イチゴのナメクジ被害をネットで調べる
我が家には狭いながらも庭があり、花壇や畑、池に利用しています。
温かくなると共に、去年植えた苺のランナーから取った苗から早々と赤い苺がなりました。
しかし残念ながら、その第一号だけでなく第五号ぐらいまで、虫にかじられてしまいました。かじられた後は無惨なもので、柔らかく甘いので、丸虫や蟻が群がっています。かじられていない苺は、表面が堅いので、丸虫や蟻は歯が立たないようであります。
さあ、どうしたものかと、早速、ネットで調べることとしました。
色んな害虫の記事なんかもあるのですが、我が家に合致する記事もすぐに見つかりました。どうやら我が家の天敵はナメクジのようでした。そして、そのナメクジを来なくさせるには、コーヒーの出がらしを撒いておけばいいと書かれていました。
当然のことながら、即日実施ということにしました。
これで防げるのか、的外れなのか、結果はすぐに出ました。
大正解! 翌日は、結構甘い美味しい苺が食べられました。
でも、次の日にはまた、ナメクジが食いついていました。効果は短期間か?
その日以降は毎朝、ナメクジが居ないか、居たらすぐにピンセットでキャベツに移動させました。ナメクジがキャベツが好みか否かは分からないのですが・・・。
今の私たちは、何か問題にぶつかると、すぐにパソコン、スマホに向かって、解決策を調べることが出来ます。
当然、正しくない情報や、出来ることなら目にしたくないような、感情をぶつけた投稿なんかもありますが、この苺のような物理的な事柄に対しては、取捨選択は必要でしょうが、自分が望む回答に行き着くことが多いように思えます。
しかし、精神的なことが絡む出来事、心に関係する問題に対しては、なかなか望む答が得られないようであります。何が正しい情報で、何が間違っているのか、正しいとはどういうことを言うのかさえ分からないような状況ではないでしょうか?
真に精神的なものをネットで求めて得られるのか?
世の中の殆どの宗教が、拝めば病気が治る、お経を上げれば裕福になれる、○○の神を祀れば幸せになれると言っているようです。でもチョット一歩引き下がって、「そんなことは本当にあり得るの?」と考えれば、「そんな馬鹿な!」という答が自分の中から返って来ることでしょう。
でも、現に今溺れている人は藁にも縋り、欲望にがんじがらめになっている人は、自分が何を信じ何をしているかを振り返ることも出来ないのでしょう。人間以下の蛇や狐に縋る人までおられるようです。
だから、その反対の思いを持っておられる人の投稿も多いようであります。そして、どうしてなんだろうと思うのですが、こういう反対の極の人はほとんどが、怒りに満ち、感情的な言葉を投げかけているようです。読んで貰うためではなく、自分の感情のはけ口にしているのでしょうか?
その昔、お釈迦様が、人間の生き方をお説きになられました。しかし、お釈迦様の教えはいつの間にか、お経を上げる宗教、葬式宗教、観光宗教になってしまいました。その、どれ一つとして、お釈迦様が「こうしなさい」と仰ったものはないそうです。
イエスさまの教えも、私はあまり深く学んだことがないので間違いがあるかも知れませんが、教会で祈りを上げる、イエスさまに祈りを捧げる、胸で十字を切ることによって、救われると言われているそうですが、イエスさまはそんなことは一切仰らなかったそうです。
後の人々が、自分の都合や、勝手な解釈などにより、正しい教えを曲げて伝えてしまったようであります。従いまして、仏教、キリスト教と言われている世界には、もうずっと前から、正しい教えというものは消え去ってしまっている、形骸化されてしまっているということなんでしょう。
お釈迦様の最後の弟子、シヴリダ
お釈迦様の時代に、シヴリダという修行者が居られたそうです。
お釈迦様の涅槃(死)に入られる直前の八十一歳の時に、お釈迦様の年齢を遙かに超えた百十七歳のシヴリダが尋ねてきたそうです。シヴリダは、本当の悟りを得た人に教えを受けたいと、やせ衰えた身を杖に託してお釈迦様のところに辿り着きました。
その時、お釈迦様は横になって休まれておられたそうですが、「最後の弟子が来た」と仰り、側近の方がお釈迦様の身体を心配する思いを退けられ、シヴリダに道を説かれました。「正しい中道の物差しで人生を歩むことが、悟りへの道である」と、お説きになられました。
お釈迦様の教えを受け、心から納得したシヴリダは、「私を弟子にして下さい」とお願いをし、その上で、高齢の自分がお釈迦様より後に死ぬことは忍びないと許しを得た上で、その日の内に、お釈迦様より先にあの世に旅立たれたそうです。
中国の孔子の言葉に、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉を学校で習いましたが、正にこのシヴリダは、お釈迦様の教えに心から納得して、この世の肉体生命の終わりを迎えたのでしょう。
人間はこの世に生まれ、ほぼ100%の人が盲目の人生を歩んでいます。一歩先は闇の世界です。明日何が起こるか、どんな幸・不幸がやってくるか、自分の持ち物と思っている自分の身体であっても、いつお別れするかということすら分かっておりません。
ネットで正しい教えに出会うという確率は、このお釈迦様の時代のシヴリダがお釈迦様に出会えたという確率よりも、もっと低いかもしれません。
でも、真に求めている人がいらっしゃっても、諦めたらそこで終わりです。
真剣に求めたなら、このシヴリダのように、いつかは導かれていくものでありましょう。「叩けよ さらば 開かれん」「求めよ さらば 与えられん」であります。
でも、シヴリダは、お釈迦様の教えを聞いて、「これぞまさしく正しい教え」と分かられました。理解すべき気根を持っておられたということでしょう。
私たちは果たして、砂浜でダイヤモンドを探すような確率の正しい教えに出会えたとき、「これぞまさしく正しい教え」と分別することが出来るでしょうか? 何を以て、正しいと判断するのでしょうか?
尤も、このことは、心の底から、正しい教えを求めている人にしか言えないことではありますが・・・。