高橋信次先生が6回の年頭所感で一貫して仰りたかったことは、「自己の確立をせよ」ということである

はじめに

 高橋信次先生は、GLA誌に於いて、1971年から1976年の6回、年頭所感を書いておられます。

 年頭所感でありますから、高橋信次先生が仰りたいことが凝縮されて、そこには書かれているのではないかと思っております。

 では、その6回の年頭所感には、どのようなことが書かれているのか、全文は本ブログの最後に掲載しておりますが、取り敢えずは、そのエッセンスだけを拾い上げてみたいと思います。

 筆者の感覚で抜粋しておりますことをご容赦くださいますよう、お願い致します。

高橋信次先生の年頭所感のエッセンス抜粋

・1971年1月:

 今年は一人でも多くの人々に、神理の道を教えて、不退転の基礎を築きあげよう。あらゆる困難を打破して、迷える人々の心に明るい神仏の光を、慈悲深く与えよう。

 →→→初年度の年頭所感は、迷える人々に神理の道を教え、基礎を築こうと仰っておられます。


・1972年1月:

 新年は・・・GLAの基礎と正法流布に勇気を持って、これが実践に努力する決心である。各位の奮起を促したい。

 →→→1972年度の年頭所感もやはり、正法流布の実践を自分もやるが、各位も奮起して欲しいと仰っておられます。


・1973年1月:

 今年は・・・第二の基礎づくり、躍進への地固めの年であり・・・自己の確立である。

 →→→1973の年頭所感は、昨年、一昨年と正法流布によるGLAの基礎作りをしてきたが、今年は第二の基礎づくりであり、自己の確立を目指して欲しいと仰っておられます。


・1974年1月:

 会員各位におかれては、まず、自分自身を作るということが大事である。昨年は自分をつくる年であった。しかし今年も自分をつくる年といえる。

 →→→昨年は自己確立、即ち自己を作るという年であったが、今年も自己を作る、自己確立が大事と仰っておられます。


・1975年1月:

 今年は知識を智慧に変える実践に努力して欲しい。

 →→→今年度の年頭所感は、「知識を智慧に変える実践」と仰られ、少し風向きが変わったのかという風に思われるかもしれませんが、この言葉に至る前に、「私たちが正法を(知識)で理解したならば、・・・心と行いで実践することだ」と書いておられます。即ち、自己を作ることを通じて、知識を智慧に変える実践をして欲しいと仰っておられます。


・1976年1月:

 昨年もそうであったように、今年もまた自己の確立ということが望まれる。

 →→→昨年は、「知識を智慧に変える実践をして欲しい」と書かれましたが、その意図するところは自己確立であると仰られ、そして今年もまた、自己確立を望んでおられます。

高橋信次先生が6年を通じて仰りたかったことは何か?

 最初の二年間は、人々に神理の道をお教えしよう、正法流布によってGLAの基礎づくりをしようと仰っておられます。

 ところが三年目からは、表現の仕方は微妙に異なっていますが、一貫して仰っておられることは、「自己を作りなさい」「自己確立をしなさい」ということであります。

 高橋信次先生の元に馳せ参じた人々は、私ども俗人と異なり、モーゼ様に従い、お釈迦様のお弟子になり、イエス様と行動を共にされたような、過去世に於いて既に心の窓を開かれた方々が多くおられたとお聞きしています。

 然るに、このような方々を以てしても、『自己確立』ということは、なかなかに難しい事柄であったのでしょうか、高橋信次先生が最後まで叫ばれたことは、「自己を作れ」「自己確立をしなさい」ということであったようであります。

 更に、『光の器を』というご文章があります。これは、高橋信次先生が1976年6月ご昇天された後の、9月号のGLA誌に掲載されたものでありますが、高橋信次先生がご昇天されてからの通信として公式に残されている唯一のものでありましょう。

 そのご昇天後の通信にも何と、『いま、そなたらに伝えたいことは、法の原点に戻り、自己をつくれということである』と、お示しいただいております。

 私ごときが高橋信次先生のお言葉や思いを総括するのは、僭越の極みではありますが、敢えて自分の心にも、そしてお読みくださる皆さんにもお伝えしたいことは、『正法の原点は、一にも二にも、自己確立である。これに邁進せよ』と仰っておられるのであると思わせていただきました。

