母が兄の姿を家で見ており、その時は「お母さん、僕どこへ行ったらいい?」と言って消えたそうですが、それで兄がまだ迷っているという事を、両親は実感しておりました。それもあって、両親は本当の供養の仕方を求めていたのです。
そのうち、父がご著書に感動して一心に拝読するようになりました。すると寝たきりだった父が日に日に元気になり、さら母に対し「今まで感謝が足りなかった」と言って、母に御礼を言うようにならせて頂きました。私も母も、偉大な主・高橋信次先生のご著書による大きなお導きに大変驚きました。
ところが、七月九日頃から、父は持病の前立腺が急に腫れて、尿が出にくくなってしまいました。日に日にひどくなり、七月二日に、以前(四年前)レーザー手術を受けた大学病院に運ばれましたが、検査の結果、医師より「今回は以前よりずっと大きく肥大しており、体の負担が少ないレーザー手術では効果は見込めないため、通常の手術をしなければ治療は難しい。しかし、高齢でもあり手術中に脳梗塞を起こす可能性が高いので、手術はせずに薬で様子を見ましょう」と言われ、家に帰ることになりました。
その時の尿は真っ黒で、排尿時には激痛で父は顔をしかめておりました。尿がほとんど出ないため、肌着が汗ですぐにびっしょりと濡れ、日に何度も下着を替え、夜は何十回も尿意で目覚め、熟睡出来ない状態でした。父はレーザー手術を受けられなかったことで失望しておりましたが、この医師のお陰様で手術をしなくてすみました。今思えば、その日は不思議とご光輪を何度も拝見させて頂きました。
父を病院に運ぶとき、それはそれはきれいな大きいご光輪を拝見させて頂き、その後手術を受けずに病院から出てきたときも、とてもきれいなご光輪を拝見させて頂きました。偉大な主・高橋信次先生がお見守りくださっていたのではないかと、思わせて頂きましたが、そんな畏れ多いことを考えていいのでしょうか? その日はご光輪を拝見させて頂いたことで、沈んでいた心も晴れやかにならせて頂きました。
そして、手術を受けられなかったことが、母を福岡の学修会に参加させて頂けるきっかけとなりました。父も母も、もう丸山先生にお縋りするしかない、と強く思ったようです。父が母に「学修会に行って、丸山先生にお願いしてくれ」と申しまして、母も父のために頑張って七冊のご著書を拝読し、七月一五日の福岡地区学修会に出席させて頂きました。
学修会で、先生に母が相談させて頂きましたら、先生はなんと、金沢に帰ったらすぐにお電話で光を送ってくださると仰ってくださいました。私も母と大喜びで帰りました。母はその日、学修会で発表させて頂いたとき、勿体なくも、丸山先生から、神仏の「ひかり」を入れて頂きました。お陰様で、手術しようと思っていた白内障が良くなり、歯痛も肩の痛みもすっかり消えてしまい、大変驚いておりました。お陰様で、その後は目の痛みを訴えることもなく、ご著書が拝読出来ると悦んでおります。
そして七月一七日、医師である夫も同席し、もう一人の兄もビデオを持って駆けつけ、皆が見守る中、父は受話器を耳に当て、丸山先生を通し、偉大な主・高橋信次先生の偉大な「ひかり」を頂きました。丸山先生は、まず父を浄霊してくださり、そして父の六○兆からなる肉体細胞の意識に対し、残されたこの魂の修行のために復活し、協力するようお話しされました。そして、ある薬草の種を小さじ一杯と珈琲一杯を一日に一回飲めば一週間で完治すると仰いました。
私は初めて聞く薬草の名だったので、どのような物かお尋ねすると、先生は「今お導き頂いたもので、私も初めて聞きました。あなたのご主人様がお医者様ですから、調べてもらってください」とおっしゃられ、本当に驚きました。偉大な主・高橋信次先生御自らの処方箋だったのだと分からせて頂いたとき、感動で心が震えました。本当にいつも近くにいらっしゃるのだと、強く思わせて頂きました。
そして次の朝、私たちは大奇跡を目の当たりにすることになりました。それまでは、尿がどんなに多い時でも三○○cc出ればいい方だったのが、その朝はなんと一二○○ccも出ていました。それだけではなく、痛みがほとんどなくなっていて、父は本当に驚いておりました。あれだけ腫れていた前立腺が、一夜にして治ってしまったのです。
二日目には、痛みもほとんどなくなり、気分爽快だと言うようにならせて頂きました。
三日目には、排尿時の痛みは完全に消えました。今まで前立腺が腫れていたせいで排便も困難になっておりましたが、これも「ひかり」を頂いたお陰様で、スムーズに出るようになりました。
そして四日目には、濁っていた尿が透き通ってきました。「透き通ってきたと言うことは、感染や炎症が治ったのかもしれない」と夫から聞かされ、びっくり致しました。そうして日を追うごとに劇的に回復し、偉大な主・高橋信次先生のおっしゃられた通り、一週間目には、病気になる前より遥かに良い状態にまで回復致しました。光を入れて頂いた日から、病院で処方された薬は一切飲んでおりません。本当に考えられないような大奇跡を頂き、深く深く感謝申し上げております。
その後、父は体全体が元気になり、軽々と立ち上がれるようになりました。今まであきらめていましたが、また父が歩けるようになるのではと母と大喜びしておりました。しかし、なぜか八月二○日から高熱が出て食事も受け付けず、日に何度も大量の便が出るという状態が始まりました。母は一週間近くも絶食状態の父を心配し、父に入院して点滴を受けるように強く勧めました。しかし父は「これは、偉大な主・高橋信次先生のご治療だから心配はない。入院したら申し訳ない」といって入院を拒否しました。
それでも私は心配になり、八月二六日の朝、また丸山先生にお電話をさせて頂きました。丸山先生は富山地区学修会の当日で、お忙しい中にもかかわらず、再度父に「ひかり」を入れてくださり、左半身の肉体細胞の意識と、五臓六腑の意識に対して、復活するよう次々お話ししてくださいました。その時も、夫が同席しておりましたが、丸山先生のお電話を受けさせて頂いている父が、みるみる間に顔が元気になっていく様子を見させて頂いて、正法の偉大さに、夫は大変感激しておりました。
その後も氷をなめるだけという状態が続きましたが、不思議なことに、本人は気分がよく、意識もはっきりしているのです。父は、「天から、エネルギーをもらっているような気がする」と言いました。『心行』の中にある「意識のエネルギー源は調和のとれた日々の生活の中に神仏より与えられる」という事を見せて頂いたのでした。
そして、「何も食べていないのに便が大量に出るのは、腸の細胞が復活して腸の働きが活発になっているとしか考えられない」と夫に言われ、びっくり致しました。父は幼少の頃から胃腸が悪く、今回頂いた「ひかり」と絶食で胃腸が根本的に治療されたように思いました。最期の方には、タールのような便が出てきました。宿便でした。
そして今は、これまでに見たこともないくらい、立派な便が出るようになりました。それに、シワシワだった顔や体が艶やかになり、若返ってきました。さらに、麻痩して紫色になり、氷のように冷たかった左足が、健康なピンクがかった肌色になり、温かくなりました。それに、強く触ると「痛い!」と言うようになり、今まで何の感覚もなかったのに、感覚が復活して、本当にびっくりしております。どんなに正法が偉大でも、一七年も麻痺していた神経が、約二ヶ月で復活するということはとても考えられない事でした。本当に本当に大奇跡を頂いたのです。
父の絶食は、始まってから二週間ほどで終わりました。後で丸山先生から「私も命がけでお手伝いさせて頂きました。もしあなたのお父さんが亡くなられたら大変ですからね」ともったいないお言葉を頂きました。それに「偉大な主・高橋信次先生をお信じ申し上げて病院に行かなかったなんて、なかなか出来ることではありません。本当に、高橋信次先生を深く信じていらっしゃいますね」と褒めてくださいました。
その後、徐々に食事を増やしながら、父の体力が戻るのを待っておりましたが、丸山先生から「お父さんが回復するのを邪魔しているものがあります。何か今までに信仰していませんでしたか? 亡くなった息子さんも、それが影響して、光明の世界に帰れず、苦しんでおられます」とご指導頂き、今までの信仰や思想等をいろいろ思い出すことや、関係の品がないか探す作業を致しました。
すると、父は母と結婚する前に「金光教」に入っており、結婚後二年ほどでやめていましたが、またその後両親は「龍神様」にいろいろ相談に行き、その龍神様という人が書いた掛け軸が家にありました。そして、亡くなった兄が、「てんかん」を発病する少し前から、ある霊感師が家に出入りするようになっていました。その人が書いた占いの本も家にありました。その他、最近テレビに出ている有名な霊感師の星占いの本もいくつかありました。
丸山先生にお伝えすると、先生から「他にも仏像やお札、お守り、神棚なんかはありませんか? そういうものがあると、その物を縁としてそこに不調和な霊が住むようになります」とご指導頂き、さらに、いろいろ家捜しをし、宗教・思想に関係ありそうな品々をいろいろ探し出しました。そして神棚も、つい数ヶ月前に大工さんに作り直して頂いたばかりでしたが、思い切って取り外すことに致しました。そこに神棚があったことを思い出すだけで、かつてそこにいたものが帰ってくると、丸山先生からお聞きしたからです。
