「正命・正しく生きる」を反省・・・カメラ付きメガネの功罪

まえがき

 八正道に、「正命(正しく生きる/正しく生活する)」という言葉があります。

 この言葉は、「正見」「正思」「正語」という余りに有名な言葉に隠れて、正しく生きるとは一体どういうことなんだろうと、なかなか深く理解されることが少ないようであります。

 ご著書にはいくつか説明がなされていますが、「正命」の次の「正進」が周囲の人々に対する正しい接し方を言っていることに対して、自分自身の正しい在り方、正しい生き方を言っているようで、一言で簡潔に言うならば、「自分の生き方を正す、法に適った中道の生活をする」ということになると思います。

 こう言いかえても、なかなか心で理解することは難しいようですが、次の正進が周囲の人に対する正しい接し方を言っており、正命は自身の生き方を正す、自分個人の正しい生き方をする、ということになるでしょう。

 では、具体的にはどんな生活をすれば良いのかということについては、ご著書をお読みいただくか、このブログの『八正道』を見ていただければと存じます。

 この正命についての一考察として、日常の些細なことではありますが、自身にとっては身につまされる、そしてこのブログに掲載することすら憚れる恥ずべき出来事、行為がありましたので、二度と過ちを犯さないという思いを込めて共有したいと存じます。

カメラ付きメガネ

 ある日私は、「閲覧自由」という書籍に出会いました。

 購入すると、わずか10ページ程度なのに、1冊一万円もします。それだけ価値があると、出版側が考えているということなのでしょう。

 20~30種類程度あるそれらの書籍は、ある会員になって会のセミナーに出席すれば見ることが出来ます。

 会員であれば、ネットで一部分は見ることも出来ますが、ネットの場合は、ページ内の最重要部分に、「以降は有料です」と記載されていて、肝心なところは見ることが出来ないようになっています。

 私はそのうちの何冊かの核心部を是非見たいと思うようになりました。

 しかし、その為に、数万円を支払うには、ちょっと価値観が違いすぎました。

 私はふと思いつきました、

 写真を撮ろうと。

 需要があるから開発発売されるのでしょうが、世の中には、思いもかけないような製品で溢れかえっているようです。

 秘密の内に、人知れず写真(ビデオ)を撮る、メガネに仕込まれたカメラで写真を撮ることが出来る商品があるとのこと。

 咄嗟に私はネットのアマゾンやフリマに飛びつきました。カメラがついたメガネがあるはずだ、と。

 ありました。

 手頃なところで一万円弱。フリマでは半値以下で出ています。

 間髪を入れず、私は、購入手続きをしてしまいました。

試行錯誤

 当然、会場での撮影になりますが、隠れて、主催者には分からないように撮影しようと思いました。

 もし、会場のどこかに、「撮影禁止」なる張り紙がされていたら、撮影は諦めるべきだろうという思いが湧いてきました。

 それは仕方がない。しかし、もし、そのような張り紙がなかったら、このメガネ型カメラで撮影をしようという思いがありました。

 当然のように、偉大な主・高橋信次先生のお顔が浮かびます。

 「撮影禁止になっていないので、宜しいでしょう?」と、自我が言い訳をしています。

 このような心境で、次回の会場に臨もうと思っていましたが、やはり何か引っかかります。

 何故、会場の人に対して、隠れて撮影するの? 高橋信次先生であれば、見透かされていても大丈夫なの? と。

 人の目に対しては、直接何か言われることを気にしているにもかかわらず、高橋信次先生は、表向きは何も言われない(私が聞くことができない)から大丈夫と思っている、浅はかな自分の心にやっと気づかせて頂きました。

 人の目より、もっともっと高橋信次先生の目を意識しなければならないのに、面と向かってはお声が聞くことができないからと、誠に申し訳ないことですが、軽く軽く扱ってしまっておりました。

 誠に、誠に、申し訳ございません。心から、お詫び申し上げます。

 隠れて撮影することは、きっぱりとやめます。例え、写真撮影禁止などの張り紙がなくても。それは、自分の善なる心が良しとしないからであります。

 このカメラは、何か楽しいことに活用しようと思います。家族がふざけ合っている様子をそれとなく撮影するとか、と思っていましたが・・・。

己心の魔

 先述のように心の整理をしたつもりであったのに、翌日の反省では又、ムクムクと自我の思いが頭をもたげてきます。

 『頭で覚えても、写真に撮っても一緒じゃないか、写真は隠れて撮るから駄目というが、書き写すことも隠れてするではないか! どちらも同じではないか! 何故片方だけを否とするのか! 書き写しを是とするなら、撮影も是であろう』と。