 そして自己確立の第一歩は、高橋信次先生のご著書の日々の拝読であり、そしてそれに基づいた実践の積み重ねであることを、新年にあたり、自身の心に刻みつけたいと思わせて頂きました。

 以下に、高橋信次先生の6年分の年頭所感を掲載させていただきます。



【年頭所感】(1971年1月号~76年1月号G・L・A誌掲載)

(注:「GLA誌」は1971年2月号以降であり、1971年1月号までは「ひかり誌」とされていたそうです)


・1971-1月号 人々の心に神仏の光を

 新春は再来し、心また新たなり、万人が不退転の神理を悟り、己の心の中に神理実践の大殿堂を築こう。その時にこそ、何者も崩すことの出来ない、神理に適った人々の心の調和のとれた、集団が築かれて行くのである。

 すべての生活に最大限の努力をして、己自身に足ることを悟り、自発的なしかも積極的な行為が、調和のとれた安らぎの環境を形成して行くものである。

 釈迦、イエスの当時の教えに帰ろうと、実践活動に入ってから、自然発生した神光会も二年目を迎え、今年より「神理の会」として通称「G・L・A」と呼び、海外にも神理の種を蒔くまでに成長した。

 人類はみな兄弟であり、私達の縁生の舟即ち肉体の色や種族は土地風土に適応したように、神仏の慈悲によって造られたものであり、人種差別は神意に反していることを悟らなくてはならない。 

 肉体の船頭さんである意識はみな、神の子として万物の霊長なのである。神仏の子として肉体を持っている全人類は同志であり、多くの人々は道が分からないために、迷える子となってしまったのである。慈悲と愛に満ちた、神理の光を人々の心にふりそそごう。

 国境も人類的差別も人の智であり、本来は一つの神体の一部である。また神仏の子供なのである。世界の人類が一つの心になって手をつなぐ道は只一つ、神意に適う実生活以外にないのである。

 私達は神理の会を中心にして、この使命を遂行しよう。それには忍耐と最大限の努力が必要である。

 時間をかけてあせらずに、一歩一歩の基礎をかためて行かなくては出来ない。

 果物にも実があり、太陽系も九惑星の中心に太陽という核を中心として運動している。

 原子もまた原子核を中心に運動を続けている。

 神理の核もまたG・L・Aを中心として各地に核分裂を起こさなくてはならない。しかも霊道がひらき、調和と安らぎの霊的神理の種は、イエス様の時代から、未だない現象となって我々の核と ともに各地に分裂が行われている。

 この種を絶やしてはならない。

 私達は神理の種蒔を約束した使徒であることを忘れてはならない。

 類は類を呼ぶ。法則に従って、光の天使の意志によって私達は集まって来たのである。更にその使命を持った人々もあらゆる所から参加して来るであろう。

 そのためには、縦横からなる完全な人々の心の調和によるつながりをつくらなくてはならない。

 縦横の交差点こそ神理の会、核分裂の中心でなくてはならない。この要になる使徒達は、神理の不退転を悟り、実生活の中に溶け込んだ実践家でなくてはならないのである。

 なぜならば、実践生活に応用されないものはもはや架空の空論にしか過ぎないことを悟らなくてはならない。

 絵に書いた、おいしそうな林檎では、口に入れることも出来ないのと同じである。

 神理は実生活に生かしてこそ平和と安らぎの心の糧となることを悟らなくてはならない。

 即ち心と行いの調和こそ、人類に課せられた神意であることを悟ったなら、実践第一と己の心に銘記しなくてはならないのである。

 現代社会に足らぬ物は、心の不在であり、心の不在が、両極端の思想を生み出したのである。

 人類の永い歴史が仏教やキリスト教の神理に厚いほこりを積もらしてしまったのである。智と意による、心を失った人々によってそれは、作り出された厚い「ほこり」なのである。このほこりを、払いのける仕事も、なかなか大変なことであり、忍耐と努力によって神理の光を己の心として、世の人々の心に問わなくてはならない。犠牲を恐れず勇気をふるって、多くの荒れ果てている心の耕地に神理の種を蒔きつづけよう。なぜならば、肉体を持って生活している人々は、神の子として、八正道の実践、中道の神理は、己を語る当然の修行なのである。そして人々の心の苦しみを取り除いてやることだ。