そしてそれらの品々を仏間の応接台の上に並べ、丸山先生から、お教え頂いたとおりに、新鮮な卵を約一○個お供えし、夫と母と三人で『心行・祈願文』を上げさせて頂いてから、教えて頂いた浄霊文を拝読致しました。
「皆様には長年大変お世話になり、有り難うございました。この度私たち全員、偉大な主・高橋信次先生がお説きくださいました神理・正法に帰依致しましたので、只今から○月○日いっぱい、生卵をお供えし感謝申し上げます。○月○日には、これらの物を物質として一般のゴミとして出しますので、何卒それまでに元の所にお帰りください。長年お世話になりまして、有り難うございました」と言って、その後毎日それらの前で『心行』を上げさせて頂きました。
そして、それらをゴミとして出す朝のこと、滅多に夢を見ない母が、はっきりとした不思議な夢を見ました。仏壇のある部屋が騒がしいので行ってみると、五~六人の背広を着た男(顔は人間のようではなかったそうです)が宴会をしていたと言うのですが、一人は人間ぐらいの大きさ、他は皆犬ぐらいの小さい人たちで、母が「うるさいわね」と言うと、窓から一斉に出て行ったそうです。母はその夢をみて起きた瞬間、「あんな者達が今までこの家に住んでいたんだわ。早く追い出さなくては」と思い、『心行』を上げさせて頂いてから、ゴミとして出したそうです。
そしてほっとして家に帰ってきて電話の前に座った瞬間、電話が鳴り、こんなに朝早くに誰かしらと思いながら電話に出ると、「金沢の丸山です。今ゴミを出されてほっとしていますね。ご苦労様でした」という電話を頂き、母は本当にびっくりし、私に「丸山先生は全部お見通しよ!」と興奮して電話をしてきました。私も本当にびっくり致しました。それから、丸山先生からお聞きしていた通り、今まで暗く感じていた仏間を始め、家中が大変明るくなり、神棚があった部屋も大変居心地が良くなりました。
そしていよいよ「兄の供養のため」の「引導文」を作成することになりました。丸山先生から頂いた基本文を参考にしながら、兄のことを想いながら作らせて頂きました。私の作った文章を先生にFAXで送らせて頂くと、その数時間後には、先生からいろいろ添削を入れて頂いた文章が返信されてきました。私が使っている「反省」という言葉に対して、もっと分かりやすく説明を加えるようにご指導頂き、「反省とは中道を根本とした善意の第三者の立場に立って・・・・・・」と付け加えてまた先生にFAXさせて頂きましたところが、また「中道」とはについてご指導を頂き、またその中道の説明を入れさせて頂くために、何時間もご著書と首っ引きになりました。こんなにしっかりご著書を拝読させて頂いたことはこれまでありませんでした。
このようにして、いろいろ次々とご指導頂き、やっと正法を何も知らない兄が聞いても理解出来るような、素晴らしい「引導文」が出来上がりました。最初は四枚程度だった原稿が、出来上がったときには一四枚にもなっておりました。この間先生には、三日間ほど、夜も寝ずに私の「引導文」のご指導をして頂き、本当に本当に有り難うございました。先生は「人のお世話をさせて頂く時は、何日も自分のことを忘れてするものです」と仰ってくださり、本当に先生の愛の深さに、ただただ感激して涙が止まりませんでした。
先生にとっては、何の関係もない私の兄のことなのに、それも無所得で、こんなにも一生懸命、寝る時間も削ってご指導くださる丸山先生という偉大な師に巡り会えて、本当に本当に幸せです。心より感謝申し上げます。
それからすぐに、出来上がった「引導文」を両親に届けさせて頂きました。両親は「今までお寺に沢山お金を払って、いろいろ供養してもらったけれど、何にもならなかった。でもこの引導文ならきっとあの子も分かってくれると思う。やっとあの子を光明の世界に送れる」と言って大悦びしてくださいました。その日から両親も私達夫婦も、この「引導文」を毎晩上げさせて頂いております。すると、父の体調にまた変化が起こるようになりました。
「引導文」を上げさせて頂いた次の日から、目覚めが特に良くなり、これまでベッドの上で用を足していましたが、ベッドから降りてポータブルトイレに移って用を足せるようにならせて頂きました。それから、また日に日に気持ちが元気になり、今は「金沢に行けるようになりたい」と言って、自分で立つ練習を始めました。私も「引導文」を拝読してから心が軽くなり、目覚めが良くなりました。本当に「引導文」を拝読させて頂くことにより、こんなにも目に見えて変化があるのだと驚いております。きっと兄も光明の世界へと進んでいるのだと、思わせて頂くようにならせて頂きました。
そして先日、母の誕生日だったのですが、父が母に「私はとても我が侭で、いろいろ苦労をさせた。すまなかった。私は正法を学んで、これから我が侭を出さないように努力するから、どうかこれからも宜しくお願いします」と言ったのです。あんなに頑固だった父が、こんな事を母に言うなんて信じられません。病気が治ったことも奇跡ですが、今までの父を知っている私としては、父の心の変化の方がもっと奇跡です。
あんなにいつも険悪なムードであった両親が、今では「結婚して良かったね」等と言って、微笑み合うようにならせて頂きました。母が介護の苦労から解放されるのはいつだろう、父が亡くなった時だろうか等と思っていた頃もありましたが、そうではないことに気付かせて頂きました。本当に解放されるのは、お互いの心が正法により調和される時だったのです。こんな日が来るとは、夢にも思ってはおりませんでした。
この三ヶ月という短い間に、沢山の奇跡を頂き、またいろいろ勉強をさせて頂き、正法の偉大性を、改めて心に深く感じさせて頂きました。そして、正法でしか本当の供養は出来ないことも、ようやく分からせて頂きました。父も「これまで生きてきて一番の悦びは、偉大な主・高橋信次先生の正法に出会えたことだ」と言ってくださいました。母も「これは宗教ではない。本当の神仏のみ教えである。この世を救えるのは正法しかない」と言ってくださるようになりました。私は今、何よりも正法を勉強させて頂いていることを、最大の誇りに思っております。
これからも、偉大な主・高橋信次先生のみ教えを信じ、丸山先生のご指導を信じ、法を正しく心に入れ、一人でも多くの方にお伝え出来るように、一生懸命頑張っていきたいと思います。
大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、本当に本当に有り難うございました。
2-3:「ひかり」誌2006-12月号【現代医学から見た正法】癒やされた男性の娘婿(医師)の投稿
私は日本の熊本県にある診療所で内科医として働いている者です。二○○五年八月に偉大な主・高橋信次先生が著された「心の発見」というご著書に出会い、深く感銘を受けました。
偉大な主・高橋信次先生は、一○歳の頃から原因不明のご病気を縁として、肉体と心について研究され、四一歳の時に神理を悟られました。全国各地でご講演をされ、宇宙の真理である正法を説かれました。また、科学者でもあり、電子部品の研究をされ、電気会社の社長として会社経営をされていました。以来私は妻と共に、偉大な主・高橋信次先生が説かれましたみ教えを丸山弘先生のご指導のもとで学ばせて頂いております。
丸山弘先生は偉大な主・高橋信次先生が御存命中に直接ご指導を受けられ、以後三○年以上に亘って、無償で、正法を正しく、多くの人にお伝えになっておられる方です。現在「高橋信次先生の法を学ぶ会」を主宰されており、これまで会員の方の中には、丸山弘先生のお導きによる、正法による癒しの現象を頂かれた方が数多くいらっしゃいます。
私は日々医師として診療を行っている中で、現代医学に基づいた診療及び治療によって病状が改善する方がいらっしゃる一方で、現代医学の力をもってしても病状が良くならない方も少なからずおられることに自分の無力さを痛感することがあります。特に患者さんの気持ちの問題、精神的な問題に対しては、ほとんど根本的な解決策を提供出来ないのが現状です。しかし、偉大な主・高橋信次先生のみ教えを学ばせて頂くことによって、その原因は、「心、意識」という視点が欠落していたからだということに気付かせて頂きました。最も大切な「心、意識」に目を向けてこそ本当の解決策が見いだせることを教えて頂きました。
そして私はこの、意識による働きかけによって実際に病気が治癒するという事実を、丸山弘先生のお導きにより目の当たりに見せて頂くことが出来ました。それは私の父(妻の父)に起きたことです。「『私は実際に自分の目で見た』この事実を一人でも多くの人にお伝えしなければならない」と思い、この文章を書かせて頂きました。
次に父に癒しの現象を頂いた経緯について述べさせて頂きます。
父は一九二七年一月二七日生まれで、現在七九歳になります。一三歳の時、扁桃炎に罹患したため心臓の弁に異常をきたし、以来心臓に血栓が出来易い状態でした。
一九八九年(六二歳)血栓が詰まって脳梗塞となり、左半身不随となりました。その後はほとんど寝たきりで、一人では立ち上がれない状態でした。
二○○一年(七四歳)に心不全を発症したため、ペースメーカー植込み手術を受けました。
二○○三年(七六歳)夏に前立腺肥大を発症し、レーザーによる肥大部分の切除手術を受けました。それ以後西洋薬を服用してきましたが、副作用が強く現れたため、途中で服用を止めていました。
