いかなる不条理な出来事があっても、自分の心を曇らせてはいけない

不条理な?出来事・その1-バイクのバッテリー、同等品2000円の品物を、純正品の定価12000円で購入してしまった

 最近、乗り始めたバイクのセル始動が余り旨くいかないので、近所のバイク屋に見て貰いに行きました。

 キックでは始動したことはないが、セルモーター始動で、4、5回やらないと旨く掛からないという説明をしました。

 バイク屋は、「バッテリーや」と即答しました。

 その後、始動してエンジンをかけている状態を見て貰っていると、ピュピュッとガソリンがパイプから噴き出している(漏れている)のが見つかりました。

 吹き出しているパイプ部分を少し切り取って、幸いパイプの長さは十分あったので、再接続していただいた。

 料金を尋ねると、只でいいと言うので、こんなサービスを受けたので、バッテリーも交換して貰おうと、「バッテリーを調達しておいてください」と頼んでその日は帰りました。

 数日後、バッテリーの交換のためにバイク屋を訪ねました。

 旧バッテリーを外して新品を取り付けて貰ってからお金を払おうとすると、12,000円と言われました。

 思った以上に高かったが、頼んだ以上、仕方がないと思い、支払いました。

 翌日、バイクの始動をしようとしたところ、やはり何回か繰り返さないとエンジンが掛からない。

 更にもう一日様子を見て、以前の状況と変化がないことを確認して、本当にバッテリーの劣化が原因だったのかと、中古バイクを買った店の当該バイクのチラシを確認すると、バッテリーは新品をつけていると書いてありました。確りと見ていなかった私のミスであります。

 そういうことであれば、バイクの特性だろうと、バッテリーを交換して貰ったバイク屋を訪れ、セル始動をしようとしても、前と同じで、何回も繰り返さないとエンジンが掛からないと説明しました。

 状況を説明している内に私が、「本当にバッテリーが問題やったん?」と聞きました。

 するとバイク屋は、「キックでは掛かるけど、セルで掛かりにくいと言っていたからバッテリーやろうと言った」と答えました。

 私はあきれ返って、「キックでは一回もかけたことはないと言ったでしょう?」と言うと、「買うた所にエンジンが掛かりにくいとクレームをつけたらどうですか」と言われた。

 私は、「ああ、逃げたな」と思い、これ以上追求したり、話をしても仕方がないと思い、バイク屋を後にしました。

 後で調べると、純正バッテリーは、定価が12,000円で、市場値は半値程であり、同等互換品は、2,000円程度でありました。 

早速、反省をする

 反省をする前から、怒り、愚痴、批判、非難の類いを出して、自分の心に曇りを作ってはいけないということが、過去にも何回も経験していたので、何となく心に落ちていました。

 従いまして反省の最初から、あのバイク屋のご主人は、偉大な主・高橋信次先生のお使いである、若しくは偉大な主が、あのバイク屋のご主人の後ろに立って、「さあ、どんな対応をしますか?」と見ておられると思って反省をしました。

 あのバイク屋は、部品を定価で販売し、作業費は請求しないという風なことを今回はしたのだろう。それはそれで、あの店のやり方だから、それをとやかく言うことはない。

 問題は、私が購入したバイクのバッテリーの状況をよく把握していなかったことにあるが、バイク屋も専門家であるにも関わらず、始動しにくいのはバッテリーの劣化であると、よく調べもせずに断定してしまったことである。

 あのときに、旧バッテリーを調べていたら、劣化していないことが分かり、別の原因があると見る目を変えたはずである。が、いま、それを言っても仕方がない。

 次いで、バイク屋が自分の非を認めずに、逃げたことである。直す自信がなかったのか、これ以上責められるのを嫌がったのか、私は、これ以上話をしても、問題は解決しないと判断し、交渉を終わりにしました。

 偉大な主が、あのご主人の後ろに立って、「さあ、どうする?」と聞いておられる姿を想像しました。

 『有り難うございます。どんな出来事があっても、自分の心を曇らせてはいけないよと、お教えくださったのですね。

 あのご主人は、恐らく自分の失敗に気がついて、とっさに自分を守ろうと自己保存に走ってしまったのでしょう。このように正しく見て、そこで断ち切ることが大事なのですね。

 有り難うございます。如何なる出来事であろうと、相手に過ちがあろうと、それは相手の問題であって、その過ちはその人が解決する、刈り取るべき事柄であって、本来、私とは何の関係もない事柄であります。

 私と何の関係もない事柄で、相手が過ちをしたといって、自分の心を曇らせる(怒ったり責めたりする)必要はないのであって、「正しく見る」「正しく思う」という学修をさせていただきましたと、感謝すればいいのでありましょう。

 何度か、これに近い出来事を体験させていただきましたので、今回は、最初から、不調和な思いを抱くことがありませんでした。

 お導き、心から感謝します。有り難うございます。有り難うございます』

 と、反省させていただきました。

不条理な?出来事・その2-誤解

 私は、とある理由で、車を売却することに決めました。

 その決定を子供たちに伝える前日に、次男一家と夕食を一緒にしました。

 売却理由の説明がちょっとややこしいこともあり、次男にはその席では伝えないことにし、翌日、一斉メールで家族全員に伝えました。

 この車は次男が一番よく使っていたこともあり、最初、次男は自分が原因ではないかと疑ったようでありましたが、そんなことが理由じゃないよとメールで伝えたので、本件は一件落着かと思っていました。