 容易に打ち消すことが出来ません。

 写真が隠れて撮影するから否であるならば、書き写しも隠れてするから否であろう、と。それとも、書き写しは堂々と衆目のあるところでするというのか? 人目を気にして出来ないであろう、否、衆目のあるところで書き写したら、やめて下さいと言われるであろうと、追い打ちをかけられる。

 この両者の何が違うのか、と。

 その日の反省では結論を出すことが出来なかったが、どうしたことか、翌朝には、心の高ぶりが収まっていたからか、「やっぱり写真はやめておこう」という心境になっていました。

 しかし、隠れて書き写すことは、否とはしない、会場では頭で覚えて、人目につかないところで書き写させて貰おう、主催者が無料で見せるのはそれ位(頭で覚え、それを書き写す程度)は良しとしているからであろうと考える、アンバランスな心境でありました。

 明解な理論や根拠があるわけではなく、何となく、それなら良いだろうというような感じでありました。なんら心の解決がついていない、ある意味、惰性に流されているだけのように思えました。

 そんな状態で迎えた、その書籍を見ることが出来る日が来ました。

 取り敢えずメガネは会場に持って行くことにしました。きっと心の奥底では、使うかも知れないという予感があったからでしょう。

 閲覧の時間が来ました。

 短い。その書籍を見ることの出来る時間はセミナーの休憩時間だけで、時間が余りにも短い。せいぜい15分程度?

 これでは書き写すにしても、15分で覚えて、席に戻って一冊の肝心な部分を書き写せるか? 不明瞭なところがあれば、再度書籍を見なければならないが、それは次の機会(約半月~1ヶ月後)になってしまう。

 これでは数冊分であれば、何ヶ月もかかってしまいそうだ。月1~2回のチャンスしかないとすれば、一年かかって終わるだろうかという気もする。

 私は躊躇なく、いや、少しの抵抗はあっただろうが、写真での撮影を実行しました。当然、周囲には分からないように、であります。その為のメガネカメラであります。

 恐ろしいことに、感情が暴走すると、理性も何もあったものではありません。制止はしているんでしょうが、撮影に思いが囚われて、全く聞く耳を持たないというような状況なんでしょう。

 自我は、ただまっしぐらに、撮ることだけに集中。この機会を逃せば、一ヶ月後になってしまうと。ヒョッとすると魔に取り憑かれていたのかもしれません。

 帰宅後、夜に反省をしても、心が高ぶり、自我の主張の声だけが大きく、反省になりません。自制が効かないということはこういうことなんでしょう。

 どんなデータが取れているかが分からない状況で、翌朝、善我が、「まだ、データを捨てることは出来るぞ」と、囁きます。自我は頑として首を縦に振りません。

 こんな場合、一夜明けて冷静になった状態では普通、善我が勝つものですが、どうしたことなんでしょう!

 安易な方向に流されてしまっているということでしょう。まだ、魔が取り憑いたままなのかもしれません。

 自我が、こんなチャンスはもう得られない、何としても守らなければならないと思っているようであります。子供が大事な大事なおもちゃを取り上げられるのに、必死に抵抗しているような感じであります。

動画の映り具合

 メガネ型カメラで撮影した動画をパソコンに取り込んで再生してみました。

 残念ながらというか、それで良かったというか、文字を読み取ることは全く出来ない程度のカメラの解像度でありました(表題の大きな文字は読めるが、本文の文字は読めない)。

 「こんなことはやめろ!」ということなんだろうと、心に言い聞かせました。残念という思いと、これで良かったという安堵の思いが交錯しているようであります。

 しかし、隠れて動画を撮影したという事実は消えません。善我を無視して愚行を行ったという事実は消えません。善我に対抗した偽我が打ち勝ってしまったという事実は消えません。法から外れた思い・行いをしたという事実は消えません。

 どう反省していくべきか?

