我が正法への道(偉大なる正法にお導きを頂いて)
【目次】
1.まえがき
2.失業中に新しい職を与えられない原因は何か?
3.別居の始まり
4.別居の解消
5.反省と感謝について
6.天上界の方々から頂いたお言葉
7.正法帰依
8.この体験を通じて私が感じ、そして皆様にお伝えしたいこと
(この項は、後日、追記しました)
9.おわりに
1.まえがき
私は、常識では考えられないようなお導きをいただいて、偉大な主とお呼び申し上げている高橋信次先生のお説き下さいました『正法』に引き合わせていただきました。そのお導きとは、目に見えない世界、天上界からのお導きということであります。
私は、俗にいう精神世界を長い間、ほっつき歩いてきました。親に教えられた神社仏閣の神仏参拝の頃から数えると、四十年以上にもなります。
そして、五十歳前頃から親交のあったグループの中の友人の一人が、ある時、突如として天上界からの通信を受けるようになりました。
その様子は、誠に畏れ多いことながら、偉大な主・高橋信次先生の書かれたご著書、心の発見(現証編)の五十四頁に偉大な主の義弟のことが、次のように書かれていますが、これと全く同じような現象が起こってまいりました。
『・・・彼の口から昔の侍の声が出てきて語り出したのであった。
義弟は、自分のロを通して語るのであるが、自分で自分が何かを語っていることに非常に驚いたようであった。
・・・自分自身の口で自分のことを語るのだからと思うだろうが、霊が義弟を離れてしまえば、彼は全くそのことを記憶していないのである。
私達は、無責任のようだが、義弟を支配している霊を見ることもできないので、口を通して語る事実を信ずる以外にはなかった』
私たちに伝えられたこの通信は、約五年にも亘る長期間、続けていただきました。そしてその最大の眼目は、後に分かったことではありますが、私達を正法に導いてくださる働きかけということでありました。
結果として、仲間であったある者は離れ、ある者は正法に帰依し、ほぼ固定した時期に、この通信も終わりを迎えました。
なぜ私たちのグループが通信をいただけたのか?
天上界からは色んな存在の方が通信して下さいましたが、その内のお一人の方は、次のように仰っておられました。
『・・・「どうしてこのメンバー(私たち七人のグループのこと)だけ」と私などは思って、お叱りを受けたこともございました。それには一つは、このメンバーの中に神の言葉を受けられる存在がいたこと、そして皆さんがいずれ正法をやると言って、約束して天上を降りられた方であったことを知らされました。
「やるかどうか分からないけど、まぁとにかく降りるよ」と、仰った方も居たみたいですけれども、何人かは、「やがて私はこの法を必ず実践して、皆さまにお伝えさせていただきたいです」と、何人かの方々が約束して降りられたことを、私は聞かされました。
そして折角、その様に受けられる方がいらっしゃるのであれば、その方を使って皆さんとお話しさせていただこうと、神が考えられたということも聞かせていただきました。
・・・神はいつも言っておられました。「この中から一人でも正法を確実にやると言われる方がいたら、私は出させて貰った甲斐があります」と、仰っておられました。しかしまぁ今はこうして、この中の半分も、こうして引っ張って道に入って下さったことを嬉しく思います』
このような天上界からの通信など、人さまが信じるはずがない、と
更に、このようにも言って下さっています。
『・・・こうして縁があって皆さん集われて・・・こうしてお話しさせていただけて、他の方に信用されたいとか、信用して貰いたいとか、そんなことはどうでもいいことなのですよね。
皆さん、それぞれが、それぞれの心の中に、そういうことなんだと収めればいいことであって、どなたも信用しませんよ。神のことを言っても、私たちのことを言っても、そんなことはあり得ないと、きっと皆さんは言います。
かつて主が出られたときは、こういう現象はたくさんありました。それは本物の光、降りてたからです。そういうことがあっても不思議ではない。だけれども、もう主は帰られました。その様な現象が起こるのは不自然なのです。本来、不自然ですから、誰もそんなことを聞いても、「お前、チヨット危ないよ」と、きっと言われます。
ですからそんなことをわざわざお話しする必要もないですし、それはそれぞれの皆さんの心の、胸に閉じこめておいていただかなければいけないことですね』
こう言っておられるにも拘わらず、私がこのことを含めて書かせていただこうと思ったのは、この天上界の方々のお言葉(テープの文字起こししたもの:全文は、「天上からいただいたお言葉」を参照下さい)を読み返しますと、この天上界の方々からのお言葉に心が震えるからです。
そんな世界があるのかと受け取っていただける方がいらっしゃるかもしれない、それが正法への道に繋がる可能性があるのであれば、天上界の方が『皆さんの心の、胸に閉じこめておいていただかなければいけない』と言われているにも拘わらず、表に出してしまおうと思った理由です。
心に響かれる方がお一人でもいらっしゃったら、敢えて書かせていただいた意味があると思っております。天上界の方が言っておられるように、「おかしい」とか「危ない」とか思われる方がおられ、返って正法への道を閉ざすことに繋がらないかという心配もあります。そのような方がおられましたら、お詫び申し上げます。
2.失業中に新しい職を与えられない原因は何か?
某年六月、私は五十四歳の男性で、勇敢(無謀)にも、勤めていた会社を自分の判断で退職いたしました。失業保険を頂ける内はまだしも、それが切れてからは、就職活動に邁進しました。
五十代半ばの再就職は、なかなかに厳しいモノがありましたが、精神世界の中で勉強してきた、『思いこそ、想念こそがこの人生の鍵である』、そう思い続けて、『自分の思いを見る、否定的な思いをしていないか』、『思いを発する・・・仕事は与えられるはずだ』、そういう思いを持続するように努めました。
しかし、仕事は一向にやっては来ませんでした。三日に空けず職安(ハローワーク)に行きましたが、受ける面接はことごとく不採用となりました。
翌年の三月、失業してから既に九ヶ月が経過していました。私は思いあまって、天上界の方に相談させていただきました。
【まえがき】に書きましたように、私達のグループは定期的に会合を開き、その中の一人の方が天上界から通信を受けるようになっていました。
いま思えば、それは正しい存在からの通信なのかと、いぶかしがっても良いのですが、実際には、通信を受けることができる方だけが、通信を受け続けるのが正しいのかと悩まれましたが、私はこの通信の正しさに、疑うことも、疑念を差し挟むことも出来ませんでした。
そして、自分自身の長期に亘る苦境もあって、思い余って相談させていただきました。この相談は、通信が始まって早、四年が経っておりました。
『仕事が決まらないのは何故ですか? どのように心がけたらいいのでしょうか?』と。
天上界の方からは、思いもかけない返事を頂きました。
仕事が決まらない理由
・・・天上界の方から教えていただいた五つの事柄
第一の理由
そのまず第一は、前の仕事に対する反省と感謝がなされていないということでした。
前の仕事(イオンモールに於ける館内清掃の取りまとめ主任)が、その三年前に与えられた時には、学校卒業直後からの30年にも亘る仕事を辞めた後の失業状態であったため、私の精神はその時点ではギリギリの所におりました。だから、仕事が見つかった時は、「与えられた! 神、我が願いに応え給えり」と思っておりました。
しかし、最初の数ヶ月こそ、この職場が自分に与えられた修行の場と思っておりましたが、一年、二年と経つと、自分がその職場の長であること、自分が取り仕切っているという増長慢の思いが顔を覗かせていました。だからちょっとした事件が起こっただけで、『自分が責任者なんだから、責任を取るべきだ!』と、本社の上長の慰留も振り切って悲劇の主人公気取りでその会社を辞めてしまいました。
『神、我が願いに応え給う』という、仕事を与えられた頭初の思いも、『喉元過ぎれば熱さを忘れ』の諺の通り、何度この人生で同じ過ちを犯してしまったか分かりませんが、今回もまた、同じ過ちをしてしまいました。
当然、その会社を辞める頃は、その仕事は神から与えられたものであるということは、これっぽっちも心には残っておりませんでした。だから会社を辞めることに関しての私の感覚は、『間違った選択ではなく、素晴らしいとまでは言わなくても、比較的良いことをした』と思っておりました。少なくとも『自分が責任を取る』、この潔さは神意に適うものと思っておりました。
しかし、天上界の方から教えられた第一は、『仕事というものは全てそうだが、特に前の職場は、貴方がそこでもっともっと学ぶようにと、守護・指導霊から準備され、与えられてきた仕事であって、その仕事を自分の一存で、独断で断ち切ったということになる。そしてその反省もお詫びもしていない』と、いうことでした。
私達は若い頃は、仕事なんかは自分で探し、嫌なら辞め、もっと条件の良いところに変わったり、自由自在に出来ると考えています。私も最初の仕事である大企業の営業職で働いていた時は、業績もトップクラスで、それも自分の実力と思っていました。
営業の仕事は、一つボタンを掛け違えたらその仕事を受注することが出来ない。ふと電話をしたくなったり、呼ばれもしないのにお客様の所に一日中居座ったり、そんな熱意、強い念が結果として受注に結びつくこと、それらを守護・指導霊様の導きとは露にも考えず、自分の実力と思っていたりしたものでした。
確かに強い思い、信念がないと物事は実現しません。しかしそれだけで、この物質世界が成り立っているわけではなさそうです。そこに守護・指導霊様の関与、天上界の関与があって初めて、この現実世界の物事の進展が見られるようです。しかし私はそのような思いを全く持ち合わせておらず、天上界の方から告げられ初めて、頭をガーンと殴られたような衝撃を受けました。