 会員は正法流布の先陣をきって、使徒たる自覚の中により己の魂を浄化し、菩薩心を具現することが重要なのである。

 菩薩心は返礼を求めない。

 しかし慈悲と愛に対する報恩の心を実践しない人々は、口先の感謝で終わってしまえば結果が出ても必ず不調和の訪れて来ることを悟らなくてはならない。

 与えられた慈悲と愛によって出た良い結果に対して、報恩の布施は、より己の調和につながって行くものなのである。

 生命の環境も、水の循環、報恩と感謝の循環も神理なのである。今年は一人でも多くの人々に、神理の道を教えて、不退転の基礎を築きあげよう。あらゆる困難を打破して、迷える人々の心に明るい神仏の光を、慈悲深く与えよう。

 小さな種も、いつの日か地球上を覆うことが出来よう。

 そして前進の中にも一歩さがって反省し己に厳しく、他人に寛容の心を持って神理の殿堂を築いて行こう。


・1972-1 月号 発展と基礎の年

 明けましておめでとう。

 年あらたまり、清新の気、みなぎるを覚える。

 GLAが発足して、早や三年を迎えることになった。月日の経つのは速いものである。発足当時は僅か十数名の有志だったが、今では、五万余の会員を有するまでになった。これも、会員各位の日頃の努力と献身の賜であり、感謝に堪えない。

 昨年は、東大阪市に本部を持つ瑞法会が、中谷知敬会長をはじめ幹部の方々の英断と総意によって、正法に帰依された。まことに喜ばしき限りである。関西の皆さんは等しく熱心な方々ばかり。 

 正法のひろがりは、関西を中心として左右にのびる勢いをおぼえる。それにしても正法は、まず太平洋岸にそって縦断し、やがて中央部に、日本海沿岸にのびてゆくのであろう。それにしても、瑞法会皆さんの正法帰依は、インドの時代を彷彿とさせるものがある。インドの時も大小様々な教団が乱立し、主義主張を押し出し、競い合っていた。しかしそれらの教団は、やがて時とともに正法に帰依していった。真実の幸せを求める者は結局において、正法に帰依するしかないからである。正法は、大自然の法にもとづいている。大自然がかわらないように正法も永遠にかわらないのである。知と意で組み立てられた今日の仏教解釈は、インド時代に説いた正法とは、大分かけ離れてしまったのである。これでは人間の心は開放されない。そこで私は、まず、インド時代の正法に帰れといいたいのである。

 今後、GLAの正法は、ますますひろがりをみせてくるだろう。社会の注目を集めよう。そうした場合、現在のGLAは、その基礎をより強化しておかなくてはならない。今年は、将来に備えたGLAの基礎と発展を生む年となろう。

 ここで大事なことは、GLAの組織は正法流布の母胎であるということである。人間はややもすると、組織に翻弄される。組織が大きくなればなるほど、組織が人を動かし、組織の中に人間は埋没する。これではいけない。GLAの組織はより多くの人々に、その毎日の生活を通じて、正法を活かしてもらうということが第一の目的である。組織のための正法ではない。正法流布のために組織があるのである。この点を間違えると、既成の団体と少しもかわらなくなってしまう。

 イエスも釈迦も、いたずらに人を威圧するような殿堂はつくらなかった。あるものを活用すれば足りるのである。

 新年はこのことを胸におさめ、GLAの基礎と正法流布に勇気を持って、これが実践に努力する決心である。各位の奮起を促したい。


・1973-1月号 躍進への地固め

 新しい年がまたやって来た。自然の循環は私達人間に対して、その秩序だった正法を、一年というサイクルを通して教えてくれている。春夏秋冬の移り変わりをどのように受け止めて迎えているか、それは各人の自由であるが、少なくとも正法を学び行ずる者にとっては、新年は、神の偉大な慈悲の表われであり、新たな勇気を持って、調和という目標に向って応えて行くことが大事であろう。

 GLAは今年で四年目を迎える。この四年間に、関東をはじめ、関西、四国、九州、東北と主として表日本に正法流布の拠点が生まれ、会員も数万を数えるまでになった。正法の行く手は、日本を中心に全世界に波紋となって伝播してゆくであろうが、正法の基本は、質と量の色心不二の豊かな人間と人間関係を確立することにあり、そのためには、まず以って質の向上を図らなければならない。今年はいわば、そのための第二の基礎づくり、躍進への地固めの年であり、各位の奮起を、いっそう望みたい。

