「神を間に置く」ということは、究極の「正見」「正思」「正語」であり、反省の正しい基準でもある

 「神を間に置く」とはどういうことか?

 ある出来事を切っ掛けに、これを見極める衝動にかられ、この「神を間に置く」ということ、が今の自分の進む方向だと心に決めました。

 すると、その決心を後押しするような出来事が次から次へと起こってきました。

誠に自分勝手な、こんな事態を引き起こしてしまいました

 私はあるマンションに住んでおりますが、ある日、約10年に一度のマンションの大規模修繕工事の住民説明会がありました。

 この会はマンションの管理組合主催であり、私は工事に直接たずさわる修繕委員長をやっておりますが、ひな壇には座らないことにしたため、設計会社と管理組合の理事長が説明会での対応をすることになりました。

 十年強前に行われた前回の大規模修繕工事で、不正に近い理不尽なことが行われていたと発言された住民の一人から、「今回も何故、入札をした工事業者名を公表しないのか?」という、質問というよりは怒りに近い発言がなされました。

 この質問に対し、設計会社は、すぐには回答をせず、理事長に顔を向け、理事長から回答するように促しました。

 理事長は激しい言葉に押されてか、「工事業者を公開しても構いませんよ」というような発言をしたので、私は『チョット待って下さい』と言って次のような発言をしました。

 『今回の工事業者選定に当たっては、談合ということを非常に心配し、工事業者同士が、どこのメーカーが入札に参加しているかが分からないように気を遣いました。
 従って、管理組合も関係者以外、工事業者の名前が漏れないように気を遣いました。
 現時点では見積提出も終わったので、今から談合ということは考えにくいかとは思いますが、また、業者名を隠すつもりも毛頭ありませんのですが、出来ればメーカー選定まで、伏せておきたいと思っています。

 ○○さん(設計会社)、それで宜しいですね?』

 設計会社は、「その通りです」と答え、質問者は、それ以上に質問することはありませんでした。

 私は、現時点では入札メーカー名を公表したくないという思いがありましたので、正しい発言をしたと思いながら、説明会は終了しました。

 しかし、その夜の反省前から、心の奥底から突き上げてくる心の声を感じました。「駄目だよ、理事長に対して、大変失礼なことをしたんだよ」と。

 そしてその後、この反省をしている時、「神を間に置く」という言葉が頭に浮かんできました。それをしていないから、こんな失礼なことをしてしまうんだよ、という思いが湧き上がってきました。

 「神を間に置く」とは、どういうことだろう? 丸山弘先生からは何度もお聞きしている言葉なので、何となくは分かっているつもりなんですが、キッチリと心に落ちてはいない感じがしました。

神を(主を)間に置くということは、どういうことか?

 私は早速、丸山弘先生のご文章を引っ張り出しました。

 『・・・神を間に置いて見ますと、・・・嫌な姿はお前にもその様なところがあるんだよというお計らいであり、また、愛に満ちたにこやかな姿を見させていただいた時は、お前もこのような姿になりなさいというお計らいなのです。
 こうして見ていったら非常に的確に自分が見れます。そして、この世は神をすべて間に置いて見ないと物事を正しく見ることが出来ないのです』

 まず私は、「神を間に置く」のではなく、「偉大な主を間に置く」の方が、身近に、現実的に感じられるので、そのように思わせて頂いておりますので、以下、そのように表現させて頂きます。

 私は咄嗟に、これは「ある程度、人間が出来た人」に対する言葉であり、私は、これだけでは駄目だろう。私に対しては、『全ての人に対して、いつ如何なる時も、(神が)主が、その方を通じて話をして下さっており、その方を通じて偉大な主に話をさせて頂くのである』ということでなければいけないと思わせて頂きました。

 そういう観点に立ちますと、理事長席に座っておられるのが偉大な主・高橋信次先生であったとしたら、『理事長、一言発言させて頂いて宜しいでしょうか?』と、断ってから発言するのがスジであろうし、そうでなければならないと思わせて頂きました。

 そして、このこと、即ち高橋信次先生を間に置く、高橋信次先生が話をしておられる、高橋信次先生がお聞きになっておられるという思いで、これからの日々の生活を実践していかなければならないと思わせて頂きました。

 天の采配でしょう、この日を境に、神を、主を間に置いて見ないといけないと思えるような出来事が、次から次へと起こって参りました。

身近な諸々の出来事で、(神を)主を間に置いて見たらどうなるのか?

1.あるネットフリマでの出来事

 分解して他の用途に使いたいという目的で、中古のテレビ台を買いたくなったので、近所で直接引き取りが可能で、手頃な安い金額だったので、ネットフリマでの購入を決めました。

 引き取りの日時や条件を決めていくうちに、どうも引取先のマンションの前には車を停めることが出来ないようで、すぐ隣の時間貸しパーキングに停めるように連絡がありました。

 仕方がないとは思いながらも、これなら、購入金額に駐車料金を上乗せしなければおかしいではないかと、自分勝手なことを思いながら、引き取り当日はパーキングに停め、商品の引き取りを無事終えました。

 その日の夜の反省で、あの人がもし、高橋信次先生であったなら、私はどう思うのであろうか、という思いが湧いてきました。

 ここで私は、過去に公開していたブログでの記事を思い出しました。2014年末に起こった、インドネシアでの航空機事故のことであります。

 このブログの内容は、搭乗予約をしていた飛行機に乗らなかったために事故に遭遇しなかったという、明らかに神からお救いを受けられた方々の話で、非常に興味深いものなので、興味のある方は、参照(http://huuhu-no-tyouwa-to-kosodate.link/wp-admin/post.php?post=1651&action=edit)してみて下さい
(このブログは現在閉鎖をしており、当該記事だけをこのブログで見られるようにしました)。

 テレビ台は想像していた通り、一人では持ち運びできない大きさ・重さであり、台車を持って行ったので、やっと車に積み込みましたが、マンション前の狭い路上でこの作業をやっていたら、通過する車に焦ってしまったりして、自車を傷つけてしまったり、思わぬトラブルに巻き込まれてしまったかも知れません。

 この取引相手のサゼッションこそ、高橋信次先生の「そうしないとトラブルが起こってしまうよ」という、お導きなんだろうと思わせて頂きました。

 自分中心の思いではなく、偉大な主を間に置いて見る、思うということが如何に大切か、最初から高橋信次先生を間に置いて見ていたら、愚痴めいた悪心を起こすこともなく、毒を食べることもなかったのだと思わせて頂き、高橋信次先生と、この取引先の方に、心からの感謝を捧げさせて頂きました。