二○○六年七月七日から再び前立腺が腫脹し、排尿困難が続き、排尿時痛が強く、尿量が著しく減少しました。一日中尿意を感じるため、夜も度々目覚め、熟睡出来ない状態でした。常に膀胱の部分に圧迫感と鈍痛を感じ、苦しんでおりました。
七月一一日、かかりつけ医の診察の結果レーザー手術を受ける必要があると判断され、以前レーザー手術を受けた熊本大学附属病院に搬送されました。しかし、附属病院の主治医の判断は、「今回は、前回よりも前立腺の膨脹が強く、根本的な手術を受けなければ改善の見込みはないが、高齢であるためその手術を受けるには体力が持つかどうかという心配がある。また、一度脳梗塞を起こしているため、手術中に脳梗塞を起こす可能性が高いので、手術はしない方がいい。しばらく薬で様子をみましょう」との事でした。従って入院はせず、導尿により排尿してもらい帰宅しました。
主治医からは、今後も排尿困難な状態が続くので、家族の者が導尿の処置が出来るようになることが望ましいと言われました。しかし、父は、細くなった尿道に尿がじわじわ流れるだけでも激痛を感じる状態でしたので、その尿道に管を通すと言うことは、家族としては痛ましくて出来なかったようです。処方された薬をその日の夜から服用しましたが、排尿時痛はあまり軽減せず、尿量も増加しませんでした。夜は尿意のため何度も目覚め、熟睡出来ない状態が続きました。
このような状態の中にあった父に奇跡の現象が起きました。
七月一七日午後九:○○ 丸山弘先生より金沢から電話を頂きました。父を癒してくださるとのことでした。私には初めてのことでしたので、何をどうしたらいいのか全く分からないまま、先生が言われることに従いました。まず最初に私が左手に受話器を持ち、右手を父の患部(前立腺)の上にかざし、先生の言葉を受話器を通してお聞きしました。次に父が右手に受話器を持ち、先生の言葉をお聞きました。最後にもう一度私が左手に受話器を持ち、右手を父の患部(前立腺)の上にかざし、先生の言葉を受話器を通してお聞きしました。この間一五分間くらいでした。そしてある植物の種を一日小さじ一杯と珈琲一杯を飲むようにとの指示を頂きました。この夜より病院で処方された薬の服用は中止しました。丸山弘先生からのお電話の後、父はすぐにぐっすりと眠りました。
そして次の日(七月一八日)の朝、信じられないことが起きました。夜間蓄尿量が以前の約四倍の一二○○mlあったのです。排尿時痛が劇的に和らぎ、尿の色が改善しました。また、夜間覚醒が二回と少なくなり、明け方の排尿量が増加しました。
その後も日に日に改善し、排尿時痛はなくなり、尿の勢いが増し、尿の色も透明となりました。一週間後には、発病前より遥かに良い状態にまで回復しました。本当に何十年ぶりで、若いときのように勢いよく、それも明け方にまとまって尿が出るようになったと言っておりました。膀胱の辺りの違和感がなくなり、父は気分が爽快になり、体も軽くなり、ベッドから軽く立ち上がれるようにまでなりました。
父は以前レーザー手術を受けた経験がありますので、今回、自分がこんなに急速に回復することを不思議がり、夢のようだとしきりに言っておりました。以前レーザー手術を受けた時は、レーザーにより肥大部分を焼くという手術のため、術後は真っ赤な血尿で痛みもあり、七週間ほどは導尿状態でした。
今回は、服薬や導尿は一切行っておりません。丸山弘先生から一回お電話を頂いたことと、一日に一さじの植物の種と珈琲一杯を一週問飲んだこと、まったくこれだけです。医学的には、服薬もせず、導尿も行わず、一夜にしてこれ程症状が改善するということはとても考えられないことだと思います。ただの偶然だと言われる方もおられるかもしれません。
しかし、これは決して偶然などではなく、大きな働きかけがあったのです。
丸山弘先生は電話を通して、父の肉体細胞の意識に、復活するように語りかけてくださったそうです。偉大な主・高橋信次先生は『肉体の支配者は己の意識なり』とお教えくださっています。肉体だけに注目すると、確かに何の働きかけもしていないのですが、肉体を支配している意識に丸山弘先生が電話を通して働きかけてくださったのです。その意識に対する働きかけによって、肉体が癒されるという現象が現れたのです。私も現代医学を学びましたので、現代医学の視点で見れば、「意識に働きかけるだけで、肉体が癒されるということはあり得ない」ということになると思います。
しかし今回のことは『紛れもない事実』であり、現実に私の目の前で起きたことです。とすると、現代医学の視点ではありえないのであれば、それは『現代医学でも未だ解明出来ていないことがある』のだということを謙虚に受け止めなければならないのではないかと思うのです。私も以前は、そんなことが起こりえるなどとは想像したこともありませんでした。
しかし、偉大な主・高橋信次先生は、「人間は肉体が全てではない、意識、心が大切である。肉体は有限であるが、意識は永遠に生き通しの生命である。目に見えなくても電波が現実に存在するように、目に見える世界というのはごく一部に過ぎない」とお導きくださっています。私は偉大な主・高橋信次先生のみ教えを学ばせて頂き、科学的に正しいとされることが唯一正しいとすることは間違っているということに気付かせて頂きました。
人間の肉体の構造や働きについては科学的解明が進んでおり、その精緻さ、見事さは驚嘆すべきものであることは周知の事実であります。しかし、その見事な働きを生み出している根本の力とは一体何かという疑問に対しては現在の科学は答えてはくれません。それを教えてくださっているのが偉大な主・高橋信次先生です。偉大な主はご著書の中でこのように教えてくださっています。
「生命の神秘、人間は、誰でもこの謎に興味を持つだろう。しかし、私達がこのことを唯物的な考えで追求しようとしても、永遠に解くことはできないだろう。なぜなら、それは、唯物的な次元とかけ離れた世界に存在するからである」
(『心の発見』現証篇二三○頁より抜粋させて頂きました)
「人間は、肉体的な作用と精神的な作用という相関関係によって、存在しているということは間違いはないのだ。精神作用は、“魂”の動きで、全く次元が違った世界であり、肉体的な次元と連結されているのである。たとえば、三次元の物質的な世界と、三次元の一面である二次元の世界が共存しているように、それは、四次元の世界の、三次元的な立体の世界といえるだろう」
(『心の発見』現証篇二三三頁より抜粋させて頂きました)
父に頂いた奇跡はさらに続きました。八月一五日、急に三九、五℃の発熱があり、悪寒で震えが出現しました。丸山弘先生が再び電話で父の意識に話しかけてくださったところ、父はすぐに解熱し、元気になりました。さらに丸山弘先生は麻痺している左側の足の意識に対しても復活するように話しかけ、光を入れてくださいました。すると、今まで左足に触っても麻痺のため何も感じなかったのですが、強く触ると、感覚が戻ってきたのか「痛い!」と言うようになりました。
それから数日は元気に過ごしましたが、八月二○日からまた高熱が始まりました。さらに食欲が無く、そして大量の便が出るという状態でした。
八月二六日に丸山弘先生が再度父の意識に話しかけてくださり、今回は五臓六腑に対しても復活するように話しかけてくださいました。
その日は食欲が出たものの、次の日からまた食欲がなくなり、氷をなめるだけという状態が続きました。発熱も続きました。しかし不思議なことに、本人は気分がいいのです。そしてずっと何も食べていないのに便が日に何度も大量に出るのです。何も食べていないにもかかわらず、毎日多量の排便があるのは、腸の細胞意識が復活して腸の働きが活発になっているとしか考えられないことでした。その状態が一週間ほど続いたころ、父の顔の皮膚が艶やかになり、若返ったように見えました。
父自身は一週間も何も食べていないのに、空腹感もあまりなく、意識もはっきりとして、気分爽快だと言っておりました。
九月二日から食欲が出始め、お茶やスープを飲み、おかゆも食べるようになりました。その後徐々に食欲も普通に戻り、通常の食事が摂れるようになりました。
結局父は一○日間ほど少量の氷と果汁だけで過ごしました。父が病院に入院するのを拒否したため、点滴や服薬などは一切しておりません。周りの心配をよそに、父はほとんど絶食状態であるにもかかわらず、気分良く過ごしました。
そして一○日間の間毎日、一日に四~五回排便がありました。どこにこんなに大量の便が溜まっていたのだろうと思う程でした。最後にはタールのような便が出ました。以前ある病院でレントゲンを受けたときに、腸壁になにやらこびりついている陰が写っており、医師から「腸に便がこびりついているのです」と言われたことがあるそうです。その長年に亘って腸にこびりついていた便が出てきたのかもしれません。また、排便時の痛みも全くありませんでした。このようなことは父が寝たきりになって一七年間で初めてのことであり、本人も周りの者も全く不思議としか思えません。
このように、私は父を通して、そして丸山弘先生のお導きによって、正法による癒しの現象を見せて頂くことが出来ました。私はこのような癒しこそ真の医療ではないかと強く感じました。今の医療は、現代医学を中心にしていますので、私が申し上げたことに対して反論を受けるかもしれません。しかし、医療とは病んでいる人を癒して差し上げることだと信じております。私が今回見せて頂いた正法による癒しは、肉体には何も傷を付けることなく、苦痛もなく、また薬も飲むことすらないものでした。そして父は治癒しました。癒されました。
これが医療でなくてなんでしょう。
これこそ真の医療ではないでしょうか。この事実を目の当たりにして、これから目指す医療のあり方が、ここに示されているのではないかと、強く感じております。
2-4:「ひかり」誌2007-5月号【一七年間の苦しみからお救い頂いて】癒やされた男性(ご本人)の投稿
昨年七月一七日より丸山先生には私の為に遠く金沢から、「神仏様の光」をお送りくださり、一夜にして病気を癒して頂くという奇跡を頂き、また沢山の愛情溢れるご指導を頂き、言い尽くせないほどの感謝の気持ちで一杯で御座います。
さらに、偉大な偉大な主・高橋信次先生には、いつも私達家族をお見守りくださり、お陰様で本当に心が平安で、毎日を楽しく過ごさせて頂いております事を、心より厚く御礼申し上げます。
私は、中学一年生の頃、リウマチ熱にかかりまして、それが原因で心臓の弁に奇形が生じ、血液が心臓内に滞りやすい状態となってしまいました。在学中は農作業をさせられましたが、少し動いただけでも汗でびっしょりとなり、大変苦しかった事を思い出します。妻が薬草を煎じてくれたり、食事に気を配ったりしてくれましたので、どうにか六○歳の定年までは、会社勤めを続ける事が出来ました。子供達が大学に入ったばかりでしたので、別の会社に再就職をいたしました。
私の父は、六○歳で脳梗塞で亡くなっておりますが、まさか自分も父親と同じ病気になるとは思っても見ませんでした。再就職して二年目(平成二年、当年六二歳)のとても熱い八月中頃の夜、私は脳梗塞で倒れ、救急車で運ばれ入院してしまいました。病院に運ばれてから数日間は意識が無かったのですが、お陰様で、どうにか意識を取り戻す事が出来ました。それからは、妻も子供達も、毎日交替で病院に付き添いに来てくれました。特に妻は、仕事をしておりましたので、仕事と看病が重なり、不安と疲れで大変な事だったと思います。
その後、後遺症で左半身不随となり、左足も左腕も麻庫して動かない状態で、何をするにも誰かの介助が必要な状態でした。一年数ヶ月の入院生活の末、退院しましたが、私を家に迎え入れるにあたって、妻は、お風呂や玄関やトイレ等を改善するために、行政機関との交渉や、大工さんへの指示などで、かなり大変だったようです。私が退院しましてからは、妻には一日中私に付きっきりで介護させる事になりましたが、その時は、一人では何も出来ない状態なのだから、手伝ってもらうのが当たり前だと思っておりました。妻に対しての配慮が足りず、人知れぬ苦労をかけたと、今になって反省しております。妻の愛情のお陰と、深く感謝しております。
そして、半身不随となって一二年目、風邪がもとで心不全となり、急遽入院してペースメーカーを体内に埋め込む手術を受けました。しかし、ペースメーカーの不具合で、その後一年間に何回も心不全で入院する事となり、最終的には腹部を切開して別のペースメーカーを取り付けるという、大がかりな手術を受けました。幸いこの手術は成功して、また命をつなぐ事が出来ました。
すると翌年、今度は前立腺肥大となり、尿が出なくなりました。熊本大学付属病院で、平成一五年の夏にレーザー手術を受け、その後は痛みもなく、排尿出来ておりました。しかしまたその二年後の夏に再発しました。その時は尿が真っ赤で、血のりのような尿が出ておりました。その時も、しばらく入院して処置をして頂きました。このように、入院が多くなるにつれて、殆ど起き上がる事も出来ないような状態になって行きました。その頃は、先の事を考えると不安で一杯になり、ただただ毎日が無事に終わる事だけを願い、生活しておりました。
その頃、娘の○○子から勧められて、偉大な主・高橋信次先生のご著書「心の発見・神理篇」と、「人間釈迦」を拝読し、併せて、偉大な主・高橋信次先生のGLAに於けるご講演(一九七五年中京六月講演会『正法と現代宗教』)をカセットテープで拝聴しました時、正法に帰依したいと願うようになりました。また、ご著書を拝読し、感謝が大事であると言う事を分からせて頂き、今まで妻に対して本当に感謝が足りなかった事を反省し、妻に対して、感謝の言葉をかける事を実践いたしました。その頃から、体の方は軽くなり、時々起き上がる事が出来るようになりました。
その年の夏(平成一八年七月)に、また前立腺が腫れまして、排尿閉鎖となりました。今回は殆ど尿が出なくなり、痛みも激しく大変な苦しみでした。かかりつけのお医者様の御判断で、大学病院に転送され、入院覚悟で診察を受けたところ、担当の医師は、「今回は大変な腫れで、レーザー手術では効果は見込めません。根本的な手術をする必要がありますが、もともと脳梗塞を起こしやすい体質なので、手術中に脳梗塞を起こす危険性が高く、手術は出来ません」と云われて、当座の薬を頂いて帰りました。後で感じた事ですが、大宇宙大神霊・仏様からのご指示で、入院せずに帰されたのではないかと思いました。
大宇宙大神霊・仏様、有り難う御座います。
その時、娘から「ひかり」誌に掲載されている、病気が癒されたご体験文を読ませて頂き、大変驚きましたが、偉大な主・高橋信次先生ならば不可能はないと、素直に信じる事が出来ました。その奇跡を起こされている、丸山弘先生が、福岡に来られるとお聞きし、私は妻に「学修会に出席して、私の病気の事を丸山先生に相談して欲しい」と頼みました。妻は、私の為に一生懸命にご著書を拝読してくれまして、どうにか出席のお許しを頂き、七月一五日の学修会に参加させて頂く事が出来ました。
本当に、その節は、妻の出席をお許しくださり、深く感謝申し上げます。
福岡の学修会から帰った妻は、輝くような笑顔になっておりました。妻から、「丸山先生が、金沢にお帰りになられてから、お電話で光を送ってくださる」という事をお聞きし、大変有り難く思いました。妻は、学修会の会場で、丸山先生から畏れ多くも神仏様の「ひかり」を頂きまして、白内障の右目の痛みや、肩の痛み、そして歯痛も瞬時にして治ってしまったそうで、正法による治療の偉大さに、妻も私も大感激しました。また、その日から幾分か私の病状も軽くなり、少しですが尿が出るようになりました。
その二日後の七月一七日、丸山先生から偉大な神仏様のお光を頂き、大奇跡を頂く事が出来ました。今思い出しましても、感謝で涙が溢れます。
電話の受話器から聞こえてきました、丸山弘先生のお声は、大変神々しいお声でした。丸山先生のお言葉を、素直な気持ちでお聞きしておりました。言葉はよく覚えておりませんが、一五分もの間、丸山先生は、私の思い・行いの間違いを神様にお詫びしてくださり、私の体の細胞に、復活するようにおっしゃいました。電話をお切りしてから、未だ痛みはありましたが、排尿が出来ましたので、スッと眠りにつく事が出来ました。今までは、いつも尿意がありまして、苦しくて眠る事が出来ませんでした。
しかしその夜は、何回か目覚めて排尿した事を覚えておりますが、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来ました。その間、まさか今までの四倍もの量の尿が出ていたとは、自分でも信じられませんでした。夜間の蓄尿量を朝起きてから確認するのですが、つい先日までは、多くても三百ccぐらいであったものが、何と千二百ccも出ておりました。私も妻も本当に驚きました。その時は、排尿時に少し痛みがありましたが、前日と比べたら、遥かに楽になっており、天のお計らいに感謝申し上げました。
その後は、丸山先生が、天におられる偉大な主・高橋信次先生からご通信を頂かれた「処方箋」を数日服用しただけで御座います。病院の薬は何も飲んでおりません。手術も処置もせずに、本当に前立腺の腫れが治まりました。この時、神仏様はいらっしゃるのだと、この体験を通して深く心に感じ入りました。そして、丸山先生がおっしゃられたように、一週間目には以前よりも勢いよく排尿出来るまでに回復しました。
しかしその後、私の大好きな高校野球が始まり、その後は毎日テレビに釘付けになってしまい、ご著書の拝読もしなくなっておりました。すると、八月一五日に、何と三九度を超える高熱が出て、動けなくなってしまいました。その時私は、偉大な主・高橋信次先生に御治療して頂きながら、自分の「欲望」の為にご著書の拝読を怠ったため、高熱が出たのであろうと反省し、偉大な主・高橋信次先生に、深くお詫び申し上げました。しかし熱は下がらず、家族にお願いして、また、丸山先生にお電話で相談させて頂きました。
丸山先生は、このような私に優しく話をしてくださり、畏れ多くも、また神仏様の「ひかり」をお送りくださいました。そのお陰様で、その後しばらくは元気になりました。しかししばらくして、八月二○日頃から、今度は高熱と大量の下痢が出るようになりました。食欲が一切無く、水も受け付けず、ただ妻が口に入れてくれる氷をなめておりました。医師をしている娘婿の△△さんが来てくださいまして、私の状態を診て「これは、断食治療のような状態ですね」と言ってくれましたので、私は、偉大な主・高橋信次先生の御治療ではないかと思いました。ですから、妻が入院を勧めましたが、入院しては、偉大な主・高橋信次先生に対して申し訳ないような気がいたしました。それに気分も悪くありませんでした。