 質の向上とは何かといえば、自己の確立である。一人一人が神の子としての自覚を持って、八正道を業じていくことである。業ずることは誰のためでもない、皆自分自身のためである。心の平安は相対の世界に自分を置いていては何時まで経っても得られるものではない。八正道は自我の自分を離れた想念と行為を行ずるところにあるからであり、それは第三者の立場で、ものを見、ものを思うことであって、そうしてそうした想念行為が、やがては己の心を広くし、向上させ、豊かな人間性をつくり出す下地となって行くのである。

 GLAは今年の後半から来年にかけて、飛躍の動因をはらんで行くであろう。正法に帰依するものが想像を越えて増えて行くであろう。そうした場合に、現在の状態で、これに対処してゆくことは容易でない。新しい人達を迎えるためには、古い人達が、正法にもとづいた生活行為を為していなければ教導することができないではないか。人を納得させるには十の言葉より一つの行ないである。それも無理にそうするのではなく、自然に行なえるような自分自身にならなければ本物ではない。自分が正法を理解し、行ずるならば、人はこれをみて見習うであろう。正法は自我の自分を変えると同時に、環境をもかえずにはおかないものだからである。

 新年は、GLAの気根を整える事である。躍進への地固めの年であって、各自の自覚と勇気を求めたいのである。

 自分を高めたい、安心した生活を送りたい、真実が知りたい、人と調和したいと思うならば、八正道を行じて欲しい。正法は、神の子の自覚にもとづいた自力であることを、あらためて強調したい。


・1974-1月号 自分をつくる

 新しい年を迎え、会員各位においては心新たなものがあろうと思う。

 今年は我が国経済社会にとって、一つの試練の年に当たろう。広げすぎた高度経済成長も縮少均衡に戻さねばなるまい。作用反作用はその振幅が大きいほど大きく揺れ動く。自己保存と足ることを知らぬ欲望の反作用は現実の経済の動きをみるといちばん良く理解できる。

 会員各位におかれては、まず、自分自身を作るということが大事である。昨年は自分をつくる年であった。しかし今年も自分をつくる年といえる。ビル一つ建てるにも基礎がしっかりしていないと少しの地震にも倒れてしまう。何をするのも基礎が大事であり、自分の心が不動のものとなれば、どんな事態がおこって来てもハネ返してしまう。しかし、心が出来ていないと、人の噂や変わった話を耳にすると、心がゆらぎ自分を失う。

 本来の自分自身は神の子の神性の自分である。慈悲と愛の心を持った自分自身である。そうして神性の自分を確認するする物差しが八正道であり、心に法灯をともし、調和の輪を広げていくのは、神の子の当然の義務であり、責任なのだ。

 私達があの世からこの世に出生してくる時は誰彼の差別なく、今度はこの点を修正し、人びとと手をとり合って生きていこうといって出てくる。しかし、肉体をまとい、環境や因習になれてくると、出生前の約束を忘れ、五官六根を中心とした自我欲望にほんろうされてしまう。

 地上界はもともと不安定な物質界であり、心と物の関係が容易につかめないし、心の本質も理解出来にくいので、どうしても物質中心の考え方に傾いてしまう。しかしこれでは折角の修行の目的が失われる。 自分自身を失ってしまう。

 八正道という心の法灯が存在し、大宇宙は中道の道を歩むことによって安定しているのだから、私達も、八正道の中道を軸に、毎日の生活を送るようにしなければならない。

 今年一年、私達はしっかりと己をつくり、来たるべき年には外に向かって多くの人びとを救っていかなければならない。それが先達といわれる現在の人びとである。

 今年は不況下のインフレであり、こうした経済事情はどうして生じたかを、静かに眺めるよき機会ともいえる。

 心の偉大さは時と共に明らかとなろう。今年こそ、自分をつくって欲しい。


・1975-1月号 知識と智慧

 新しい年が再びめぐってきた。新年を迎えると誰しも新春にふさわしい気概に心が引きしまるものだ。少なくとも、正法を信じ、正法こそ人間の生き方と思い至れば、自己の向上を願うのは当然のことであるからだ。