2.息子と一緒に、ある人を駅に迎えに行った時のこと

 ある日、家の近くの駅まで、息子と一緒に車で人を迎えに行きました。

 駅前に特別には駐車スペースはありませんが、ロータリーになっており、数台の車が停まっていましたので、先頭の車のその前に停めることにしました。

 「後の車、出られるかな?」と言うと、息子が『(その車が)バックしたら出られるから大丈夫やろ』と言いました。

 息子は時刻表を見るために、車を降りて、駅の改札口の方に歩いていきました。

 暫くすると、クラクションが聞こえます。

 どの車かなと後ろを振り返っても、判断がつきませんでした。

 とその時、息子が、『チョット、前に出て』と言ってきました。

 後の車が出にくいんだなと気がつき、少し前進しました。

 前進してきた後の車が私の車の横に停め、『出られないやないか!』と、文句を言ってきました。

 私は余り意味もよく分からないままに、「申し訳ありません」と答えていました。

 その横で息子が、『もうええから、早よ行き』と言って、邪魔者を追い払うように手先を振っていました。

 息子は恐らく、『後にバックしたら何の問題もないのに、何をイチャモンつけているんや。もうええやろ』というような思いで言ったのでしょう。

 この言葉、態度に、この車の主はまた怒りが込み上げてきたようで、『なんや、その態度は!』というようなことを言ってきました。

 私は息子を制して、「申し訳ありませんでした」と謝って、何とか前に進んで貰いました。

 息子は迎え人の到着まで少し時間があったので、隣のスーパーに買い物に行きました。

 と、その時、当該の車は出発してもう居ないと思いきや、バックしてきて、私の車の前にピタリとつけて停車しました。

 暫くは、どうしたんだろうと思っておりましたが、やっと、「あゝ、怒りが収まらなくて、私と同じように、車を目の前に停めたんだな」と気がつきました。

 この方の対応(自分がされたことをやり返す)も凄いものだと思いましたが、私は車を降りて前車の運転席に行き、「申し訳ありませんでした」と謝りました。

 運転手は、『あの態度はないで!』と言ったので、「仰る通りだと思います。申し訳ありませんでした」と言うと、やっと怒りが収まったのか、車を発進して、恐らく家に帰っていきました。

 私は咄嗟に、息子に注意をしなければいけないと思いましたが、全く同時に、息子が高橋信次先生なのではないのか、とも思いました。

 こう思うと、もう息子は高橋信次先生でしかありません。注意をするどころか、高橋信次先生は、『どうかしましたか? 何か学ばれましたか?』と、お聞きになっているように思えました。

 息子のあのような態度は、昔の私の態度そのものでありました。恐らく今は、そのような態度こそ取らないものの、そのような思いは厳として残っていることを実感しました。

 この出来事を他山の石としないで、自身の反省をキチンとしなければならないと思わせて頂きました。

 息子の取った態度は、高橋信次先生が、息子を通じて演じて下さったのかもしれない、私に、「神を間に置く」ということを思い起こさせるための、演技だったのかもしれないと思わせて頂きました。

 そして同時に、息子であろうと何方であろうと、注意をするということは、相手が意見を求めてきた時に行うことであって、そのときは相手が嫌がることであったとしても、自分の感ずるままを伝えるべきでありましょうが、相手が求めもしないのに、自分が相手の上に立って意見を言う、注意をするということは、厳に戒めなければならないと思わせて頂きました。


3.居酒屋の予約

 妻の誕生日が近づいてきたある日に、ある居酒屋で食事をしようと、ちょうど二人用のテーブル席が空いているということだったので、ネットでテーブル席の予約を入れました。

 ところが翌日、その居酒屋から電話があり、テーブル席が満員で、カウンター席しか空いていないと、断りの電話がありました。

 当然予約時には、ネットの案内を見る限りは空席になっていたが故に申し込んだのですが、妻と相談の結果、その店での食事は諦めることにしました。

 妻の誕生日の食事は、別の所で行ったのですが、私は妻に、『こんな食事処だよ』と、ネットで調べた情報をA4紙に印刷をして、渡していたものですから、妻からは後日、「あの店にも一度、行ってみたい」という言葉が発せられました。

 妻がそう思っているのであれば、再度予約して訪れてみようと思いました。

 前回の予約は土曜日の夜だったので、予約が集中したのかも知れないと思っていましたので、今回は平日の予約をしてみました。

 翌日、その店からまた電話がかかってきましたが、私が携帯を持っていなかったタイミングだったので、その店からの電話があったことだけが分かりました。

 私は悪い予感がしました。また、カウンター席しかないと言われるのではないか、と。

 私はその店から再度の電話がかかってくるのを待ちました。

 更に翌日、電話がかかってきました。『有り難うございます。この電話で予約完了です。当日、お待ちしています』と。

 拍子抜けしたような電話でした。私はまた反省せざるを得ませんでした。

 最初の電話の時、この店の店員からの電話だろうと思っていましたが、もし、高橋信次先生からの電話であったとしたら、どう思ったであろうか?

 またカウンター席と言われるのではないかと思ったであろうか? いや、そう思ったとしても、この店に対して感じた嫌な感情を味わったであろうか?