反省と今後の向き方

 今までも何度か、改めようと決心しながらも、自我に押し切られてしまう悪しき思い・行いを、試行錯誤を繰り返しながらも、何とか克服してきたと思っていました。

 しかし、一つの事象に対して自我に打ち克ったとしても、他の事象・・・ちょっとした応用問題になると打ち克てないものもあるのだと、我が性(サガ)の哀れさを実感しました。

 今回は、この撮影を通して、自分のためだけではなく、それを自分が習得することによって、広く他の人の役にも立つという自我の勝手な思いがあったため、それを是認してしまう、まさしく甘えの思いがあったのでしょう。

 この甘えを許してはならない。消し去らなければなりません。

 一つの例として、私は少なくとも、「この施設にご用のない方の駐車はご遠慮下さい」等と書かれている無料駐車場には、そこに用事がない限り一切、駐車しないことにしています(他に方法がなく、万、やむを得ず止めさせていただくことは、希にあります)。

 当然の如く、以前は平然と、そのような場所に駐車していました。「仕方がないやん」とつぶやきながら。

 しかし、これは正しいことではない、我が善なる心を汚す自己保存の類であると心に落とし込んでからは、他の有料駐車場を使うか、電車などを利用するか、そこには駐車しない方法を採用しておりました。

 人からはバカ正直と言われたり、そこまでしないで良いのではと言われたりもしましたが、このことは厳格に守っていたのに、何故に、今回のことはルールが守れなかったのであろうか?

 お金でありましょう。

 駐車場は、高くても1,000円程度のところを探しているし、近傍の駐車料金が高ければ、電車で行くというような方法もあります。

 今回は、一冊だけでも一万円。5~6冊以上欲しいので、5~6万円以上になってしまう。このお金の誘惑に打ち克てなかったのでありましょう。

 家族なんかに対しては、外食で一回に数万使うことなどはあまり気にしないにもかかわらず、自分一人のことになると、途端に勿体ないと思ってしまう。姑息なことを考えてしまう。

 小さな金額のものであれば善我に従った判断が出来ていても、金額が大きくなったりするような応用問題では、もう翻弄されてしまう。物に翻弄される、お金に翻弄される、哀れな姿であると言わざるを得ません。

 自分で自由になると思っている心が、否、自由にならなければならない心が、簡単にお金や物に翻弄される・・・やはり哀れという言葉しか見つかりません。

 しかし、この一つの事象だけでなく、明らかに善我が否と言っていることに対しては、自我の思いを拒否する、善我の主張する道を敢然と進むということを、自己の内に打ち立てなければなりません。

自我の抵抗はやまない

 撮ってきた動画は、文字は読めないながらも、表題の大きな文字はそれなりに読めます。写真や絵も、何を言わんとしているかは、それとなく分かります。

 そこから拾い集めることが出来る情報は、全体の一割であろうと、5%であろうと有効活用すべきだと、自我は主張します。

 自我の主張には、凄まじいものがあります。

 もし、心ならずも盗んでしまった物がお金であれば、返せば良い。
 盗んだのが自分だと知られるのが嫌なら、そっと返せば良い。
 それが少なくともお金を生かすことであろう。お金をドブやゴミ箱に捨てることがお金を生かすことではない、と。

 しかし、このビデオは、返しても意味がないものである。捨てることも可能だが、折角ある資産を有効活用した方が良いのではないのか?と、自我は主張します。

 例えば心ならずも生の肉を盗んでしまったとしよう。
 これは返すに返せない。
 タイミングによっては腐ってしまうし、返したところで、返された人が食べてくれるとは思えない。
 これを捨てるということは、肉を生かすということには繋がらない。

 心ならずも盗んでしまって反省もし、二度と繰り返さないと決心しても、この肉を有効に活用することが、肉を生かすことにもなるのではないのか? それには自分が食べる以外にないだろう。

 それと同じく、このビデオを捨てるということは、折角ある資産を捨て去るということであり、それを有効活用することによって、沢山の人の役に立つのではないのか、と迫ってきます。

 肉とビデオでは持っている意味合いが違うと、それとなく分かってはいても、そして例え肉であっても、それを自分が食べるという、この主張は何かおかしいと思えても、自我の主張にはそれなりの迫力もあります。

法に従うということは・・・

 法から外れていると、心の奥底では分かっていても、「どのように?」ということが即座に理解できない。また、外れていると分かっていても、煩悩いっぱいの自我に押し切られてしまう。ここを乗り越えなければいけないんでしょう。