第二の理由
第二は、『貴方は本当に神を信じるのですか?という接点を持たせられる』というものでした。
私達はいつかは本物の神理に出会い、それを真剣に行じるようになるとお導きいただいております。しかし、最初は神理に出会っても、我が人生第一で、神理は第二第三でしょう。私の場合も、神理を自分の生活に活用する、どのように利用すればこの自分の人生が上手く進展するか、というような類のものでした。
しかし、色んな試練を経て、神理第一、自分の生きる道はこれしかないと思うようになっていくようです。特に苦境の時はそうです。私もこの苦境に対し、今の段階で出来ることは全てやった。自分の発する思いも見た。心配、不安の思いが何度も何度も顔を出すので、その思いを出す度に『大丈夫!』と自分の心に言葉を投げかけ、心を光で満たすようにしてきました。七ヶ月、八ヶ月、九ヶ月・・・でも、現実は何も変わらない。
『こんな状態が続いても、貴方は神を信じるのか? 神理の道を歩むのか?』と。
「こんな苦しい人生を歩むくらいなら・・・」とか、「衣食足ってこその神理だ・・・」と、神理の道から逸れる方もいらっしゃるそうです。それはそれで、その方の自分の人生ですから、どちらが正しい、どちらが間違っているということではないということのようですが、天上界の方から見たら、『あゝ、矢っ張りこの人は落ちたな』と、見ることはあるそうです。
人それぞれに生まれ育ちもあることでしょうから、いくら天上界で約束をしてきたといっても、「こんなに一生懸命やっているのに、神め!仏め!」と、思われる方もおられるそうです。
この頃の私は神理の道(この頃は正法と他の教えとの違いもよく分からず、正法を含めた精神世界すべてが神理の道と思っておりました)こそ自分の進むべき道と思っていましたが、己心の魔、自我は毎日何度も囁き続けます。
『本当にこの道で良いのか? お前の昔の仲間は、年収一千万の生活を謳歌しているのだぞ。お前は彼らに、顔を合わすことが出来るのか?』
『神理の道から外れるぐらいなら、肉体がなくなっても仕方がないだと? みんなから、アホな奴やと言われるのがオチだぞ(この頃の私は、神理の道を歩まないなら、肉体を維持すること、即ちこの世に生きていることに、意味がないのではないかという考えも持っておりました)』そして、『精神世界の仲間からも、肉体を無くすのは、何かが間違えていたからだと言われるぞ』
『昼間、近所の人と顔を合わすと、どう思われるかと心配しているのに何が神理だ』
等々、もっともっと色んな思いが沸き上がってきました。
「いくら自分は神理の道を歩む!」と思っていても、天上の世界から見て、心配で仕方がなかったのでしょう。『その思いは本物か? 不退転の決意か? もっとひどい状態になっても逃げ出すことはないのか? どんなに辛いことがあっても神に縋りついてくるのか? 神理の道を貫き通すのか?』と。
こういう表現をすると、『おまえはどれ程の者だ? そんな、試されるようなレベルなのか? 思い上がっているんじゃないか?』と、お叱りを受けるかもしれませんが、小学校にもテストがあり、中高大学にも、そのレベルに応じたテストがあります。やっと神理の門をくぐろうとする最初のテストですから、私はこれは小学校の、それも一年生のテストだったんだろうと思っております。
第三の理由
第三は、『貴方はインターネットでたくさんの方に呼びかけておられますが、苦しんでおられる方々と同じ体験をしないとなかなか話が伝わらないことがあり、そのための体験という意味もあります』とのことでした。
私はこの頃、精神世界の一員として、ホームページを開設し、不特定多数の方に、『想念観察』ということをテーマにして、その時その時の自分の思いを発信しておりました。
自分が会社勤めをしているときは、人が、仲間が失業して苦しんでいても、「ちゃんと自分の思いを見て、自分に適った会社が与えられるという思いをきっちり持たないと!」というようなことを言っておりました。それはそれで間違いとは言えないかもしれませんが、人の苦しさ、辛さが分からない、高いところから見た助言になっていたのでしょう。
「マイナスイメージばかり出しているからだよ」「今の思いが未来を造るんだから、悲観的な言葉は慎まないと」「暗い思いを明るく変えないとダメだよ」とか、それなりに的を射る言葉ではあっても、体験していないから同じ立場で見ることが出来ない。
でも、「そうですか、五ヶ月ですか。辛いですよね、苦しいですよね。仕事に就かせていただいているって、どんなに有り難いことだったか、今なら分かりますよね。
私も九ヶ月、失業してたんですよ。毎日毎日、不安が押し寄せてきて、明るく振る舞うことなんて出来ないんですよね。でも、そんなときこそ、自分がしっかりしないといけないのも事実なんですよね」
と、共感を持ってサゼッションして差し上げることが出来る。そういう人の痛みの分かるための体験という意味合いもあるとのことでした。
第四の理由
第四は、もっと神に縋るというか、一体感を持って思いを託すというか、他力的に仕事を与えて下さいという縋り方ではなく、「自分はこういう思いでこれから仕事をしていきます」とか、「こういう風に自分を磨いていきますので、どうぞその場を与えて下さい」とか、神に近づいていく思いを持つと良いということでした。
精神世界に身を置いて、それなりに理解を深めていきますと、自分の想念を観て、積極的な想念、肯定的な想念で満たすと自分の願望、それが決して独りよがりなものでないなら、実現しないはずがないと思いがちであります。それも勿論、間違いではないでしょう。それで実現していく思いもたくさんあることでしょう。
でも私の場合は、守護霊様達の意見が分かれているということもあったようです。ある方は、生活の基盤を整えてから心磨きをしたらいいじゃないかと仰る魂もおられるが、別の魂の方は、苦しいかも知れないが、この機会に心磨きをキッチリやった方がきっと上手く行くと考えておられたそうで、守護霊様達で意見が分かれているということでした。
そこで、「こうこう、こうしていきたいんで、こういう場を与えて下さい」という風な思いを具体的に強く上げる、神に近づいて行く、縋る、強く掴む、叩く、そういうことによって後の方々(守護霊様達)の意見も固まって行くことに繋がるということでした。
第五の理由
そして第五は私の最大の難関、これこそ一番大事な克服すべき問題点、家族との別居という不調和を解消しなさいということでした。
その別居のいきさつ等の詳細は次の【3.別居の始まり】に書かせていただきますが、『奥さんと一緒に生活をされ、内から光を放っていくという生活をされると良いでしょう』ということでした。
『内から光を放つ』・・・私は自分でどれだけの光を放っているのか知る由もありませんが、妻子と別居することによって彼らが寂しいという思いを出すと、自分が出す光が減らされるということがあるそうです。例えば私が一〇〇の光を出していても、妻が五〇の寂しい思いを出していると、私の光は五〇に減ってしまうということのようです。
妻だけではなく、子供達も同じように寂しい思いを出していると、二人分、三人分と減らされ、光が届かない、思いが届かないということに繋がっていくそうであります。
先程の試しにも繋がるのですが、『本当の神理、正法をやっていくのなら、そういう決意があるのなら、少し生活を改めたらどうなの?』ということ。『離れて暮らしていても心は繋がっている(※1)というのは屁理屈ではないですか。心が通っていれば必ず形も整ってくる。それはどうなの?』ということでありました。
注)※1:この頃は、天上の世界からいろいろなサゼッションをいただいていましたので、週に一回、時間を決めて妻のところに帰るというようなことを始め、作ってしまった不調和、わだかまりを解消し始めようとしていた、正にその頃でありました。この行動を始めたことにより、心は繋がっているという思いを持ちたかったのですが、この程度の行動で『心はつながっている』等と思うのは思い上がりも甚だしいということだったのでありましょう。
五つのお導き・・・総括
私が仕事を与えられない原因としては、このように複雑な状況が重なってというか、その重なりによって守護霊様達の意見も割れているということでした。しかし、後になって実感することですが、実際は第五の問題が最も大きな障害となって、私の人生の自然な流れを堰き止めていたということのようです。
この人生は、偉大な主がお教え下さっていますように、「何故なんだろう?」と、疑問を持つことからしか展開していきません。今回も、足りないながらもその時点で考え得る限りのことを実践し、それでも思い通りに人生が進まない、仕事が見つからない、「どうしてなんだろう?」「何故なんだろう?」と、切羽詰まって天上界の方に縋ったのが発端でした。
今から考えますと、天上界の方が、私達に通信して下さった最大の理由は、『私達を正法に結びつける』という一点でありました。その為には、いくら苦況にあっても、どんなに辛くても、その本人が、『何でこんな苦しい世界が展開するのか? 何故なんだ?』という疑問が生まれないと、即ち、心の中に答を求める渇望が生まれないと、いくら先に答を与えられても、有り難さ、実践しようという気概が全然違ってくるようです。
天上界の方には、誠に申し訳ないことでしたが、四年もの間、この時期をこそ、私が質問するタイミングをこそ、待っていただいていたのかも知れません。今から考えますと、何と愚かな人間であったかと、恥じ入るばかりです。
そしてこれだけの言葉を頂きましたからには、後は行動しかないという思いで、実践に走り出しました。
3.別居のはじまり
私は五十四歳で失業し、五十五歳の春、天上界の方に、『仕事お与えいただけない原因はどういう事でしょうか?』とお聞きし、五つの原因を教えていただきました。
1.前の仕事に対する感謝も反省もない。
2.この苦境にあっても、神を信じることが出来るか?
3.同じ境遇の方に対する苦しみを共有する、痛みが分かる体験をする。
4.自分の思いを持って神に縋る、叩くことをする。
5.家族との別居という不調和を解消する。
1.~4.に関しては、基本的には自分の心の中での問題ですから、教えていただいたからには実践しかありません。
毎晩、一つ一つのテーマを自分の思いの中で反省の俎上に上げ、心の中に落とし込んでいきました。
しかし、5.については、一筋縄に行かないことは最初から分かっていました。
そのことを書く前に、何故別居に至ったのか、まずそこから書かせていただきます。
勤めていた大企業を退職するに至った経緯
私は日本を代表するような大会社の営業をしており、軽く一千万円を超える年収を得ておりました。
「仕事が出来ない人間はダメ人間。仕事を遂行するためには、犯罪にならなければ少々のことは必要悪としてやむを得ない」などと考える人間でありました。だから、犯罪すれすれ、否、表に出れば犯罪になることも、バレるはずがないと、バレないように巧妙に行っておりました。
しかし、ある年、会社に国税庁の査察(監査)が入り、私が担当した案件が査察対象に選ばれました。それに伴い、社内の経理部門が国税庁から何を聞かれても大丈夫なように徹底的に事前調査をするということになりました。
これは普段、社内の自己監査で調査をするようなレベルとは桁が違い、さすがにお客様の所に裏付けを取るようなことまではしませんでしたが、窓口の商社や下請けの特約店等、会社の力の及ぶところに対しては、徹底的に調査を行ったため、私がやっていた裏工作はほとんど、明るみに出てしまうということになりました。特に、使途不明金、数億円のお金の追求が執拗に為されることになりました。
幸いというか、予想通り、国税庁の査察は何のお咎めもなかったのですが、その後の社内の追究が私を追い詰めました。本社の経理担当の重役の耳にも入り、関西支社の副支社長が調査責任者として、全貌を明らかにすることとなってしまいました。
しかし、社内の調査にも限界があり、副支社長の最終報告は『グレーではあるが、不正を行っているという証拠はない』という結果となりました。私は取り敢えずは無罪放免で、一安心したのですが、私の心は当然、自分では不正を行っているという激しい罪悪感がありました。
実際に、問題になった使途不明金数億円での不正は見られなかった(私も不正はしていなかった)のですが、表面化しなかった細かいところでの不正を自覚していましたので、数ヶ月後、私は依願退職を致しました。
私は奇妙な正義感を持っており、不正がばれたら潔く身を引くべきだという思いが強く、よく見受けられる、政治家が不正をしながら地位にしがみつくのを情けなく思っており、同じ轍は踏まないと、会社を辞める決心をしました。
妻が無断で二百万の預金を引き出す
長年勤めていた会社を退職した後、仕事には自信を持っていたつもりなので、私は自分で会社を設立しました。
半年くらいは、前の大会社の関連で仕事は順調にいきましたが、その大会社との関連が薄くなるにつれて、仕事は全く無くなっていきました。自分の実力は、会社を笠に着た実力だったのかと、如実に感じました。
自分で設立した会社を畳む前に、職探しを行いました。なかなか適当な就職先がなかったので、募集も多く、簡単に就職できる警備会社を選びました。基本は道路工事などの時に片側交互通行を誘導する交通警備です。前の仕事とは天と地ほども違うにも拘わらず、私はすんなりとその仕事に入り込みました。
しかし、雨が降れば仕事は休み、工事現場によっては深夜勤務のみ、真夏は炎天下での作業、そして一ヶ月の手取りを貰った時に、梅雨時で勤務日数が十日以下であったこともあり、十万円にも満たない額でありました。警備会社の上司からは、キチンと仕事をすると重宝がられはしましたが、これは永続的な仕事とすべきではないと考えました。
ただ、仕事が出来ない人間はダメ人間とまで思っていた私にとって、低賃金でこのような過酷な仕事に従事している方もおられるということを、体験として知ったことは、得難い経験となりました。
このような時期に、妻から手紙(メモ)での借金申込がありました。
実は妻からの借金申込は十年ほど前から、数ヶ月~一年に一回というようなペースであり続けました。いつも数十万円の金額と、何月何日までには返すとメモがあるのですが、返済を受けたことは一度として無く、また、返済を受けなくとも、経済的には何の支障もなかったので、その理由を追及することもありませんでした。
しかし今回の申込は、いつもの額とは違い、一〇〇万円の大台に乗っている額であったことと、私が退職して収入がない時期でもあったため、「何に使うの?」と、初めてその理由を聞きました。
妻はちょっと口ごもりながら、「妹が貸して欲しいと言っているから」と答えたので、それを真に受けて「私も苦しくなっているから、そういう理由なら断って下さい」と、妻に伝えました。
数日後、畳む寸前になっていた会社の預金通帳から、二〇〇万円が引き出され、「ごめんなさい。どうしても必要だったのでお借りします」と書かれたメモが一枚、私の机の上に置かれていました。
今から考えれば、何故、妻がこのような無謀なことに及ばざるを得なかったのか、ほんのちょっとした思いやりの心が私にあれば、異変に気づくはずなのに、元々、私は自分のことしか考えない冷徹な人間であり、更に経済的に苦境に陥り始めていることもあって、自己中心の塊のような心で、妻の所行を非難しました。
別居~再就職した会社を退職するまで
その頃の私は、妻とは同じ屋根の下に住んでいるだけで、心の通い合わない、不調和な日々を過ごしており、「こんなこと(二〇〇万円を勝手に引き出される)をされては、生活が成り立たない」と、これまた自己中心の思いで、次のようなことを決めて発表しました。
一)いま住んでいる家(一軒家、ローン支払い中)を売却し、そのお金でローンの不要なマン
ションを購入する
二)みんなの生活費は五年間は私が保証するので、その後は皆でどのように生活していくか、
考えて欲しい
三)私は家を出る(別居をする)
暗い雰囲気の中で、子供達からいくつかの質問も出ましたが、「こういう選択肢しか考えられない」と私は、近視眼的に、そして強引に、この結論に持って行きました。
翌日から早速、持ち家の売却と購入するマンション探しを始めました。わずか二ヶ月ほどでその両方を決めることが出来、家族は3LDKのマンションに、私は小さなアパートでの一人暮らしを始めました。
今から考えますと、一戸建ての家を売却し、手頃なマンションを購入するという、それも売却と購入が同期しなければならない、価格が折り合わなければならないという難しい状況をかくもスムーズに遂行できましたことは、私自身が全く不調和な心であるにも拘わらず、守護・指導霊様のお導き、お力添えがあったればこそと、深く深く感謝申し上げる次第であります(このことに関し、私が思いついたことを、「終わりに」に書かせていただいております)。
私がアパートで一人暮らしを始めた直後、清掃会社への就職が決まりました。この頃は年齢的なこともあり、どんな職種でも、給料の一定額の保証さえあれば何でもやるつもりでおりました。昔のジャスコ、今のイオンの店舗の三フロアーの清掃の取り纏め(一応、最初から主任という肩書き)の仕事でした。この仕事も前の警備の仕事同様、社会の底辺の仕事をするという得難い経験をさせていただくことになりました。
この清掃会社に勤めさせていただいたお陰で、例えば道路に落ちている犬の糞の始末や、汚れた便器の清掃などが何の苦もなくさせていただけるようになりました。
しかし、私の自己保存、自我我欲、自己中心、増上慢という根本的な性格は何ら変わっておらず、就職して二年後、その清掃会社内でのトラブルの責任を取るという頑なな思いで、本社の上司が引き留めて下さるのも聞かず、自分ではそれが潔いと思い込んで自主退職を致しました。
それからが、前述の失業の日々が始まったのであります。
4.別居の解消
天上界の方からの通信は、最初の頃は瞑想の仕方だとか、念の持ち方だとか、私が傾倒していた想念観察だとか、この通信自体が継続していくようにと、私達の興味のある内容が主体でしたが、私が失業してしばらくすると、私にとっても他の方にとっても機が熟してきたのか、段々と正法の正しさ、素晴らしさを教えて下さるようになってきました。
そのお薦めもあって、失業して半年も経つ頃には、私は正法を真剣に勉強したいと思い始め、偉大な主のご著書の拝読に注力し、その時点での私の幼い心のレベルではありましたが、次第に『この人生で、私の進む道は、正法の道しかないのではないか』と思えるようになってきました。