 「またカウンターかも知れない。まあ、それはそれで良いか。どんな店か、体験するのが目的だからな」という位の思いであって、恐らく心が揺れることは無かったであろうと思えました。

 あの店の店員だと、人を見てしまう、下に見てしまう、その人の奥にいらっしゃる高橋信次先生を見ることが出来ず、自己中心の思いで見る、思うことをしてしまう、本来ない毒まで食べてしまう、今まで通りの自分の姿がそこにありました。

 例え否定的なこと(テーブル席が満席)を言われたとしても、ただ、『そうなんだ』と思うだけで良いのである。それから、じゃあ、どうしようかと考えれば良いのである。怒りや批判的な思いを持つ必要など、どこにもないのである。

 高橋信次先生を、その方の奥に見ていたら、そういう見方が出来るのである。

 この方の対応があったからこそ、自分の心の奥に眠っている否定的な思いを見つけることが出来、そのような思いを無くそうと努力できるのだと思わせて頂きました。

 一つずつ、一つずつ、反省を重ねながら、目の前の人と同時に、高橋信次先生を感じられる自分に近づいていきたいと思わせて頂きました。


4.息子と車に乗っているときの会話

 ある日、息子家族を家に送る時に、チョット道を間違えて、いつもと違う道を通って高速に上がろうとした時のことであります。

 最近、私は体力的なこともあって、基本的に、妻以外の人さまを乗せて高速は走らないことを決めております。

 この時も息子が運転しているのですが、通ろうとした道が細いので余り好きではなく、特に軽自動車を普通自動車に買い変えてからは、走らないことにしていましが、今日は息子がチョット道を勘違いしたために、この道を走ることになってしまいました。

 この細い道は、対向車があると、すれ違いに待機しなければいけないような道ですが、チョット入ると広い道に抜ける道があるので、その道を通って欲しいと思って、『次の角を左に曲がってくれへん?』と言いました。

 息子は、「俺の力量に任せたら良いのんと違うの?」と言ったが、私は細い道を延々と進む(抜け道までの距離の5倍ぐらい、全長で500m程度)のが嫌で、『そうやけど、次、曲がってや』と言いました。

 息子は、「おやじは、兄貴と一緒で、自分の思いをごり押しするんやな」と言いながら左折をしてくれました。

 私は、『ちゃんと、曲がってくれへん?と頼んだやろ』と言ったが、息子は、「自分の思いを押しつけてるだけや」と言ったので、それからは二人とも押し黙ってしまいました。

 数日後に思い出して書いているので、一言一句この言葉遣いをしたというよりは、イメージだけしか合っていないかも知れないし、イメージすらも、この通りであったか否かは確信が持てないのですが、私はこの出来事を思い出す度に、ひどく落ち込んでしまいました。

 息子が言うほど、自分の意見を押しつけているつもりなど、更々なかったからであります。

 しかし、人さまにそのような印象を与えるということ自体、自分の感覚がおかしいと思う方が健全であろうし、そう思うことこそが法に適った思いでありましょう。

 ここで、やっと、高橋信次先生を間に置いていないということに気がつきました。

 もし高橋信次先生から同じことを言われていたとしたら、『あゝ、そうですか。全然そんな風には思っていなかったのですが、自己中心であることが自覚できていなかったんでしょうね。
 運転をお任せしたら、全てをお任せするのがスジですよ、ね。申し訳ありませんでした。今後、気をつけさせて頂きます』という感じの言葉を発していたことでしょう。

 恐らく、息子であるという思いが、言葉遣いこそある程度大人扱いはしていても、自分の意見は聞くべきだというような、高圧的な思いが言葉に表れていたんでありましょう。

 自分が発する言葉の一瞬前に、高橋信次先生に向かって言う言葉であると、人さまの言葉に反応する一瞬前に、高橋信次先生のお言葉であるという思いを、一瞬であっても持つことが出来たら、私の言葉、思いはどれだけ違ったものになるか、しかしそれは如何に難しいものであるか、しかしそれを目指さねばならないと思わせて頂きました。