 判断に迷いがあるときは、高橋信次先生のご著書に縋るしかないのですが、縋るということはまだまだ、ご著書の言葉が心に落ちていないということでありましょう。落ちていれば、迷うことなく、即断できることでしょう。

 「人生の正しい歩み方(あゆみ)」という1000ページを超える雑誌を作成しています。高橋信次先生のご著書を初め、丸山先生のお導きなどを項目毎に整理したものであります。

 その中の、『正法とは』の中の「正しいとは」の項目を拝読させていただき、次のようにお教え下さっているところを見つけました。

 『マホメットという人は、一方において平和を唱え、一方において武力を行使しました。が、これは自己矛盾もはなはだしいといわねばなりません。
 ・・・目的が平和ならば手段もまた平和でなければならない、ということがわかると思います』

 片方で不正に入手したもので、一方で自分を、ましてや人さまを幸福になど出来るものではありません。目的が心の安らぎであるなら、手段も正しい心安らぐモノでないといけません。

 人さまの幸福を願うなら、自分の心が幸福に満たされないといけません。少なくとも心が善か悪かと揺れているようでは、安らぎ、幸福からは程遠いものでありましょう。

 その昔、金持ちから盗んだお金を貧しい町民にばらまいた義賊がもてはやされたようですが、これはやはり、法を知らない人と言うべきでありましょう。

 高橋信次先生は、この私の自我の思いがことごとく、法から外れていることをお教え下さっています。

 また、天上の光の天使も、次のようにお教え下さっています(『天上からいただいたお言葉』P7-「2002-10/25」参照)。

 『もし皆様が今世でこの肉体を卒業したいと思うのであれば、自分が甘えている部分は断ち切らなければ、とうてい光に還ることは出来ません。
 これはちょっとやめることは難しいとか、あれくらいはまあいいだろうと引っ張っている内は、なかなか断ち切ることは出来ません。
 本当に今世で肉体を卒業したいと思うのなら、その甘えの部分を断ち切るべきですね。
 しかし来世でも、その次の生でもいいと思っているのなら、それはそれで、皆さんが決める世界ですからね』

 私は今世で肉体を卒業したいと思っていても、この程度の精進でそれが為せるとは到底思えないのですが、せめて気づいたことぐらいは実践する、その目標に一心に向かう、そういう自分でありたいとは思っております。

 私はやっとの思いで、この動画を、パソコンのゴミ箱に入れて、「完全消去」のボタンをクリックしました。

これからの精進の方向

 さて、これからの実践を、どのように方向付けるか?

 私はかなり以前から、「日々の実践項目」という文章を作って、一日の始まりに読み上げ、心に刻んでいます。このお陰で、なかなか断ち切れなかったカルマ的な悪癖を絶ちきることが出来たモノもあります。

 この中の一項に、この反省でお教え頂いたこれからの精進の具体的な事柄を入れ込み、二度と再び、同じ過ちを犯さないよう、毎朝、心に刻むこととしました。

 『自分の心に嘘をつかない生き方をし、人さまに見られて恥ずかしくない自分、天上の皆さまに見られて恥ずかしくない自分、全てにオープンな自分であるように努力致します。
 そして、我が善なる心が疑問を呈する事柄については、勇気を持って、英断を持って、その思い・行いを排除します。
 『まあ、いいか』『しゃあないな(仕方がないな)』という言い訳を完全に排除致します』

 今回は、正命ということについて書こうと思ったのですが、正命という言葉の持つ意味は、「自分の善なる心に従って、正しく生きる」ということに尽きるのでしょうが、『正思・正しく思う』とは切っても切れない関係があることも又、実感させていただきました。

 最後に再度、高橋信次先生のお言葉を記させていただきます。

 『私達の心には、常に善と悪が同居しており、利己的な己の中の悪に打ち克つ生活が、私達の人生における修行の一つといえるのである』

 何時までもこの「善と悪が同居している」というお言葉に甘えることなく、最低限、善なる心が良しとしない事柄は、一も二もなく当たり前のように排除することが出来るよう、そして善に比べて悪の占める割合がどんどん小さくなるように精進したいと思わせて頂きました。



 お導き、心から感謝申し上げます。





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