正法と他の教え、巷の宗教との違いも確りとは分からないレベルでの歩みではありましたが、ご著書の拝読を生活の中心に据えますと、ご著書に書かれています調和こそが大事であるということが心に浮かんできます。今のままの家族の形ではいけないという思いが湧いてきました。即ち、家族との別居という関係の修復を始めねばならないと思うようになりました。
ただ、それはまだまだ自己流の調和でしかありませんでした。毎週土曜日の夕方に別居宅で自分一人の夕食をすませ、その後に家族の元を訪れるというような、ぎこちないものでありました。そんな初歩的な家族の調和を目指し始めたまさにその時期に、守護霊様のお導きでしょうか、妻から新たな借金の申込みがありました。
妻の借金申込を、初めてそしてやっと、サラ金と気づく
別居を始めてからも、妻からの借金申込は途絶えたわけではありません。数ヶ月に1回というように、同じようなピッチで続いておりました。しかし私は相変わらず、自己中心にしかこの出来事を見ることが出来ず、「お金がある間はいくらでも出しますよ」というような思いでおり、何事が起こっているのか、真実を見ることを避けていたのかもしれません。
しかし、この時は違っていました。郵送されてきた借金の申込の手紙を読んだ途端、『サラ金だ!』と、やっと直感が働きました。
今までと何が違っていたのか? ただ、正法に心を振り向け、ご著書の拝読を真剣に始め、実践できることはその方向に進んでみようとしていただけでしたが、天上界からのお導きを、私の心が受け取ることが出来たということなのでしょうか? 否、否、恐らく守護・指導霊様が必死になって、私に分かるように骨を折って下さったのでしょう。
翌日、すぐさま妻の元に駆けつけ、『サラ金か?』と聞きました。妻は無言のまま、首を縦に振りました。『全部出してごらん。今回でお仕舞いにしよう』と言って、妻の借りているサラ金の請求書を全部出させました。
十軒のサラ金業者から、合計数百万円の借金がありました。『明日、私が業者に電話をして、明後日、お金を振り込むようにするから』と言って。その日は一旦別れました。
翌日、再度、妻の元を訪れ、全てのサラ金業者に電話をし、『明日、全額支払い』ということでの精算金額を確認しました。
妻には、『明日、全て振り込むからね。これまで、こんな生活が続いて辛かったよね。これで本当に、お仕舞いにしよう』ということを伝えました。妻は目を真っ赤にし、涙をいっぱい溜め、無言ながら、首を縦に振っていました。
その頃の私は貯金も目減りし、妻の借金全てを賄うことが出来ない状況でありました。そこで、その日(サラ金だと分かった日)の内に子供達に連絡を取って事情を話し、貸せるお金がないかと相談したところ、長男が百万円ほどのお金を貸してくれることとなり、サラ金への返済が可能となりました。
妻のサラ金への毎月の返済額は、月々渡している生活費を、例え全額つぎ込んでも金利にも満たない額であり、更に借金が膨れあがるという状態でした。年利二十九%のサラ金地獄の恐ろしさということでしょう。
この借金を返済した時点で私は、絶体絶命の世界におりました。貯金は底をつき、子供から借りた百万円のお金の残り二十万円ほどが全ての資金。仕事が見つからなければ、一ヶ月後には、米を買うお金もなくなってしまう。
当然、月々、妻に渡していたお金も、渡せなくなってしまいます。
この状況で初めて私は、天上界の方に「どうしたらいいのでしょうか?」と、救いを求めたのでした。正真正銘の、絶体絶命でした。逆に、ここまで追い詰められると、どんなに厳しいお言葉であっても、受け入れさせていただこう、実践させていただこうという思いにまでなれるものだということも実感しました。
このサラ金問題が発覚しなければ、私は天に救いを求めなかったことでしょう。少ないとはいえ、数百万お金が手元にあるんですから。しかし有り難いことに、そのお金が一瞬でなくなってしまいました。即ち、この苦境こそが救いそのものであったということかもしれません。
苦しいこと、辛いこと、嫌なことにも感謝ですと、お教えいただく意味は、こういうことなんだろうと、後になって気づかせていただきました。
法から外れた思い・行いが、苦しみをつくり出す
五つの反省・改善すべき点をお教えいただいて、その最後に、次のようなお言葉をいただきました。
『正法は、正しい生活が基本です。偉大な主・高橋信次先生のご著書にも書かれていますし、丸山先生の学修会でも「正法から外れた分だけ苦しまなければならなくなる」とお教えいただいています。分かっていることは実践するということが大事なのではないでしょうか。奥様と一緒に生活をされ、二人で調和されることが大事なのではないですか』と。
私はこの時点では、ご著書の拝読を通じて、傲慢にも、ある程度、正法を分かっている積もりになっておりました。ほんの小さな、実践と言えるかどうかという一歩(週末に家族に会いに行くということ)も踏み出してはいましたが、自己流の独学では正しいという基準が確立できていないため、何が本当の正しい姿か、全く分かってはいなかったということを実感しました。
別居という状態は、どのような理由があるにせよ、どのように言い訳をしようとも、調和の世界からは遠く外れている。小さな実践? そんなものは実践でも何でもないということを、天上界の方から教えていただくことによって、調和とはどういうことか、やっと心に落とさせていただいたように思えました。
しかし、正しい道に戻ろうとして私はすぐに、自分の心の壁にぶつかりました。別居を始める時は、「利は我にあり。悪いのは一〇〇%、妻である。自分は正しい!」との思いを持っておりましたが、いざ帰ろうとなると、「自分のことしか考えず、自分勝手な行動をして!」と言われるようなことを自分はしていたんだ、という思いが湧いてきました。家族全員の了解を得ないと、私は家に、帰るに帰れないのだと、ここで初めて気づくことが出来ました。
私は三人の子供達に一人ずつ電話をして面会し、今までの経緯と自分の心境を語り、再出発したい旨を話しました。子供達は一様に賛成をしてくれました。最後に話をした妻は、「いつ、元の生活に戻れるのだろうと、いつも考えていました」と、諸手を挙げて賛成してくれました。
翌日から早速、引っ越しを始めました。引っ越し業者に頼むお金が勿体ない、と言うよりは、お金が無いに等しいので、荷物がそんなに多くないということも踏まえ、二、三日かけて、自分の軽自動車で、一日数回往復することにしました。
新しい仕事が与えられる
私は清掃会社を自主退職し、失業保険が切れる頃から、真剣に就職活動を始めました。基本的に頼るところはハローワークで、選り好みなどせず、月二〇万円程度の給料があれば、どんな職種でも面接の申込を致しました。ハンコや名刺のチェーン店の個人店長の募集、現金輸送車の警備員、等々。しかし、受けた面接はことごとく、不採用となりました。
最後に受けた会社が、高速道路の料金収受員の仕事でした。この面接は、引っ越しを始める約一ヶ月前に受けていたものですが、採用担当の方からは、「貴方を採用ということで申請を本社に上げているのですが、本社の認可が下りてこないし、それが何時になるかも分からないので、他の会社を受けていただいても構いません」と言われておりました。
年度変わりの三月末も越えてしまったことから、この会社も無理なんだろうと思っていましたが、四月初めに妻のサラ金問題が発覚したために、他の会社を探す余裕も何もありませんでした。
このタイミングも、「他の仕事は探す必要はないよ。貴方が正しい道に踏み出しさえすれば、問題は解決するよ」という、守護霊様のお導きだったのだろうと、今は感謝の思いでいっぱいにならせていただいています。
自分の軽自動車で引っ越しを始めたその翌日(四月十二日)、青天の霹靂のように、この会社から、採用通知の電話がかかってきました。「まだ、他の会社の採用が決まっていなかったら、四月十六日から仕事に来ていただけませんか? ついては今日明日にでも、打ち合わせにおいで頂けると有り難いのですが」と。
私は喜び勇んで、「これで来月からも、きちんと生活が出来る」と、イの一番に妻に報告を致しました。
次の天上界の方からのお言葉は、採用が決まったかなり後になってお聞かせいただいたものでありますが、この頃の妻の心境について、お話しいただいております。
『・・・○○さん(私のこと)のお宅でもそうです。今まで奥様は、「あゝ、自分のしたことによって、大変なことをしてしまった。主人ともう、こういう風には、二度と前のようには、戻れないんだろうか」といつもご自分を責めていたわけです。
自分から謝ることも可能なんですけども、自分から謝っても、今こんなに、主人はこんな風に思ってるんだから、この上、受け入れてくれるんだろうか?