 因みに、この息子は、先述の息子と同じ人物であります。

 私の周囲にいる人物、家族を含め、友人、知人の中で唯一、高橋信次先生のご著書に目を通してくれた人物であります。

 丸山弘先生がご指導(はじめての人に:http://huuhu-no-tyouwa-to-kosodate.link/wp-content/uploads/2017/12/hajimetenohitoni.pdfを参照下さい)下さっているような、毎日ページ数を決めて少しずつでも拝読するには至っていないようですが、ご著書に目を通し、この生き方をしたいと言ってくれた人物なので、正法に浅からぬ縁のある人物なんだろうと思っております。

 恐らく前世でも私と一緒の道を歩んだであろう人物、ヒョッとすると前世では私の父親であったかも知れないという気もしておりますので、この世でも、助け合い、高め合うことを誓ってきたのではないかという思いがしております。

 この世での間柄なんか、何の関係もないのでありましょう。親であっても子であっても、上司であっても部下であっても、立場が上であっても下であっても、前世では全く立場が逆であったかも知れないし、来世もまた然りでありましょう。

 今世もまた前世同様、お互いが助け合い、協力し合い、心を高め合おうと誓って生まれてきたんでしょうから。

 また、丸山弘先生は、次のようにお諭し下さっています。
 「貴方様が誰かに対してカチンと来たときは、自分が上からその方を見ているときなのです。自分をその方の下座に置いたときには、何を言われても、カチンと来ることはないのです」と。

 全ての方に高橋信次先生を見ることの大切さを、改めて痛感致しました。


5.義父の法事に関して

 ある日、妻から、義父の法事について、25回忌なので、孫も含めてやりたいという長男の意向だ、との話が出ました。

 法事は、23回忌、27回忌を行うのが通例のようですが、最近はこの二つを一緒にして、中間の25回忌を行うケースが多いようであります。

 ある日、某月某日の15:00~ということで時間が決まったと、妻から話があり、子どもたちに連絡をして欲しいという。

 私は、法事の後で義母も含めて会食をするという話を聞いていたので、『食事は何時から?』と聞きました。

 妻は、「法事が三時からやから、四時頃からと違う」と返事をしました。

 私は、『みんな都合があるから、キチンと四時からとか、六時からとか伝えないと、予定が組めないよ』と伝えました。

 もう少しやり取りがあった後、妻は、「じゃ、聞いとく!」と、つっけんどんな返事をして、明らかに気分を害した表現でありました。

 夕食の初めにこの話があったのですが、このやり取りの所為で、その後の夕食は、会話が全くない状態になってしまいました。

 私は、激しい口調で話したつもりは全くないので、妻の不機嫌は予想外でした。咎めるような表現があったのかとも思い、反省をしましたが、終始、心静かに対応したのではないかと思わせて頂きました。

 そして、これは天上の世界からのお試し、即ち、高橋信次先生のお言葉であろうと思わせていただきました。

 激しい言葉を使っていないか? 自分では使っていないと思っても、人にはそう思われることもあるが、そこも反省をしないといけないよ。

 反面教師として、
 「自分もこのような場面で不機嫌になることはないか? 人から正しいことを言われても、自分の意見を否定されるのは、決して嬉しいものではない(先述の息子からの非難の言葉も然り)。
 今まで、私も沢山のこのような不機嫌を撒き散らしてきたのではないか? その反省は十分にしたか?
 そして、このような場面に出会しても、不機嫌な人の態度に引きずられてはいけないよ。巻き込まれてはいけないよ。毒を食べてはいけないよ。不動の心を、平常心を保たないといけないよ」

 そうお教えいただいているように思わせて頂きました。

 数日後、妻から、「お父さんの言うように、法事は15:00からやけど、会食は17:00からでないと、宴会場が受け付けてくれなかったみたい」と、報告がありました。

 妻の機嫌は、何事もなかったように改まっており、更には私が言ったことが正しかったということを言い添えて伝えてくれました。

 高橋信次先生は、次のようにお教え下さっています。
 「真の修行者は相手の言葉や行動を見て、自らの心と行ないに不調和を起こしてはならない。それは相手の毒を食べることになるからだ。毒を食べれば苦しみや悲しみの因をつくることになろう」と。