しかし妻と娘は心配し、また丸山先生にお電話で相談させて頂きました。その時、丸山先生はまた、神仏様の「ひかり」を送ってくださり、私の五臓六脈の細胞に対し、復活するようにおっしゃいました。いつも先生から治療をお受けする時は、娘婿の△△さんが、その光を頂かれて、私に入れてくださいました。丸山先生には、まだお会いした事もない私に、何度も神仏様の「ひかり」をお送りくださり、本当に感謝しております。その日は、すぐに熱も下がり、食欲も出て、久しぶりに普通の食事が少し出来ました。
その夜からまた熱が出て、あまり食事もしていないのに大量のやわらかい便が続きましたが、気分も爽快で、肌がつややかになり、麻痺して紫色をしていた左足が、ピンク色になり温かくなりました。偉大な主・高橋信次先生が、私の体を根本から治療してくださっているように感じ、有り難い気持ちで御座いました。結局、九月初旬までその状態が続き、最後には黒いタールのような、いわゆる宿便が出て、御治療が終わりました。そしてその後は立派な便が出るようになり、大変驚いております。他にも、それまではずっと微熱が続いておりましたが、その微熱も出なくなっておりました。あの高熱は、菌と戦う時の熱で、菌を殺してしまったのではないかと思います。
本当に、偉大な主・高橋信次先生のお計らいに、ただただ感謝するのみで御座います。そして、お忙しい中、遠くから毎日のようにお電話で私の病状を診察してくださいました、丸山先生のご慈悲によって私は救われました。何度御礼を申し上げても足るものでは御座いません。それから、夜も寝ないで看病してくれました妻、そして心配してくれました家族に対し、感謝の気持ちで一杯で御座います。
あれから半年以上経った今でも、私の体は「復活再生」が続いております。もう無理だとあきらめておりました髪の毛が生えてきまして、見た目が若くなったと言われました。そして、左手の感覚が少し戻って来まして、手足の爪も、正常に生え替わりつつあります。最近では、デイサービスにも通える程元気になりましたが、皆様とは話が合わなくなってしまい、家で妻と正法の話をする方が楽しくなりました。また先日からは、歯医者にも行って治癒を受ける事が出来ております。またこのように、車椅子ではありますが、外出出来る程までに元気を頂きました。それから、本日市役所より、介護保険認定結果通知が来まして、長年、「介護度4」であったものが、「介護度3」と、軽くなっておりました。回復した事を証明して頂いたように思います。
丸山弘先生、本当に、いろいろとお救い頂きまして、誠に有り難う御座います。いつか、お会いして直接御礼を申し上げる機会が来ます事を、切に願っております。
現在は、毎晩妻と共に、『心行・祈願文』、『健康祈願文』を唱えさせて頂いておりますが、丸山弘先生より、『心行・祈願文』を唱えた後、最後に、「大宇宙大神霊・仏様、お陰様で今日の一日をお与えくださいまして、有り難う御座いました」と唱えなさいとお教え頂きましたので、毎晩、そのように妻と唱えさせて頂いてから就寝いたしております。
今後は、妻共々円満な生活を目指して、日々正しく生きていきたいと存じます。
毎日生かしてくださっている奇跡を頂いております事を、偉大な主・高橋信次先生に対し、厚く御礼申し上げます。
丸山弘先生、本当に有り難う御座いました。
2-5:「ひかり」誌2007-11月号【伝導だより】
昨年の七月、畏れ多くも、神仏様より偉大な奇跡を頂かれ、寝たきりの闘病生活からご回復された○○○○様(上記投稿の男性の方)には、本日の学修会に初めてご出席くださり、一言一言を力強くかみ締めながらご発表くださいました。
「丸山先生、先生のお元気なお姿を拝見させて頂きまして、大変嬉しいです。私をお救いくださいまして、言葉に言い尽くせないほど感謝の思いで一杯です。神仏様のお計らいで、直接お会い出来まして無上の悦びでございます。正法に帰依させて頂き、私達は、神の子であるということをつくづく思いました」とお話しされますと、先生は「私も夢にまで拝見したご夫妻様にこうしてお目に掛かれて大変嬉しいです。非常に感激しています。いつまでも永遠にこの悦びを大事にして行きたいです」とお応えになられました。
会場のあちこちから聞こえてくる啜り泣きは、昨年の奇跡の記憶を蘇らせて頂き、神仏様に対する深い信のお心に正直に生きられたお姿に対する感動・感激の涙であったのでは、と思わせて頂きました。
2-6:「ひかり」誌2008-1月号【父をお送りして】癒やされた男性の娘さん(主婦)の投稿-その3
丸山先生、この度は、父、○○○○に対しまして、沢山の奇跡と、また、素晴らしいご指導を頂きまして、誠に誠に有り難うございました。
一一月四日午前一○時二五分、お陰様で父は、最期まで、何の不安も苦しみも痛みも無く、安らかな顔で眠ったまま昇天することが出来ました。亡くなって三○時間が経過しても、全く硬直せず、体に触れると、肌もやわらかく温かかったので、棺に移す時には、葬儀会社の方々も生き返るのではないかと思われたほどでした。
偉大な主・高橋信次先生には、ご講演の中で、亡くなってから硬直するのは、この世に執着があるために肉体から離れられないからであり、そういう魂は、地獄に堕ちてしまうことをお導き頂いておりますが、それをお聞きしたとき、死後硬直していた兄の姿を思い出し、大変ショックを受けた事がございました。ですから内心、「父は大丈夫だろうか?」という不安が少しありました。
しかし、本当に、偉大な主・高橋信次先生のお導きの通りでした。父は、病院で、「大腸がんの末期で、手術しなければ余命数日でしょう」と告げられても、何の動揺もせず、手術を断りました。「何の不安もない」と、ニコニコ顔で答える父に、私達も大変救われました。父は、深く神仏様をお信じ申し上げておりましたので、不安もなく、この世に対する執着も持たずに、肉体から離れられたのではないかと思わせて頂いております。
父が硬直していない事が分かった瞬間、悦びが心の底から湧きあがり、今まで味わった事の無いような感動感激で心が震えました。父が亡くなり、とても悲しいはずなのに、父が光明の世界に進んでいると思わせて頂きますと、只々嬉しく、そして心が平安になっていきました。それは正法に帰依しております母も同じでございます。正法に帰依させて頂きましたお陰様で、どんな状況でも、平安に過ごせ、どれだけ心をお救い頂いているかを、改めて実感いたしました。
また、今まで父に対して、素直に接する事がなかなか出来なかった私ですが、今回の入院の間に、今までどうしても言えなかったお詫びの言葉と、父親になってくださったことへの感謝の言葉を、心の底から溢れる思いと共に、お伝えする事が出来ました。父も自分こそ悪かったと言って私を慰めてくれました。やっと本当の親子になれたような気がいたしました。
その時、ふと、「私は父にこんな風に守って頂いてきたのだ」と言う言葉が心に浮かびました。たとえ寝たきりであっても、父の存在は大変大きいもので、その存在が私に勇気を与え、安心感を与えてくださっていた事に、初めて気付かせて頂きました。本当に今まで、父に対する感謝の薄い娘であった事を、心からお詫びいたしました。
そして、正法に出会わせて頂いたからこそ、このような平安と悦びを頂き、心をお救い頂いていることに対して、もっともっと感謝をお捧げしながら一日一日を送らなくてはならないと思わせて頂いております。
また、この度、父のことを通しまして、本当に沢山の事をお教え頂きました。
まず、一番感激いたしましたのは、私達が皆、天により、生かして頂いているという事を分からせて頂いたことです。父は、一○月一○日ごろから体調を崩し、一二日に腸閉塞で入院いたしました。腸閉塞の原因を探るため、大腸の検査をいたしましたところ、なんと、大腸がんが末期の状態で大きく盛り上がり、腸が殆ど塞がって閉塞していることが分かりました。
検査をされた医師は、「ここ一~二年でこのような状態になるものではありません。大分以前から便秘がひどかったはずです。この状態で、通常の食事をしたら固形の便となり、すぐに閉塞して大変な苦しみを伴って死亡してしまいます」と言われ、父が入院の直前まで普通の食事をし、旅行もしていたことをお話ししますと、「そんなことは、考えられません。ゆるい状態の便なら通るかもしれませんが、ゼリーのように柔らかいものを食べたとしても、固形の便になりますから、閉塞してしまうはずです」と言われ、大変驚いておられました。
私は、その医師のお話をお聞きした時に、今まで父が頂いて来ました、偉大な神仏様のお計らいに、やっと気付かせて頂くことが出来たのです。昨年の夏、父の前立腺肥大がひどくなり大学病院に運ばれましたが、命の危険があるため手術は出来ないと言われ、途方にくれておりましたところ、丸山先生を通しまして、畏れ多くも、偉大な神仏様の「御ひかり」により、劇的に癒して頂くという奇跡を頂きました。その時、実はすでに便秘がひどい状態でしたが、その便秘が大腸がんによるものとは、だれも気付いておりませんでした。神仏様の「御ひかり」を頂き、前立腺肥大だけでなく、大腸がんも改善されたため、排尿も排便もスムーズに出来るようにならせて頂いたのだということを、初めて分からせて頂きました。
さらに、その後しばらくしてから、一切食べ物を受け付けず、日に何度も大量のゆるい便が出続けるという状態が約二週間続き、その後は本当に元気にならせて頂いたことがありましたが、その時、なぜこのようなゆるい状態の便しか出ないのだろうかと、不思議に思っておりました。しかし、ゆるい便でなかったならば、腸が閉塞してしまい、父は大変苦しむところでした。だれも、大腸がんがあることを知らないのに、神仏様にはお見通しであられ、そして父の腸が閉塞しないように、便をゆるい状態にコントロールして、出してくださっていたのだと思います。
正法にご縁を頂く数年前から、父は便秘がちでしたが、その間に溜まった便を、神仏様が、全て排出してくださったのだと思います。最期は宿便のような便が出て御治療が終わり、その後は立派な便が出るようになり、もう二度と外出など出来ないと、本人も家族も皆思っていましたが、今年は母と旅行にまで行き、旅行先では、母の残した食事まで食べたにもかかわらず、何事もなく帰ってきました。本来、病気の状態から言って、そのように過ごすことなど考えられないことだそうです。
昨年夏、神仏様の「御ひかり」を頂いてから、神仏様には、毎日朝から晩まで、父の便の状態をきちんとコントロールされ、父を生かし続けてくださっていたということを分からせて頂きました時には、毎日奇跡をお与え頂いていたことに大変驚き、感激いたしました。
大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、守護・指導霊様。父に数々の奇跡をお与えくださり、正法を学修出来るように、日々元気に生かし続けてくださいました御慈悲に対しまして、心より深く、深く感謝申し上げます。
そして、父のことを通して、次にお教え頂きましたのは、意識の医学の素晴らしさです。
父は、入院先の病院で、腸閉塞(イレウス)と診断されました。腸が閉塞し、便もガスも全く出なくなり、腸が水分も吸収しなくなったため、お腹が水分とガスで風船のようにパンパンに腫れて、吐いてしまっておりました。治療としては、イレウス管という管を鼻から挿入して、腸内の水分を吸引して体外に出していく処置がとられましたが、症状が改善されず、七日間が限度といわれているイレウス管を一一日間も入れて処置しても、下剤を大量に使っても、便もガスも全く出ず、お腹はパンパンに腫れたままの状態でした。
父はベッドに寝たまま、顔を動かす事も出来ず、また、飲食も禁止でしたので、日に日に衰弱していきました。それで、大変申し訳ないとは思いましたが、丸山先生に御相談させて頂くしかないと思い、お電話をさせて頂きましたら、なんと勿体無いことに、その夜すぐに、病室へお電話くださいました。父は、先生のお声をお聞きして大変悦び、そして、先生のご指導を一生懸命拝聴し、自分の心の間違いを反省していたようです。その後、神仏様の「御ひかり」をお送りくださいますと、その瞬間からお腹からグルグルと音が聞こえ出し、便が大量に出て、お腹が引っ込んでしまいました。そのご治療は本当に鮮やかで、何の痛みも苦しみも伴わない、そしてすぐに効果が現れる、本当に素晴らしいご治療でした。夫もその鮮やかさに心から敬服しておりました。
また、先生のお計らいで、金沢地区の△△○子様より、大変な重労働をされて、父の病気の回復のためにと、貴重な薬草をお送りくださいましたことを、心より、深く感謝申し上げます。
その後、医師からも退院の許可が出て悦んでおりましたが、直前になって、なんと父の心臓のペースメーカーが壊れていることが発覚いたしました。最初のペースメーカーがすぐに壊れたので、次はなかなか壊れにくい位置に植え込んで頂いていたはずでしたが、壊れておりました。今度は心臓内科の先生より、すぐに手術を勧められましたが、父は「もう、自分の心臓だけで、生きられるところまで生きていきます」と、にっこりと答えました。私は「なんてすごい人なんだろう」と感激し、私だったら、このような心でいられるだろうかと、反省いたしました。正法を勉強してきた結果は、こういう場面で試されるのだと思いました。
ところが、驚いたことに、父の心臓は、以前は一分間に三○回も打てなかったのが、ペースメーカーは働いていないのに、五二回も打っていました。知らないうちに、心臓にも、神仏様の偉大な御治療を頂いていたのだと分からせて頂き、本当に、本当に感激し、夫も大変驚いておりました。
その後、父は退院し、父の希望どおり、夫の往診による自宅療養となりました。
丸山先生には、勿体無くも、金沢からいつも気にかけてくださり、「必要な時は、いつでもお電話ください」と、本当にお優しいお言葉をおかけくださいました。先生のお優しい愛のお心に、今まで私達は何度お救い頂いてきたことでしょう。本当にいつも有り難うございます。
そして、先生から、畏れ多くも、神仏様の「御ひかり」を父の心臓に入れてくださり、心臓の細胞意識に、復活して父の残された修行に協力するようにお話しくださいましてから、五二回の脈が次の日には六○回となり、その次の日には六二回となり、遂に七○回と言う、通常の健康な方と変わらない状態まで回復していきました。今まで触れなかった足の甲の脈さえも触れるようになり、夫も大変驚いておりました。
そして、大腸のほうも、退院してから一度腸閉塞を起こしましたが、丸山先生より、神仏様の「御ひかり」を頂き、すぐに治して頂き、それ以降は全く詰まることなく、どんどん便が出るようになりました。これは、神仏様の「御ひかり」により、賜管を塞いでいた癌が小さくなり、通りが良くなったためではないかと思わせて頂いております。
本当に、数々の奇跡を見せて頂き、意識の医学の素晴らしさに大感激いたしております。特に夫は、今まで学んできている医学では考えられない、人智を超えた高度な治療に何度も立ち合わせて頂き、心の底から感激しております。
それから、肉体の船頭である意識(魂)と、肉体細胞の意識が、偉大な主・高橋信次先生のお導きの通り、全く別であるということを見せて頂きました。
退院後、先生より、神仏様の「御ひかり」を頂き、細胞に復活するように話して頂くと、心臓も大腸も、日に日に復活していったのですが、父本人の意識は、日に日に薄れていきました。先生より、「定命の場合は、仕方がありません。あまり魂を引っ張ってはいけませんから」と、父が定命を迎えていることをお教え頂きました。
船頭の意識が薄れていくのに、丸山先生の言葉を聞いた肉体細胞は、先生の言葉に忠実に復活を続けたのです。それを見せて頂いて、魂と肉体細胞の意識は別だという事を、本当に分かりやすく見せて頂いているように思いました。父は、命が燃え尽きそうになりながらも、私達に意識の医学の素晴らしさをいろいろと見せてくださったのだと思います。
父を救うためにと正法を伝道しましたが、お救い頂いたのは、私達の方でした。夫が、私の父と前世で約束していて、今、約束どおりに教えて頂いているような気がする、と言いましたが、私も本当にそうではないかと思わせて頂いております。
そして、先生には、父が安らかな最期が迎えられるようにと、何度もお祈りくださり、沢山ご指導くださいまして、誠に有り難うございました。亡くなる直前、意識はもうほとんど無い状態でしたのに、父の耳に受話器を当て、先生のお声をお間かせした瞬間、眼がキラキラと輝き出し、意識が戻り、にっこりといたしました時には、そこに居合わせた者皆が、奇跡を見せて頂いた様に感激し、涙が止まりませんでした。
父は、「死ぬ前に一度、丸山先生にお会いして、病気からお救い頂いた事の御礼を直接申し上げたい」と常々申しておりましたが、去る九月一五日の福岡地区学修会に、先生が遠く金沢より遥々お越しくださったお陰様で、父は先生にお目にかからせて頂き、お礼を申し上げることが出来ました。
先生が帰り際に、父と握手をしてくださいました時には、感激のあまり、声を張り上げて泣いておりましたが、あのように、声を立てて泣くほど感激する父の姿を見たのは、生まれて初めてでした。先生が、以前学修会で、誠に誠に畏れ多いことですが、父のことを前世においてご存知であられるというお話をしてくださいましたが、父の感激振りをみて、本当に過去でお会いさせて頂いている仲なのではないだろうかと思わせて頂き、父が亡くなる前に、念願が叶って、先生にお目にかかることが出来て本当に良かったと思います。
父の最期の頃は、兄も休みを取り、往診に来てくださる夫も手伝ってくれて、皆で父の介護をし、皆で食事をし、そして父を囲んで会話したりなど、とっても楽しい一時を過ごしました。
そして、今回、父が言葉を出せなくなる前に、やっとの思いで兄に伝えた言葉が「ご著書を御読みください」でした。兄はそれ以来ご著書を拝読するようになり、父の看病をしながら、偉大な主・高橋信次先生のご講演のテープに耳を傾けておりますうちに、最初は、「会社関係の方が沢山来られるので、葬式は普通にして欲しい」と言っておりましたが、理解をしてくれまして、父の願いどおり、「正法によるお葬式」で父をお送りすることが出来ました。
夫が司祭をしてくれまして、丸山先生よりお送り頂きました「正法による葬儀・告別式次第」の通りに、お坊様をお呼びせず、分かりやすい言葉で魂をお送りする、通夜、葬儀を執り行わせて頂く事が出来ました。
ご参列された方々からも、「素晴らしい式でした」「あの世に帰る時にどうしなければならないか、良く分かりました」等と、感想をお話しくださり、大変嬉しく思いました。父が、ご参列くださった方々に、伝道しているかのようでした。