もし、「あなたがそういう風に言っても、私はもう決めたことだから、もうあなたと一緒には暮らせないよ」と言われたときのことを思ったら、とても言い出せないですよね。
ところが○○さんの方から、自分も悪かったですよ、お家に帰らせて貰いますよと言われたときに、その安心感、信頼感というのは、もうかけがえのないものですよね』
夫婦といえども、お互いのことが何も分かっていない、分かり合える努力がどれだけ大事なのかと、痛感いたしました。このお言葉も、夫婦の調和、家庭の調和をこれから目指す私の心に、深く染み込んでいきました。
5.反省と感謝について
妻の反省をする
天上界の方から、仕事の与えられない原因を教えていただいた後は、毎晩、時間を決め、自分なりにではありましたが、反省と感謝を深めていきました。
そして、妻のサラ金問題が解決した時すぐさま、この妻のサラ金問題を反省のテーマに取り上げました。
サラ金地獄に堕ちている間、妻はどんな思いをしていたのだろう?
辛い辛い日々やったことでしょう。死んでしまいたいと思ったこともあったかも知れません。『この地獄から一体、いつ抜け出せるんだろう?』、そんなことを考える日々だったかも知れません。
何故、妻は、こんな状況に陥ったのだろうか?
最初にのめり込んだ理由を私は聞いていないし、今も聞く必要は無いと思っているので、その原因は分からない。しかし、どこかで、これではいけないと気がつく時期があったはずだ。その時に何故、方向転換をしなかったのか? 方向転換できなかったのであろう?
恐らく、私が全く心を開いていなかったから、相談すら出来なかったのであろう。相談しても聞いてもらえるはずがないと思ったのかもしれません。
私はまさしく、自分の立場だけを大事にし、お金だけを大事にし、人の心を思いやることなど全くない、当然、妻の苦しい立場に思いを馳せることもない、自分には甘く、人には厳しい厳しい人間であったのでしょう。当然、どんなに困っていても、妻が相談すらできない、愚かな愚かな冷たい冷たい人間・夫であったということでありましょう。
ひょっとすると、この世に生まれる前の天上界で妻は、『あなたが正法に気づけなかったら、私が問題を起こして上げるわよ』等と、笑って言ってくれていたのではないかという思いが、唐突に湧いてきました。もしそうだとしたら私は恐らく、『大丈夫。そんなことはさせないから・・・』等と、大見得を切っていたことでしょう。
しかし私は精神世界をふらふらするだけで、一向に正法に振り向かない。それどころか、自己中心的な行動に終始している。だから妻は無意識に、妻の守護霊様が約束を果たそうと、問題を引き起こしてくれたのかもしれません。
それなのに、私は妻を非難するばかりで、心を開かない。だから妻も心を開けない。『こんなにサラ金で困っています』と言えない。非難されることが分かっているから、自分の口からは決して言えない。
私達夫婦がこのような約束を生前の天上界で交わしたか否かは、私には分かりません。しかし、借金を振り込んだ夜、私の心には、このような思いが込み上げてきました。こうでなければ妻が、このようなことをする筈がないのではないか・・・と、思えたのでした。
翻って、今の私にお金がほとんど無いことは妻も子供達も知っている。長男は、これからもお金が必要なら出すよと言ってくれている。しかし妻の場合はどうだったのだろう?
今月、サラ金に支払うお金がない。その支払いのために、別のサラ金に借金をするしかない。そんなことをすれば、更なる深み、奈落の底に堕ちていくことは充分すぎるほどに分かっている。でも、それしか方法がない。一番頼りたい夫に相談すらできないのだから。
一つのサラ金に支払うために、別のサラ金の限度額一杯まで借り増しをする。どんな思いでサラ金に電話をしていたのだろう。どんなに苦しく、悲しく、辛い思いをしてきたのだろう。妻は生きたまま、この世の意識を持ったまま、真っ逆さまに地獄に堕ち、地獄の体験をしていたと言えるでしょう。
私が今、行き詰まっているのとは訳が違う。桁違いの体験を妻はしてきた。耐えてきたのではなく、そうするより仕方がない、どうなるかなんて考えてはいけないというような思いで日々、過ごしてきたのだろう。
こんなことが胸に迫ってきたら、お詫びしてお詫びしきれるものではないかも知れませんが、私は心から妻にお詫びするのが当然と、別居宅の一室で一人、深々と頭を下げさせていただきました。
これらの反省も踏まえ、別居を解消し、みんなと一緒に生活をするという、調和に向かっての実践を始めた途端、即ち、引っ越しを始めたその翌日に仕事が与えられたのでした。
私は愚かにも、「原因は全て外にある。このような環境に陥ったのは妻の所為であり、私が原因ではない。仕事が決まらないのは、その会社の事情であり、私とは基本的には何の関係もない」等と考えておりました。妻や家族への自分の思いや行いが、自分の周囲の環境を造り上げるなどとは、夢にも思っておりませんでした。
しかし、この一連の出来事を体験させていただいて初めて、「ああ、そうではなかったのか! 全ての不調和の原因は自分にあり、人や外にあったのではなかったのか! 自分の法から外れた思い、中道から逸脱した行動など、自分の不調和こそが苦しみの原因であったのか!」と、初めて気づかせていただいたのであります。
子供たちに与えた影響
当然のことですが、この別居は子供達にも大きな痛みを与えてしまったことも事実であります。
その一つは、長女の結婚であります。長女は私の別居解消後、半年余りして、結婚したのでありますが、別居の解消をしなかったなら、彼女はどうしたのであろうか?
別居中に結婚する予定の相手を別居宅に連れてきたことがありますが、そのときは仕事の関係でここに住んでいると話していたようであります。別居を解消しなかったら、相手に真実を話したのであろうか? 果たして結婚までたどり着けたのであろうか? 私は、最愛の娘の幸せを、自分の手で壊すという、取り返しのつかないことをしていたかも知れません。
更に、二人の息子が、別居を始めてから順次、大学に入学しましたが、別居中に二人とも、中途退学をしてしまいました。この頃の私の頭の中は、何よりもお金お金でありましたので、入学金こそ出しましたが、二人の息子には奨学金を借りるようにして貰いました。当然、そのお金は将来、彼らが返却せねばなりません。
二人は順次、その大学を中退いたしました。彼らは、お金以外の退学の理由を言ってはくれましたが、私は、別居により、金銭的援助をしなかったことがその原因、少なくとも原因の一つであったであろうと、彼らの人生の方向を曲げてしまったことを深く、深く反省をし、彼らの人生に幸いあれと祈らせていただいております。
しかし、幸いなことにその後、彼らは二人とも素晴らしき伴侶に恵まれました。誠に自分勝手な解釈かも知れませんが、与えられた伴侶は天上で約束をしてきた相手であろうと思わせていただいております。
話は脱線しますが、天上界の方からは、約束をしてきた相手と結婚する人は、最近では僅か20%程度とお聞きしています。
我が息子たちの、伴侶との出会いは、大学を中途退学したその延長線上で与えられたものであり、退学しなかったら出会えなかったのではないかと考えると、彼ら二人の魂は、この状況すらも承知の上で私の子供として生まれてきてくれたのかも知れないと感謝しております。
天上界の方々のお導き、正法へのお導きをいただかなかったら、私の人生は一体、どうなっていたのだろう、家族はどうなっていたのだろうと、何とも空恐ろしい思いが致します。
幾多の痛みを背負いながらも、『毎日の思いと行い、即ち生活そのものを、法により、正すことによって、必ずや守護霊様は、救いの手を差し伸べて下さる』のだと、私の幼い心の次元ではありますが、理解させていただいたように思っております。が、まだまだ心に落とさせていただくというレベルには、ほど遠いものと思わせていただいております。
正法にお導きをいただきましたことを、神仏様、正法をお説き下さいました偉大な主・高橋信次先生に、天上界の皆さま、守護・指導霊様に、心から、心から、深く、深く感謝申し上げます。誠に、誠に、有り難うございました。
この辛い一連の出来事こそ、我が正法への原点
この一連の出来事は、私が正法に邁進する出発点であります。神仏様が、偉大な主が、天上界の皆さまが、守護・指導霊様がお導き下さった道であります。これから歩む我が人生の原点であります。まともな神の子に引き戻していただいた原点であります。
私はこの原点を忘れることなく、ともすれば自分に甘く、緩みがちになる心を引き締め、生涯、正法の道に邁進させていただく「縁(よすが)」とさせていただくために、このように文章にさせていただきました。
私は今、この正法に出会わせていただくことを、今生の最大の眼目にしていたことを自覚することが出来ます。そしてこの正法に、多くの方が触れていただきたいという思いから、この文章をしたため、ホームページに掲載させていただくことにしました。
その意味からも、身を挺して我が過ちの道を正して下さった妻に、私の修行の協力者として生まれてきて下さいました最愛の子供達に、そして孫達に、心からの感謝を捧げさせていただくと共に、出来ますれば、彼らも正法の道を選んで下さいますことを、心からお祈りいたします。
6.天上界の方々から頂いたお言葉
この地上に生まれる前の、天上にいた頃の私の思いを教えていただく
天上界の方から、仕事が見つからない原因、五つの問題点を指摘していただいた時に、天上界の別の方から、次のようなお言葉もいただいておりました。
『・・・私たちも、もっともっとあなたのことを心配していました。
私は、あなたが今生、地上に出る時に、一番私は、あなたの行く末のことを案じました。私は、あなたが自分で大体のことを決められたときに、それで本当にいいのかと少し心配しましたが、「私にはこれ位のことをしないと、多くの人々を救っていく自信がない」というようなことを言われました。
ですからあなたは自分でも分かっておられるように、今の苦しい状況も、自ら選んでいったこともあります。ですから、あなたの成就を全うするためにも、今の状況にも負けないでくださいね。