『神を間に置く』という実践を通して

 『神を間に置く』、『高橋信次先生を間に置く』ということをキチンと心に留めなければいけないと思った途端に、ほんの僅か一ヶ月ぐらいの間に、こんなに沢山の出来事が起こりました。

 間違いなく、守護・指導霊様のお導きでありましょう。

 何方のお話しも、高橋信次先生が話しておられる、そして、私の話は何方に対してするときでも、高橋信次先生が聞いておられるという思いで、話をさせていただく、そういう思いを常に抱くことはそんなに簡単にできることではありませんが、その努力をさせて頂く、失念したときは反省の俎上に乗せるということを、今後の指針としたいと思わせて頂きました。

 この方法は、『正しく見る』『正しく思う』『正しく語る』だけでなく、正しく思うの範疇に含まれるのかも知れませんが、なかなか難しい『増上慢の思い』をも取り除く方向の精進ではないかと思わせて頂いております。

 このことに関連して、過去に、次のようなお言葉を天上の方からいただいております。この言葉も心に留め、精進したいと思わせていただいております。

 『相手は自分のどんな厭な相手であっても、自分の最高の教科書、先生であります。相手のお陰で、自分の悪いところを変えれます。厭な方がいる、厭な方が悪いのではなく、あなたの心がその方を厭だなと思う、その心が卑しいのです。
 相手のこんなところ、厭だな。相手のこんなところ、変えて欲しいな。その心こそ、変えなければいけないところなのです。
 あの人が悪い。そう思う、あなたの心が悪いのです。そう思っている内は、丸い豊かな心ではありません。
 どうぞ、そういう心が少しでも減るように、いつもいつも丸い心を養っていく。そして輝かせ、大きく光らせていけるご自分作りをなさっていって下さい。
 そしてご自分の引っかかる点を、「ああ、こんなことも引っかかっている」と、見過ごすことなく、一つ一つ、正しく点検していって下さい。相手の方に、いつも感謝する心を持って下さい。どんな厭なことを言われようと、どんな厭な存在だろうと、感謝できる心が必要です。
 自分に親切な人、感謝できて当たり前です。自分に厭なことをしてくれる人、その人に感謝して下さい。どんな方にも感謝の心を、悦びの心持てたとき、あなたは誰にも負けない、誰にもない、あなただけの一人の華を、たくさん心に持てるようになっているときでしょう。
 相手は変わりませんよ。自分を変えるのも難しいのに、相手を変えようなんていうことを、実際、難しいことです。
 妻が、夫が、友が、父が、母が、子供が、周りの友人が、ではなく、ご自分の心を変えることです。
 厭なことを言われたら、厭なことを言われてるその心を見て下さい。厭だと思う心を見て下さい。引っかかる心を見て下さい。そして、修正して下さい。他に何もありません。
 人を変えるのではなく、自分の心を変える、それです。それが自己確立に繋がっていきます。相手は関係ありません。自分の心、それが自分と神ということです』

 そして、高橋信次先生が、精進努力について、次のようにお教え下さっています。

 『・・・もちろん、それには反省と内在する悪の芽を摘み取る勇気と努力がついてまわるが、しかし、そうした努力を無理無理するのではなくて、時と共に、その努力が努力と感じられなくなって来るように、その毎日を怠らず励むことなのだ。
 努力しているという感覚が内にある間は、まだ本物ではないのだ。努力が生活の中にとけこみ一日一日が一生につながって行く喜びに満たされてくるようにならなければなるまい』

高橋信次先生を間に置くということを失念して反省の俎上に上らせた場合も、相手が高橋信次先生だったら同じ対応をするかと見る、反省をする、これこそが、反省の正しい基準であろうと思わせて頂きました。

 『高橋信次先生を間に置く』、この精進が今生の残された人生で為すべき精進であり、このことが当たり前になる努力をしたいと、心から思わせて頂きました。



 尚、私に取りまして高橋信次先生は至高の存在でありますが、このブログに『高橋信次先生のご紹介(http://huuhu-no-tyouwa-to-kosodate.link/idainasyu-syoukai/)』と題してご紹介しております。

 ご参照いただけましたら幸いであります。

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