そして二一日まで『心行・祈願文』、『引導文』を上げさせて頂きました。
振り返って見ますと、今回、夫には感謝しても仕切れないほど、沢山お世話になっております。主治医として毎晩遅くまで父に尽くしてくださり、最期を看取って、死亡診断書を書いてくださり、その後はすぐに司祭として、通夜も葬儀も執り行ってくださいました。本当に何とお礼を申し上げても足りないくらいです。夫とご縁を頂いておりますことを、心より感謝いたしております。
また、夫をこの世に出してくださいました、お義父様お義母様には、本当に感謝しなければいけないと思わせて頂きました。夫に対し、感謝よりも求める心の方が強かった自分の心にも、気付かせて頂きました。今後は、夫婦の真の調和を目指し、神仏様とお約束させて頂いている使命を果たせますように、精進努力して行くことをお誓い申し上げます。
そして、微力ではございますが、丸山先生の悲願であられます、「北陸地方一○○万人伝道」、さらには「アメリカのヤコブ様」「イギリスのマタイ様」への伝道が実現し、先生御夫妻様とご再会される日が一日も早く来ますように、「明日はない」という気持ちで、頑張ります。
大宇宙大神霊・仏様。
いつも私達を御見守りくださり、お計らいくださり、日々生かしてくださいますことに対して、心より深く深く感謝申し上げます。
2-7:「ひかり」誌2008-1月号【主人の身も心もお救い下さいまして】癒やされた男性の奥様の投稿
この度、私の主人、○○○○が、平成一九年一一月四日、朝の太陽が燦燦と降り注ぐ光の中で、音もなく、安らかな顔で、この世を去りました。
大宇宙大神霊・仏様の大いなるお計らいにより、そして、丸山先生の深い御慈愛により、主人は沢山のお救いを頂き、本当に安らかに人生を終えさせて頂く事が出来ましたことを、心より感謝申し上げます。主人はきっと、反省道場からまっすぐに天国の方に向かっていける事と思わせて頂いております。
今まで一八年間、朝から晩まで、寝たきりの主人のお世話をする毎日でしたので、急に居なくなって、一寸淋しい思いをしておりますが、正法を学ばせて頂いているお陰様で、主人のことを思い出しても、悲しくて泣き崩れるという事もなく、平安に過ごさせて頂いております。本当に、偉大な主・高橋信次先生の、偉大な御教えに帰依させて頂きましたお陰様と、感謝申し上げております。そして、いつも愛情いっぱいにご指導くださいます、丸山先生にご縁を頂きましたお陰様で、私達老夫婦は、最後に夢のような楽しい毎日を過ごさせて頂きました。本当に有り難うございます。
私が、先生にお会いする事をお許し頂きましてから一年半ばかりになりますが、昨年七月、初めてお会いさせて頂きました時に、畏れ多くも、先生に、前立腺肥大で苦しんでいる主人をお救い頂きたいとお願いさせて頂きまして、その節は本当にあつかましいお願いをお聞き入れくださいまして、誠に有り難うございました。お陰様で、主人は次の日からすっかり病気から開放され、私達夫婦は、本当の、心からの、新婚のような楽しい生活を送らせて頂きました。毎日仲良く語らい、笑いあう、夢のような時間でございました。
今年の五月には、一泊二日で、主人と大分の湯布院にも旅行することが出来ました。旅行スタッフの方々の御協力により、九州国立公園に新しく出来た名所という「夢の大つり橋」も車椅子で渡り、天然温泉にも入らせて頂き、また、夜は蛍鑑賞にも連れて行って頂きました。先生にお会いする前の、寝たきりの生活からは考えられない、夢のような一時をお与え頂きました。
それまでは、「入退院」の繰り返しが日常で、いつも私の心は不安でいっぱいでしたので、幸せなこともあったのでしょうが、幸せと思えない、淋しく貧しい心でございました。しかし今、この様に幸せというものを感じられるようになり、本当に、人生とは素晴らしいものだと思えるようにならせて頂きました。この様に、お救い頂きましたことを、深く、深く感謝申し上げます。
先日、ご著書を拝読しておりましたら、私の引いたことのない線があちこちに引いてあり、「エッ!」と思って後ろを見ますと、主人の名前が書いてありました。ご著書に線を引くのをためらうかのように、細い鉛筆の線がヨレヨレと引いてありました。私はその線を見た瞬間、片方しか動かない手で、苦労して引いている姿が眼に浮かび、涙が溢れました。こんなにも主人は、精進しようと一生懸命頑張っていたのでした。
今考えますと、主人が最期を迎える前に正法に出会わせて頂き、本当に良かったと思います。正法に出会わせて頂けないままこの世を去っていたら、どんなに恐ろしいことになっていただろうかと思います。
私の人生も残り少ないですから、これから毎日反省を行い、残された日々を、一日一生の思いで、一日たりとも無駄にせずに生きなければいけないと思い、己に厳しく精進していくことを、神仏様にお誓い申し上げました。
そして、正法により、主人がこのように安らかな最期を遂げさせて頂くことが出来ましたことを、沢山の方々にお伝えして行かなければと思っております。そして、それが主人の供養になるのではないかと恩わせて頂いております。
まだまだ正法の入り口に立つことも出来ていない私ではございますが、丸山先生、ご指導の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
そして、日々生かしてくださり、このような平安な日々をお与え頂いておりますことを、大宇宙大神霊・仏様に対して、心より深く感謝申し上げます。
体験談-3:骨髄異形成症候群という難病から自力で癒やされた記録
(ここに於ける自力の意味は、偉大な主・高橋信次先生や丸山弘先生からみ光を入れて頂くことなく、法に適った思いと行いを実践することにより、自分一人で神仏様の光をいただかれ、難病から癒やされたことを指しております。
この体験談の方は、難病から癒やされ、退院された後に、丸山弘先生のご指導を受けられました。
この体験談は、その後に投稿されたもであります)
「ひかり」誌2009-2月号【骨髄異形成症候群という難病よりお救い頂いて】元会社員の方の投稿
丸山弘先生には、いつも温かいご指導を頂きまして、誠に有り難うございます。
この度、お蔭様で「骨髄異形成症候群」という病気(血液の癌のようなもの)よりお救い頂きました事について、レポートさせて頂きます。
平成一五年(2003年)二月、人間ドックの検査で、「骨髄異形成症候群」である事が分かり、すぐに入院する事になりました。家族を集めて主治医の先生から病状と今後の治療方法(輸血による治療と移植手術)についての説明がありました。私はあまりのショックに気分が悪くなり、その場に居ることが出来ませんでした。
この病気は、骨髄の細胞が異常を来たし、正常な血液が造られなくなる病気です。症状としては、熱があり、立っているだけで血管が切れ、その為足は真っ赤になり、出血すると血が止まらない状態でしたので、医師からは、「歩くな、怒るな、踏ん張るな」と言われ、ベッドに横になったままの生活を余儀なくされました。
当時の私は、ベッドの上で「何故自分がこんな病気になったのか」と愚痴や恨みばかり□にしていたように思います。いろいろと頭の中で考えをめぐらせている中で、どうしても死にたくない、正法にお縋りするしかないとの思いに至り、一時退院を許されたとき、以前お世話になった○○○○様にご連絡し、お会いして頂く事にしました。
私は三一年前、書店にて、偉大な主・高橋信次先生のご著書に出会わせて頂いておりました。拝読させて頂きました時、立ち眩んでしまうほどの衝撃を受け、すぐに、出版されている、偉大な主・高橋信次先生のご著書のほとんどを買い求め、拝読させて頂きました。「このような偉い方がおられるのならば、是非お会いしたい」と思うようになり、いろいろと探し求め、数人の方を介して、○○○○様にお会いさせて頂きました。
○○様は、初めてお会いする私に対して、優しく、笑顔で嬉しそうに、ご講演会において、偉大な主・高橋信次先生に初めてお会いになられた時の事をお話ししてくださり、「高橋信次先生の法を学ぶ会」において、正法の学修をするようにお勧めくださいました。にもかかわらず、当時の私は、学修会などへ参加させて頂き、正しく正法を学ばせて頂く事をせず、偉大な主・高橋信次先生のご著書もいつしか本棚に収まったままとなっていました。愚かにも、自分自身の知識習得のみが目的であった為に、ご著書を拝読させて頂いた事で満足してしまっておりました。
骨髄異形成症候群という大変治療の難しい病気に冒されてしまい、どうしようもない不安のために、厚かましくも二十数年ぶりに、○○○○様にご連絡をさせて頂きました。○○様は、そんな私に対して、「死にものぐるいで正法を勉強するしかありませんよ」と仰ってくださり、偉大な主・高橋信次先生のご著書『心の発見』三部と、『人間釈迦』一~四部を必死に拝読するように勧めてくださいました。病院に戻りました後、改めて真剣にご著書を拝読させて頂きました。
ご著書を拝読させて頂く中で、たくさんの大切なお導き、気付きを頂きました。「病気の原因は心である」「これまでの思い、行いを修正する事が重要である」というお導きにより、それまでの自分自身を振り返り、素直な心で四八年間の人生で思ったこと、行ったことを反省させて頂くようにしました。