 ところが暫くして、次男の子供(孫)が遊びに来たいと言っているという連絡が来たとき、今度は、なぜ前日に会っているのに言わなかった、理由が自分が原因みたいに思えると、怒りを含んだメールが届きました。

 更に、子供(孫)が行きたいと言っているので連絡したが、怒り心頭で、暫く連絡もしたくなかったと連絡してきました。

 何を誤解しているんだろう、既にあんたが原因じゃないと言っているのに、それを心の片隅に追いやって、なぜ前日に言わなかったと、感情に振り回されているんだろうと思いました。

 昔の私、法を知らなかった頃の私であれば恐らく、「そんな風に思ってるんやったら、わざわざ来て貰わんでもええわ」と、メールを打っていたことでしょう。

 そして恐らく、周囲の取りなしがあって、お互いに刃(やいば)を下ろしたとしても、深いわだかまりの溝を作ってしまっていたことだろうと思います。

 家族だろうと、友人だろうと、親しい知り合いだろうと、仲を裂くということはこんなにも簡単なんだと思いました。逆に、お互いに信頼を築くということには、何年もの努力と時間が必要なのでありますのに。

 正法の道も、登るに当たっては何年もの何十年もの時間が掛かるにもかかわらず、自堕落に、安楽に身を任せると、一瞬にして下り坂を転げ落ちるのと、全く同じであると思わせていただきました。

 私はまさしく、そんな人間で、法に帰依していなかったとしたら、昔の性格がそのまま今に続いていたことだと思いますので、私の人生は、家庭(家族)は、とっくの昔に壊れ去っていたことだと思います。

反省

 反省は先ず、自分の態度に間違いはなかったのか、と。

 当然、誤解をさせるような態度、行動をしてしまったことは詫びなければなりません。一言で済む説明でないにしても、それらしいことを匂わせるとか、食事の場でないところで話すとか、少なくとも誤解を生みそうな態度は避けるべきであったでしょう。

 その上で、次男の怒りは単なる誤解だから、会ってきちんと説明すれば済むことであると、整理をしました。

 偉大な主は、『争いに巻き込まれて行くことは、相手の毒気を食べていることであり、大きな反作用となって怒りの心を押えることはできなくなる。自ら人間性を失ってしまうということだ』と、お導き下さっています。

 如何なる出来事が起ころうと、それに巻き込まれることなく、その原因に思いを馳せ、自分にその原因があればお詫びして、その原因を再び起こさないように改め、もし他の人にその原因があるとしたならば、神の光が届くようにお祈りをさせていただくのがいいのでしょう。

 ところが、このように心の整理をして、それが法に適ったモノであるならば、心が落ち着くはずなのでしょうが、まだまだ心がざわつきます。

 (その1)で書いた出来事は、むしろ実損が伴いますので、怒りの感情などが激しくなってもおかしくないのに、それはすんなり、むしろ、問題を起こして下さったバイク屋のご主人に感謝するほどに整理が出来ましたのに、(その2)の次男の怒り、非難に対しては何故こんなに心が騒ぐのか、二日目、三日目と反省を続けました。

 その結果、(その1)の出来事に関しては、過去に何度も怒り、愚痴、非難を繰り返し、やっと自分の愚かな思いと行いが法から外れていると理解し、愚かな思いを気づかせて下さり、その修正に力を貸して下さったことに感謝する体験を何度も何度も積み重ねてきたことにより、ある程度心に落ちたが故の安心感ではないかと、思わせていただきました。

 一方、次男の批判に対しては、次男に限らず、法に帰依して以降、こんな風にまともに非難された経験がない、もしくは少ない。理解として整理が出来ても、感情がついていかないが故の、心の騒ぎではないかと思わせていただきました。

 物やお金に関する不条理なことに対しては耐性がついてくるほどに体験を積ませていただいたので、心の整理がつけば心のざわめきが収まるのでありますが、片や、人さまの非難・批判については、まだまだ耐性がついていないので、もう少し修行が必要なのかもしれないと思わせていただきました。

 そして、このように再整理して思うことにより、心のざわめきは、完全とは言えないにしても、大分、収まってきたことを実感しました。

まとめ

 この二つの最近の出来事を通して、『イヤなことをする人にも感謝』という言葉を、法に帰依する最初の頃から言われていたことを思い返しました。

 その頃は、そうなんだと何となく理解していたのでしょう。実践を伴わない理解であったが故に、何度も何度も、怒りや愚痴、非難を繰り返さないと、心に落ちることはないのでありましょう。

 自分が損害を被る出来事については、やっと最近になって、私の心の奥底に眠っている不調和な思いを引き出して下さったんだと、段々と心で理解できるようにならせていただきました。

 一方、自分に対する非難・批判という類いについては、法に帰依して初めてに近い経験であったがために、心の処理に時間を費やし、感情がついていかないという事態に陥りましたが、次に似たようなことが起こっても、きちんとした心の整理が出来るのではないかと思わせていただきました。

 『如何なる不条理な出来事があっても、自分の心を曇らせてはいけない』という金言を心に把持し、そういう行為をする方が現れたら、まさしく自分の心の修正に力を貸して下さったんだと受け止められるように、実践、精進をしていきたいと思わせていただきました。

 大宇宙大神霊・仏様、偉大な主・高橋信次先生、
 お導き、心から感謝申し上げます。
 誠に誠に、有り難うございます。有り難うございます。

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