そして大きな大きな光でもって、ご家族と調和をしていっていただきたいと思います。あなたが今まで苦しかったこと、悩んだ寂しかったこと、他の皆さまには理解できないこと、夫婦間の問題、子供たちとのこと、お父さん、お母さんとのこと、それはそれはたくさん悩まれてきたことでしょう。
しかしあなたはこのような状況に負けることなく、想念観察や神理正法に対する熱意で、ここまでやり遂げてきたのです。それを無にしないで下さい。今までやってきたことをどうぞ無にしないで、そして、これが今のあなたの心の中に覆っている不安を全て光に変えていく努力をして下さい。
最初は厳しく感じ、どうしていいか分からないこともあると思います。しかしそのようなときも、どうぞ、どうぞ私たちを思い出して下さい。あなたが祈るとき、私たちは共にいるでしょう。あなたが心を神仏に合わせたとき、私も共に近くにいるでしょう。どうぞ忘れないで下さい。
愛は、どなたの心も溶かしていきます。例えわだかまりがあり、分かってくれない人でも、必ず大きく包み込むことが出来ます。時間はかかるかもしれないけれど全て光に満たされ、愛に勝るものはありません。例えどのような心であったとしても、包むことが出来ます。負けないでください。
・・・あなたの守護霊も、あなたの指導霊も、あなたをいつも応援し・・・、それは勿論、誰の守護霊でもそうですが、あなたの守護霊は熱心すぎるが余り、時々、守護霊間の間で意見が分かれることもあるようです。しかし、いつもいつもあなたを考えている気持ちに変わりはありません。
守護霊にも、そして指導霊にも、あなたを取り巻く多くの人々に今一歩、感謝を上げてください。感謝し、もっともっと針を合わせていくことによってあなたの心配、不安は、安らぎに変っていくことと思います。
心配、不安になった時はすぐさま祈りましょう。祈っても祈っても休まらない時も、祈って祈って祈り続けることによって、不安は消えていくことと思います。
あなたの多くの友は、正法ではないものを信じ、もしかするとあなたがこれから困難を感じることもあるかもしれませんが、それらのことにも負けないで下さい。私たちはいつも、あなたを見ていますよ。
あなたが本当に心安らぎ、家族を調和、お父さん、お母さん、皆さん、周りの人と調和を図る、あなたの本当の光が○○(府や県のこと)全体を、△△(関東、関西、北陸等の地方のこと)全体を光に灯し、やがて地球に響かせていくことを祈っておりますよ。私たちはいつも天上界から応援していますよ。どうぞお忘れなきように。
・・・色々私たち、あなた方以外の存在は、あなた方が思っている以上に、心配しています。あなたが色んな想い、色んな心を持って、多くの人々に呼びかけておられる気持ちを、今度はご自分の家族にいっぱい一杯お渡しして下さい。
あなたなら出来ますよ。お子さまも、奥様も、あなたをお待ちですよ。皆さまと、安らぎの家庭、光ある家庭を築けますよ。これからも応援し、見守っていきます。有り難うございました』
こんな有り難いお言葉を、こんな愛溢れるお言葉を、私はいただいておりました。有り難い限りのお言葉です。何度読み返しても、胸がこみ上げて参ります。
仕事を与えられた後に頂いた、天上界の方からのお言葉
何故仕事が与えられたのか?
仕事お与えいただいた経緯は、妻に家に戻ることを四月十日に告げ、十一日に引っ越しを始め、四月十二日に採用の電話をいただき、四月一六日から勤務を始めたというものであります。その直後、天上界の方から、次のようなお言葉をいただきました。
『自分が決めた(家に帰り不調和を解消するということ)瞬間に、全てあなたに引き寄せられたということです。
川が本来流れているところを、自分がそれをせき止めている状態なんです。そのせき止めている心を自分が外せば、本来の状態が流れていくということになるんです』
当たり前のことでしょうが、天上界の方々は、私の守護・指導霊様も含め、これらのことを全て見通しておられたということでありましょう。「あなたがせき止めているんですよ。あなたが正しい実践に踏み出せば、その堰を外せば、もう仕事は決まっているんですよ」とまでは、言うことは出来ないのでしょうが、そのギリギリの所までを、お教えいただいたということのようであります。
我がペット(犬)の思い
次のお言葉も、前出の方とは異なる別の天上界の方からのお言葉です。
『先ず○○さん(私のこと)、おめでとうございます。
私たちに本当に大きな喜びを有り難うございます。あなたの決心に深く感謝いたします。そしてこれから少しずつ、ご家族の皆さまとゼロから、本当に暖かいものをもう一度築き上げ、本当に皆さまと暖かい家庭、暖かい愛を育てていって下さい。
そしてあなたのペットの△△ちゃん(犬です)にも本当にお礼を申し上げて下さい。彼もとても大喜びです。一番安心しておられます。いつもいつも、あなた方家族のことを心配されておられました。
ペットといっても心はあります。いつもいつも留守番をしながら、今頃みんなはどうしているんだろうか、今度はいつみんなに会えるんだろうか等と、△△ちゃんはいつも心配されておられましたよ(これは、別居中に私が仕事に出かけている時、一人ぼっちでいる犬の△△の思いのようです)。
そしていつもいつも、お父さんお母さん、みんなが一緒に暮らせますようにとお祈りされておられましたよ。△△ちゃんにお礼を言って下さい。そして暖かく迎えて下さったご家族の皆さまに、本当に心から感謝をして下さい。
あなたの本当に、今後の活躍をお祈り申し上げます』
どんなことを、生まれる前の天上界でお願いをしてきたのか、どんなお願いをすればこのようなお言葉が頂けるのか、今の私の心のレベルでは分かりようもありませんが、このようなお導きをいただき、私は人生に於ける正しい道を、やっと歩み始めさせていただくようにならせていただきました。
私と妻が、肉体を抜け出して、天上界にお礼に伺った
そして、次のお言葉にも、こんな世界もあるのかと、感動いたしました。これも、前出の同じ天上界の方のお言葉です。
『あなたの奥様、とても心、いい人です。
・・・あなたと一緒にお礼、言いに来ました。
「お父さん、とても良くなり、私、とても嬉しいです。今まで以上にお父さんがこんなに良くなったの、本当に嬉しく、私は益々、お父さんが大好きになりました。お父さんに一生、ついて行きたいと思っています。皆さま、有り難うございました」』
私と妻の意識が肉体を抜け出して、天上界の皆様にお礼を言いに行ったということのようです。
『奥様は、そのような気持ちで今、おられます。あなたに感謝しても、し尽くせないと思っています。ですからあなたの奥様、まだそのまま言えない、心のまま言えないこと、まだまだお持ちです。あなた、それを解きほぐし、二人でいい夫婦、作っていって上げて下さい。
お子さまも、あなたのお子さま、皆、素晴らしいです。あなたを慕っております。ですけど、慕ってるからそうではなく、あなたもその様に、あなたの心の立場でなく、お子さま達からすれば、一時お父さんいなくて寂しかったです。
お母さんとお父さん、何故こんなことになったんだろう、思いました。お父さんは何故こんなことするんだろう、思いました。ですから、そのお子さまたちの気持ち、それはあなたも分かっているかもしれない、当たり前ではない、分かっているもしれない。
だけど心の調和、お子さま達にして上げられることは包み、あなた、率先して家の中、益々光らせて上げて下さい。皆さん、とても良い家族です。宜しくお願い致します』
偉大な主のご著書、心の発見(神理篇)の一一五頁に、夢について書かれています。
『意識が肉体から離れて、潜在意識の九○%の部分で、あの世や自分に関係のあるその場を見てきた場合は、意識が肉体にもどってきても、ほとんど記憶に残っていないのである』
当然、私の意識と妻の意識が揃って天上界に行き、指導して下さった方々にお礼を申し述べたというようなことは、私達の記憶に残ってはいないのであります。
九〇%の意識、即ち潜在意識が主体性を持って睡眠中は活動しているとお教えいただいておりますが、自分の今の現世での生活からかけ離れた活動をしているのかと思いきや、生活に密着した活動をしているということのようです。
そしてこの心、90%の潜在意識の思いこそが本当の、真の私達の意識であると考えるならば、この潜在意識と自分が意識している現在意識を、調和するように持っていかなければならない、そしてそれは法に沿った実践を積み重ねていくしかない、そういうふうに思わせていただきました。
7.正法帰依
正法帰依の決心をした天上界の方のお言葉
次のお言葉は、私が正法に、本当の意味で帰依する決断をした、天上界の方からのお言葉であります。
『正法というのは、宇宙、どこに行っても変わらないものなんです。
この周合体【注:天上界の方からいただいた言葉は一言一句違わず記したいと思っていますので、この恐らく聞いたこともない言葉もそのまま記します・・・周合体とは宇宙団(宇宙の集まり)のことで、この大宇宙には第一周合体から第十周合体までの宇宙団が存在している。そしてその中の第三周合体と呼ばれる宇宙団の中には、第一宇宙から第七宇宙までが存在し、地球が含まれる天の川銀河は、その第七宇宙に所属しているそうであります。更に、この第七宇宙には、七つの太陽系(人類が存在している)があるそうであります】を出ても、他の周合体でも唯一、どこでも同じく生かされているものなんです。
それがどうして、正法を学んだ人たちがそれぞれ言うことが違ってくるのか、少しずつでも一貫性がないということは、もうそこに、軸にはしてあっても、通用しないものになっては、何にもならないわけです。
しかしそれも、本当にこれ(正法)をやりたいのとか、自分で自分を常に見ていなければ、自分で生長を止めていることに、誰も気づきません。
誰だって、「先生、先生!」って呼ばれたら、嬉しいですよ。
そしてあなた方が出会った先生方は、心を磨いて磨いて、まだまだまだまだまだまだだって思いながら見ていても、丸山さんという形を見ていたら、「ウワー、全然違うな」ってことが、皆さん、分かられるでしょう?
それが何故かって言うと、丸山さんの深い追求というか、自分に対する甘えがないというところで、それが出てくるわけです。そして常に
『自分は、高橋さんによって救われた、高橋さんの法こそ本物だ、だからそれを心に落とさなければ、私などが一寸悟ったくらいで、とうてい理解できるものではない。
だからもっともっと常に自分を見ていかなければ、簡単に元に戻ってしまう、いや、それ以下になる。だから自分も必死になってやっていかなければならない。皆さんに教えて差し上げている、そのような想いを持つ、この私がなんてことを!』
そういう風な常に自分に対する強い想いが、決して法を曲げるようにはなっていかないんです。
それを天上から見ていたら、分かるではないですか。
丸山さんと同じようにやっていかれる方がたくさん出てこられてもいい筈なんです。でもやっぱりどこかで別のものを入れてしまう、確かに素晴らしいかもしれないけれど、これは正法ではないと、切って入れればいいんですけど、繋げて団子にしてしまう、そうするともう、自分の思想が入っていくわけです。
そうすると、○○さんの正法、△△さんの正法、□□さんの正法。正法ではあっても、少しずつ違うものになってしまうわけです。だからそういう方が話し合っても話が合わなくなってきます。何故なら、思想と思想で話し合っているから、心の物差しがそれだから、それは合わなくなってくるのが普通なんです。ところが法を中心にしていれば、どなたと話をしていても、「そうだよね」という風になっていかれるわけです。
正しく、本当のものでない宗教がそのまま残されているのも、皆さんがその心の次元によって神仏を求めていく段階によって、必要な者がいるから残されているだけのことであって、認められているから残されているわけではないんです。
そしてそれらの宗教家であったり、正法だといって各地で勉強されている方々も、警告は必ず受けているはずです。そのままでいいというわけではないんですから、警告はそれぞれ出されているんです。そこで気づくか気づかないかも、すべて自分自身に繋がっているわけで、皆さんに平等にされているわけです。気づける人は幸せですけれど、そうでない方は難しい。
そして又、折角たどりついても、それを手にされない方、眺めているだけの方もたくさんおられます。折角、折角、本当に法に触れられて、それをやりたいという気持ちがあるならば、「本当に正しいものを掴まないで、どうやって自分の今生を終わらせるのか!」と、思いますけれども、まぁそれもそれぞれの次元の求めによってなんですよね。
ですから最終的に正法が、正しく世界に繋がればいいなって、私も思っていますけれども、急にこの正法をやりなさいと言っても、やっぱり難しい人は難しいわけですからね。ですから色んなものを通り越して、正法に出会っていただかないと、分かっていただけない方もいますし、逆に最初からこれだけと言って、素直にそれをされていかれる方もいらっしゃいます。それは千差万別なんです。
ですからそれぞれの方の心の求めに応じたものも必要であるから、それらのものが残されているのであって、決してそれらを推奨しているからそれらを残しているわけではないんです。
ですから皆さん、その違いも心に落としていかなければ、「あれはあれでいいことを言っている」と、又、引っ張られることにもなりますから。
皆さんそれぞれ、『正法とは』というものを、自分に問いかける、本当の正法って何なんだっていう風に問いかけていく、思想ってどういうことなんだ、正しい法って、法があるってどういうことなんだというようなことを、自分で心でハッキリ掴むようになれば、又、大きい悦びが、皆さんにも待っていると思います』
このお言葉をお聞きして私は、「天は、神は、偉大な主は、私に正法の道を歩め! そして今、正法を正しく指導しておられる丸山先生の門を叩け! 強制は出来ないけれど、決めるのはあなただけれど、天は、神は、偉大な主は、この道を進め!と仰っておられる」、このように受け取らせていただきました。
天上での自分の決心を、今生、果たさなかったら・・・
更に同じ日に、別の天上界の方が、次のようなこともお教え下さいました。
『あなたたち今、天上に主が還られても、本で学べます。テープを聴けます。CD聞けます。けれども今生、遊んでおいて、来世、生まれ変わって、もう一回修行させて貰うよと言っても、仮にそれが為されたとしても、その時、本当に学べるもの、あると思いますか? チャンスは、そんなにそんなに、いつもいつも、あるものではないのです。
そして今生、自分が今度、正法に出会い、これをやりますと宣言しておきながら、しなかった場合は、どうなることになるでしょう? 私たちが皆さんを許したとしても、あなたたち一人一人、「あぁ、そうですか、なら、私帰らせて貰います」、その様な心で(天上界に)帰ってこられると思いますか?
矢張り皆さん、自分の神性に基づいて反省なさったとき、とても帰れる気持ちにはなれないと思います。折角正法に出会いながら、道を踏み外してしまったり、自分こそ正法をやっているなんて言う愚かな人が、大間違いです。例え今、正法をやっていると思っていても、常に自己反省していく心が必要でございます』
正直言って、この時点での私は、丸山弘先生と仰る方を、ほとんど存じ上げておりませんでした。しかし、天上界の方がこれほどまでに仰る方がおられ、そして「それがあなたの進むべき道だ」と仰って下さる、そしてその道こそが、自分が天上の世界で決心してきたことだと思えた以上、私はそのお言葉に従わない道を選択することは出来ませんでした。
私はこの日、正法帰依を、本当の意味で決意いたしました。
8.この体験を通じて私が感じ、そして皆様にお伝えしたいこと
(この項は、後日、追記しました)
この信じ難いような私の体験を通して、このブログをお読みの、そして正法に携わろうとお考えの皆様に、誠に僭越ながら私は、次の二つのことをお伝えしたいと思っております。
一つは、
法に帰依すると宣言してこの世に生まれた人は、恐らく過分な加護(奇跡の先取り)をいただいているのではないか?
ということであります。
当然、私事でありますが、私は、明るみに出てしまったら、世の中から非難され、場合によっては法律に抵触し、世間から抹殺されてしまうかもしれない事柄が何件かあります。
幸いというと語弊があるのですが、それらの一つでも人の知るところとなってしまっていたら、私の人生は大きく狂ってしまっていたであろうと予想できます。
狂ってしまっても、法に出会ってその素晴らしさを自覚し実践したならば、今に近い心境になれるかもしれませんが、恐らくは、その狂ってしまった道では、法に出会い、帰依することは、あり得なかったのではなかろうかと推測できます。
そして、正法に出会うことが出来なかったとしたら今頃は、人生の底辺で、苦しみに呻吟していたのではないかという気が致します。
何故、その悪事が意図的に覆い隠されて、結果として法にお導きをいただき、大いに大いに反省をし、過ち多き人生の道を軌道修正することが出来たのか?
誠に思い上がった考えかも知れませんが、ひとえに、あの世で、「法に帰依し、人々にお伝えしたい」と希求し、宣言してきたからではないかという気がしています。
『人は、犯した罪を、反省するだけで許されるのか?』
これは長い間、私の大きな命題でありました(大変僭越ではありますが、ご著書『人間釈迦』に、阿南様が同じ感慨を述べておられます)。
偉大な主のご著書に、『愛は憎しみを越えて』という本があります。
戦中戦後の日本で、母親が台湾人であるが故に差別され、貧乏な少年時代を過ごして、成人してからは高利貸しで財をなし、金のためであれば、債務者が自殺をしようと、気にかけなかったような人物が、病に倒れ、意識不明の中で人生の反省をさせられ、改心し、人の役に立つように、心を入れ替えた人生を送るというようなあらすじであります。
私はこのご本を何回も読ませていただきましたが、読むたびに感動はするのですが、法律に触れないというだけで、殺人に近いことをやった人間が、反省しただけで許されるのかという疑問を、ずっと持っていました。
このたび、私の生い立ちを反省したとき、この疑問が心の中で大きく膨らんできました。私も反省はした。でも、それだけで許されるのか、と。
そこで改めて、ご著書『愛は憎しみを変えて』を拝読させていただき、またまた強く心を打たれました。
主人公は病に倒れ、生死の境をさまよう間、守護霊から自分の今までの生き様を一コマ一コマつぶさに見せられ、深く深く心から反省をされます。
自分が自殺に追い込んだ老夫婦が死地におもむくところでは、『僕が悪かった。死なないでくれ!』と叫んでいました。
そして、全ての反省が終わったとき、『自分を地獄の最も厳しいところに落として下さい』と守護霊に頼みます。『それしか償いようがない』と。
そこで守護霊は言います。『地獄に送ることはいつでもできる。お前を地獄にやっては、お前の身近な者や債務者がかわいそうだ。もう一度肉体に戻って、罪を償ってきなさい』と。
心からの反省、どんな罰でも受けるという自己をなくした態度、そこまで反省が進めば、神はお許し下さるであろうし、被害者もきっと、生命は生き通しであるということを理解されれば、許しの思いを持たれるのではなかろうかという気がしました。
私の犯した罪は、幸か不幸か、追跡調査をしたわけではないので確実なことは言えないのではありますが、恐らく人さまを死に追い込むほどのものではなかったであろうと思っております。
それが故に、どうしても反省が中途半端になってしまい、先述の偉大な主のご著書のように、『最も厳しい地獄に落としてください』とまで、自分を追い込むことが出来ないでおります。
悪かった、申し訳ございません、二度とそのような思い・行いは決して致しませんと反省しても、『私の罪は、地獄相当です。突き落として下さい』とは、いくら力んでみても、そこまでは思えないのであります。
このことが不謹慎にも、『幸か不幸か』と先ほど言った原因なんですが、然らばどうすれば罪の償いが出来るのか?
他に慈愛を施させていただく、困っている方に手を差し伸べさせていただく、これも簡単にできることではありませんが、このことを心に把持し、実行できることは実行して日々を送らせていただくしかないのではないかと思っております。
このブログをお読みいただいている方の多くは、『何故こんなに旨く行ったのだろう?』とか、『お救い、お助けをいただいたのではないか!』と思えるような出来事が少なからずあったならば、あなた様も、法に帰依する決心をしてきたが故のお救いかもしれません。
貰いっ放しでは、お返しをしないでは、バランスが取れないことは理の当然であります。
お返しの方法は、法に帰依し、縁ある方々に法をお伝えする、困っておられる方々に慈愛の手を差し伸べさせていただくことだろうと思っております。その第一歩は、法帰依であります。
私も、このお返しの思いを確りと自覚して、これからの人生を歩んで参りたいと思っております。
今ひとつは、
正法帰依にあたって先ず、何をすべきであるか、そして何を継続していくべきであるか
ということであります。
私は今現在、毎日、下記を最低限のノルマとして、行わせていただいております。
・ご著書 心の発見(神理・科学・現証編)、人間釈迦(1~4巻)の拝読(心の発見は、6ページを三回。人間釈迦は、3ページを二回拝読)
・心行・祈願文拝読、先祖供養(心行一回)拝読、健康祈願(心行三回)拝読
毎日、最低、3時間程度の時間が必要となります。どんな用事があっても、睡眠時間を削ってでも(最近は年齢的・体力的なこともあり、出来なかった事柄は、翌日に繰り越して実践するようにしております)、これらを欠かさないようにしています。
更に、特別な用事があるとき以外、恐らく月の内の25日以上は、反省瞑想や他のご著書の拝読なども行い、もっともっと多くの時間を法の学修に充てさせていただいております。
これは時間が取れるからできるのであって、仕事をお持ちの方などは、とても時間が取れない方もおられることと思いますが、正法の基本は、何はさておき、ご著書の拝読とお教えいただいております。
正法に帰依して5年経とうが、10、20年経とうが、はたまた心の窓が開けようが、自分の生き方にブレが無いかを毎日ご著書の拝読を通して確認するためと、自分の心のレベルに従ってご著書拝読からいただけるものが違ってくるので、何回読んだから、何十回、何百回読んだからといって、お終いにするものではないと、お教えいただいております。
まず第一歩を踏み出そうと思われましたら、『心の発見』と『人間釈迦』を、自分が決めたページ数を、どんなことがあっても拝読すると心に決められて、実行に移されますことをお勧め致します。
拝読が進まれましたら、自ずとその先に行うべきことが、ご自分で見えてくることだと存じます。
先ず、その一歩を踏み出されんことをお勧め致しますと共に、お祈り申し上げます。
9.おわりに
拙い私の文章を最後までお読みいただき、有り難うございました。
もうお分かりと思いますが、私がこの文章を書かせていただいた最大の趣旨は、この文章をお読み下さる貴方様が正法に心を振り向けられ、正法こそ自分が天上界で決めてきた進むべき道ではないかと思われ、正法に人生の梶を切っていただくことであります。
私は、天上界の方から手取り足取り導いていただかなかったら、正法にたどり着くことが出来ない哀れな人間でした。
今、縁あって、この文章を読んでおられます貴方様が、このホームページに来られ、この文章を読まれたことは、恐らく天上界のお導き、守護・指導霊様のお導きと存じます。
偉大な主・高橋信次先生は、次のようにお教え下さっています。
「(正法を)今生で行じられない者は来世で、来世で行じられないものは再来世で、いつかは行じなければ、安心という至宝を手にすることはできない」と。
しかし、何百年後かの来世で、偉大な主のご著書がこの世に残っているという保証は全くありません。そんな状態で、どのようにして正法に縁を持つことができるのでしょうか?
ご著書やビデオの現存する今生しか、“今”しかないのではないのでしょうか?
ともあれ、正法は、実践さえすれば、必ずお救いを頂けます。と言うよりは、正しい道を歩めば、自ずと正しい人生に修正される、そのような法則と言った方がいいでしょう。
苦しみのどん底におられる方にとって、この言葉はただの慰めなんかではありません。しかし、このことは、実践された方しか、実感できないことだと思います。法に適った実践こそが、貴方様の苦しみを解決する鍵であることをご理解いただけましたら幸いです。
正法を説かれました偉大な主・高橋信次先生は、三億(六千五百)年ぶりに肉体を持たれたそうです。偉大な主の正法に出会うということは、『千載一遇』というレベルでは全くなく、『三億載一遇』の出来事と言うべきでしょう。
恐らく私達がこれから何百回、何千回、何万回、転生輪廻を繰り返しても、偉大な主にこの現象界でお目にかかる(私は残念ながら、今生お目にかかることは出来ませんでしたが、幸いなことに、唯お一人、正しく法を受け継がれておられるお弟子さん、丸山弘先生のご指導をいただくことが出来ました)ことはおろか、ご著書に巡り会うということも、期待し得ないのではないかと思わせていただいております。
この縁生、機会を本当に大切に思われ、真剣に、偉大な主のご著書を拝読され、正法に取り組まれることを願って止みません。
正法帰依、正法第一を実践されますと、その先の世界には、今まで感じたこともない安らぎの世界、天上界からの導きの世界、悦びの世界が、展開していることを実感されると思います。
是非、その世界を体験していただきたいと存じます。私もそれをもっと深く深く実感したいと念願している一人であります。
最後までお読み下さいまして、本当に有り難うございました。心から感謝申し上げます。