妻に対する暴力、怒り、不信、不満、両親に対するウソ、怒り、不平不満、愚痴、恨み、友人に対する不義理、裏切り、暴力、そしり、近隣の方々に対する心ない態度、職場に対する不平不満、怠慢など、自身の目を覆いたくなるような悪行が次から次に思い出されてまいりました。このどれもが自己保存が原因であり、心をスモッグだらけにしていたのだと気付かせて頂きました。直ぐに、一つ一つの事について、神仏様、そして相手の方の魂に対しまして、「間違いを犯しておりました。本当に申し訳ございません。どうぞお許しください」とお詫びさせて頂きました。
また、「感謝の心が大切である」とのお導きにより、主治医の先生や看護士の皆様を始め、お世話くださる方々、身の回りのもの全てに対して感謝させて頂くようにいたしました。輸血治療の際には、血液の袋にそっと手を当てながら、「この度、この血液を献血くださった貴方様に心より感謝を申し上げます。貴方様に直接お会いしてお礼を申し上げたいのですが、このような状態でありますので、それが出来ません。貴方様が男性の方か女性の方か、お幾つ位の方かも分からず侭ご慈悲に縋っております。私は骨髄移植をする予定であります。無事に移植を終えて退院します。そして、社会へ出てから、貴方様に出来なかったご恩返しを別の方々へ実践していく覚悟でございます。この事をお約束いたします。有り難うございます。有り難うございます」と毎回申し上げました。お蔭様で、八一回の輸血を行いましたが、一度も拒絶反応が出る事はありませんでした。このことは大変珍しいことだと、主治医の先生も驚いていらっしゃいました。
移植手術においても、主治医の先生が作成されたスケジュール通りに不思議としか言いようの無い位に順調にドナーの方が見つかり、無事に終える事が出来ました。
平成一五年九月三日遠く県外より飛行機で骨髄が通ばれて来ました。当日は台風の接近により、ちゃんと届くだろうかと不安になり、随分と心配いたしましたが、無事届けられました。主治医の先生から「予定していた量の一・五倍の量が届きましたので、より安心だ」という説明を受け、処置が始まりました時には、ドナーの方に対する感謝の気持ちが込み上げて来て、病室で大声を出して泣いてしまいました。「ドナーになられた方のその慈愛と勇気に、心より心より感謝を申し上げます」と祈りながら、涙がいつまでも流れ落ちました。
移植後に予測される合併症なども何も無く、早めの退院となりました。退院の日に、主治医の先生より「ほとんどの人が三~四回再入院となりますから、そのつもりでいてください」と説明されましたが、本当に有り難いことに、私は一度も再入院はありませんでした。
入院中、熊本地区世話人の△△△子様が、何度も病院にお見舞いに来てくださいました。正法のお話をお聞きしていると、何か生きる望みが湧き出てきました。早く、正法を学べる、法友の皆様のおられる会場へ行きたい。そして、偉大な主・高橋信次先生のお顔をビデオで拝見させて頂きたい。その思いが毎日強くなって行きました。偉大な主・高橋信次先生のご講演テープを、ベッドの上で、誠に横着なる姿勢にならざるを得ない状態で拝聴させて頂いておりました。体が思うようにならないとは言え、大変礼儀知らずの私でありました。深く反省しております。
お蔭様で、退院後の平成一六年七月一八日、熊本市総合女性センターにて開催されました学修会に初めて参加させて頂き、丸山先生にお会いすることが叶いました。
丸山先生には、たくさんご指導くださり、「正法はこんな楽しい事はない」と申されました。私は、その悦びが理解出来るようになると、今までの人生で楽しいと思っていた事などは、比較にならない事ではなかろうかと思わせて頂きました。
平成一六年九月二六日、熊本市西部市民センターの学修会では、先生より「武道の世界か何かに、非常に尊敬する人がいるでしょう。目のキリッとした人です。その人と縁を切りなさい。偉大な主・高橋信次先生へ思いが行くようにしてください」とご指導頂きました。私は子供の頃、身体が丈夫ではなかったため、身体が強くなりさえすればと思い込み、空手を習っておりました。先生からご指導を頂いた時は、まだその意味が良く理解出来ず、悩んだこともありましたが、それからご著書を熱心に拝読させて頂き、反省をするうちに、健康な体を作ると□では言いながら、ただ腕力をつけ、自分を優位にするために空手をしていたことに気付かせて頂き、そのご指導は、私自身の心の在り方に大きな間違いがあった為に頂いたことであったと思わせて頂くようになりました。
また、そのご指導の直後に、私が骨髄移植をしたことを発表させて頂いたところ、先生には、「左の方を向いてください」と仰り、横向きの私の体を見つめられて「体は調和されています」とご指導くださり、悦び一杯にならせて頂きました。心より感謝申し上げます。
また、二○○六年五月の福岡地区学修会では、今まで私の病気を心配してくれた両親や親戚の方がくださったお守りやお札、仏像等、いろいろな他力信仰の品々の処分方法をご質問させて頂きましたところ、先生は、「しっかり精進してから処分しないと危険です。それらの品々は、床の間など失礼にならないところに置いておき、まずはしっかりご著書を拝読し、精進してください」とご指導くださいました。
その時、先生から、私の周りに一人の男性と二人の女性が来ていることをお教えくださり、「その方達を救ってあげなさい」とご指導頂きました。私は直ぐ、義妹のことを思い出しました。亡くなる直前まで、自分のことより私の病気を心配してくださっていた、大変大変心の優しい方でした。
「これから精進して、何としてもお救いして差し上げたいと思います」と答えさせて頂きました。
その後も学修会に参加させて頂く中で、丸山先生には多くのことをご指導くださいました。
「偉大な主・高橋信次先生のご著書をしっかり拝読され、心の底から精進をしてください」
「心の点検をもう一度してください。ご自身のことを反省し、ご両親様に対して許せないというお気持ちがあるようですが、すぐに許すことです」
「ご夫婦の魂の波動に同じものがあるので衝突するのです。もっと相手を思いやり、生かし合い、愛を出す言葉を、まず貴方様が相手にかけてあげることです」
「仕事を早く探しなさい。いつまでもその状態ではいけません」
これらのご指導をしっかりと心に刻ませて頂き、まずは周囲の方々に報恩の行為をして行かなければと思わせて頂き、少しずつではございますが、実践に努めてまいりました。
家庭においては、病気療養の為に家におりますので、仕事をしております妻に代わって家事のほとんどを私が行うようにし、愛ある言葉を沢山かけてあげられるように努めてまいりました。
両親、そして妻のお母様に対しましては、これまで心配ばかりかけてまいりましたので、報恩感謝を捧げる決心をし、出来るだけ時間を作ってお会いして「有り難うございます」という深い感謝の心で接するように心がけ、正法によってお救い頂きました事をお話しし、伝道させて頂くようにしました。
ご近所の方々との調和を図る為に、自宅アパートの駐車場、玄関先、ゴミ捨て場等の掃除をさせて頂きました。病気である事が分かってからの五年間、それまでの自分自身の反省を行い、お世話になった方々へのご恩返しを少しずつしてまいりました。
昨年(二○○八年)一○月の学修会において「大変いい状態です。貴方様の発表によって周囲の方々が感銘を受けられ、後光が出ておられます」「一秒、一秒、心に思うことを正しく見つめて行ってください。間違った思いをした時は、直ぐに正しい思いに戻すことを心がけてください。正法以外では悟れません。後光を大きくするよう努力してください」との、大変有り難いご指導を頂きました。
丸山先生には、私が正法の学修をさせて頂くようになってからの五年間、数えきれない程の慈愛に満ちたご指導を頂いてまいりました。まだまだ、夫婦の調和や、他力信仰の品物の処分など、課題は沢山残っておりますので、今後はさらにご著書の拝読とともに、ご指導頂きましたことを心に刻み、精進努力を重ねてまいります。
この度の最終段階の検査において「五年前にバンク移植(骨髄移植)をしました。末梢血に問題はありません」との結果を頂きました。主治医の先生から書面でも「全くの健康体であります」とお墨付きを頂けました。
私は、正法の学修が出来ていなかったら、今頃この世に居なかったのではないかと思わせて頂いております。主治医の先生には「予測される感染症なども何も無かつたですね」「こんな移植ならば今後何度でも移植手術をしたいです」と申されました。一度も再入院することなく、健康にならせて頂いたのは、偉大な主・高橋信次先生のお導きと、丸山先生のご指導により、病気の原因である「心」を正す努力をさせて頂けたからだと、正法にご縁を頂けたことを心より感謝しております。
私は、お救い頂きました事への報恩として、残された人生の全てを、自分の心を丸く、豊かで大きくする事に努め、正法の学修をすることによって得られる悦びとその偉大さを一人でも多くの方へお伝えするために、今生生まれた目的と使命を考え、精進していきたいと覚悟を決めています。
大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、私に病気を通しまして、大いなる気付きをお与えくださいましたこと、誠に誠に有り難うございます。丸山先生、今後とも何十年とご指導くださいますようお願い申し上げます。