 そこで皆さんに希望したいことは、今年はこれまで得た知識を智慧に変えて欲しいということである。知識が知識のままでは何の意味も持たない。知識が智慧に変わってこそ、正法が身についたといえる。

 いったい智慧とは何かというと、物事を正しく処理する能力をいう。普通は正しく処理する能力に欠けるために、迷いや、苦しみがおこってくる。私たちの周囲は時々刻々変化してやまない。歴史は繰り返すというが、今日は昨日の延長ではないために、新しい事象に右往左往してしまう。正しき智慧が働けば、猫の目のように変わる世事に心を動かすことは少なくなるであろう。

 知識とは文字通り、物事に対する認識である。認識が深まれば物事に対処できると思いがちだが、この認識は思慮分別の認識であり、これでは智慧とはなり得ない。知識が智慧となり得るには、その知識を実際に応用しなければ智慧として身につかない。換言すれば実践によってのみ、知識が智慧に変わってくる。

 ふつう物事を考える、思うことは頭脳で行なう。その考えが四方に及ぶと頭のシンが痛くなり、疲れを覚えよう。ところが、パラミタ(智慧)はそうではない。頭ではなく、腹部のあたりから泉のように湧いてくるものだ。それこそ今生で学ばなかったことでも湧いてくる。昔の人は頭で考えるな、腹で考えよという。いかにも東洋人的な言いまわしだが、智慧というものも、頭でなく腹から浮かんでくるものだ。智慧は知識の範囲をはるかに超えて、それこそ、自由自在である。その応用は多岐にわたり、無限の広さを持っている。百年かかって博学を身につけても智慧にはなり得ない。智慧は心から湧き出ずるものだし、知識は頭で理解するものだからである。

 私たちが正法を(知識)で理解したならば、まず現実の生活にそれを活かしてみることだ。八正道という正法を心と行いで実践することだ。そうすると、知識では割り切れない智慧が浮かんできて、物事を正しく処理できる能力が自然と備わり、迷うことが少なくなってくる。
今年は知識を智慧に変える実践に努力して欲しい。


・1976-1月号 自己の確立を

 人生において何を為すべきか、ということも大事だが、その前に、人生とは何であるか、ということを知る方が人間にとって、より重要なことではないだろうか。

 私たちの住む世界は間違いなく競争社会であり、力の社会である。そこでは常に、若さと、活動とが尊ばれ、常により多くのことを為す事に目標がおかれている。いうなればなんでも世界一であることが自慢であり、強調され、そうしたことに過度の称賛がおくられているのが現代だ。

 しかし、こうした若さが強調される文化は、勝者と敗者という過酷な運命が待っているといえよう。

 人は何時までも若くはない。やがて壮年になり、老年になっていく。老年になり体の自由がきかなくなれば、若さが強調される社会であればあるほど、人は、必ず敗北という憂目をみることになるであろう。

 人生の価値の規準が、何を為すかにウエイトが置かれると、現代のような若者の時代となり、老人をおろそかにする社会が生まれてくる。だが人生を謳歌した若者といえども、やがて次代の若者に同じような仕打ちをうけ悲哀をなめることになるだろう。

 この意味において、人生に何を為すかということより、人生とは何かを知ることの方がより重要であるといえよう。

 また、心の安らぎは、人生とは何か、との問いの中から、そうして、その問いを通じて、己を知ることによって、初めて得られるものであり、為すことのみを追う人生には、安らぎも調和も与えられないことを知る必要があろう。

 己を知るには厳しい自己反省を通してしか道はないだろう。反省を通して己の実相を知り、その実相が理解されれば、より創造的な自己を啓発することが可能であり、愛に生きることの喜びを体験することが出来よう。

 昨年もそうであったように、今年もまた自己の確立ということが望まれる。新年に当たって、私がいいたいことは、一年を通して、常にたゆまざる反省と努力を重ねて欲しいということである。 人間は正しい反省がないかぎり、自己を本当に知ることは出来ないし、安らぎと調和も得られない。果物を沢山実らせた木は風にゆれることがないのと同じように、反省は、パラミタという得難い宝を手にすることであり、ゆるぎない不動心を結実させるものである。

 その意味で今年も昨年にひきつづき、自己をみつめ、調和の自己を確立して欲しい。








シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする