私たちはどのようにしてこの現象界、地球に生まれてくるのでしょうか?
私たちは天上界で、地上に生誕してからの、大まかな予定を決めてくると教えていただいています。その最たるものは、当然のことながら、どの両親の元に生まれるかということでありましょう。
両親が決まらなければ、他のことは何も決まらないことになります。生誕地は日本なのかアメリカなのか。日本であっても東京なのか九州なのか。誰の元に、どこに生まれるかが決まって、その先のことを計画するのでありましょう。私たちの地上人生の根源ということが出来ます。
私たちは普通、自分が生まれたい両親の元へ行って、子供として生まれさせて欲しいとお願いするそうであります。当然、こんなことをしたい、あんなことをしたいと、自分の人生の在り方に思いを巡らせ、この自分の考えている人生を全うさせてくれる両親はこの方たちであろうと思って、お願いすることでありましょう。
日本のこの方たちにお願いしようと思っていても、断られてしまい、次善の策として、アメリカに生まれる予定の別の方々にお願いするというようなこともあるかも知れません。そうなると当然、色んなことの計画変更も余儀なくされることでしょう。
私たちはこの地上生活を始めるときに、今までの記憶を全て潜在させて生まれてきます。従って、私たちが送るこの地上人生は、真っ暗闇を手探りで生きていくが如く、又、めくらがこの地上を歩くが如く、一寸先は闇の人生であります。
したがって、多くの人は自我の意識に支配され、自己保存の思い、自我我欲の思いに囚われ、己の心の魔に支配されて、この現象界を生きていくようです。だから当然のように、両親に対する親孝行はおろか、感謝すらしない人生を送る人が多くなっていくのでしょう。
しかし、その暗闇の人生の先導役が、私たちの魂の兄弟、守護・指導霊様であるとお教えいただいています。
私たちが肉体を持った当初、即ち赤ん坊の頃は、守護・指導霊様の姿を見、声を聞いているそうです。しかし次第に自我意識が芽生えるに従って、心に曇りをつくり、段々と遠ざかってしまうそうであります。
私たち肉体人間側からは、何も見えず、何も聞こえなくても、守護霊様側からは全てが見通せるため、常に24時間、私たちに気づきのための声(波動)を送って下さっておられるそうであります。
そして私たちがふと、ポスターを見るとか、本屋に立ち寄るとか、友達から話を聞くだとか、インターネットの記事を読むだとかして、守護霊様の導きをキヤッチすることがあります。そして段々と、天上界で予定していた心の道(正法)への関係を強化していくというプロセスに足を踏み入れることになるようであります。
私もそうでしたし、このブログをお読みの皆さんも、例外では決してないことと存じます。一人残らず、守護・指導霊様の導きにより、この世界に足を踏み入れたことでしょう。だって、私たちはめくらなんですから。めくらがこの正法の世界だろうと精神世界だろうと、どの世界であろうと、導きを全く受けずに偶然入る確率って、どう計算すればいいかは知りませんが、きっとあり得ない確率ということになるのではないでしょうか。
精神世界の種々雑多
しかし最初に足を踏み入れる精神世界は広大な世界です。諸々の宗教もこの世界に入っていることでしょう。宗教と精神世界の境は、これといって明確な一線があるわけではないようですから。
広大であるだけに、精神世界全てが素晴らしい世界であるとは限りません。当然、偶像崇拝的な宗教から、エネルギーグッズ等の商売目的から、宇宙人による他力的救済から、自力とはいいながら霊的力を求めるものから、先生・教祖と言われる方の数だけ種類もあるのではないでしょうか。
このような世界で、心の問題を取り上げている教えは、大変、大変、少ないと言わざるを得ないようです。本来、心の問題(曇り、わだかまり)をクリアーにした結果、霊的能力が身につくのが本筋であるとお教えいただいていますのに、今、この世界に氾濫している風潮は、面倒極まりない心の浄化をそっちのけにして、てっとり早く、霊的能力を身につける方法ということが出来るのではないでしょうか?
そしてそれが覚醒だという説明をして、安らぎを求める人々に人気を博しているようであります。しかし、心の問題をそっちのけにしての覚醒(霊的力)は、まさしく、「きちがいに刃物」「幼子にビストル」ということが出来ましょう。
話がちょっと横道に逸れました。
守護・指導霊様の導きで精神世界に入ったはいいが、その中も縦横無尽に道が走っています。どの道を進めばいいのか?
横道に入ってからでないと、なかなか本道・心の道に進めない方もいらっしゃいます。私もそうでした。今から考えると、私の場合は、いつの時期かに本道に入りながら、自分ではそれが本道だと分からず、色々と力を求める道などを遍歴した後、以前に教えていただいた道が私にとっての本道だったと、改めて教えていただきました。
遍歴をしないで本道だけを進んでいれば、いつか横道に逸れてしまったかもしれませんが、最初から、「これだ」と分かっていたら、いらない時間を過ごすこともなかったとも思ってしまいます。
心の道の第一のドアは、両親への感謝
本道は、「心の道」です。心を磨く道です。神の子としての道です。愛の子としての道です。光の子としての道です。過去の悪しき思い・行いを反省し、心を浄化し、愛を実践し、光を現していく道です。この心の道を正しくお教え下さっているのは恐らく、高橋信次先生がお説き下さった正法しかないのではないでしょうか?
心の道の第一のドアは、「両親への感謝」です。これが第一のドアです。人によっては大きな大きなドアです。重い重い扉かもしれません。しかし第一の扉です。この扉を開かないと、前には進めません。正法・心の道へ進んでいくことが出来ません。
恐らく今まで私たちは、正しい道を歩んでいるように思ってきました。何年も、人によっては十年、二十年、何十年も。
しかし、私たちは正しい道を歩んできたのではなかったのです。正しい道の周りをぐるぐる廻って、知識を吸収していただけなのです。一歩たりともドアを越えて歩んではいなかったのです。その一歩は、第一のドアを開けないと歩めませんから。そのドアが、「両親への感謝」です。
何故、両親への感謝が大事か?
私たちは両親に対し、色々な特別な思いを抱いています。他人ならそうでもないのに、自分の親であるが故の、度のきつい、色のついた、更に捻れて見える眼鏡を通して見ています。
自分の想念を第三者的に見ることより、両親を、両親の心を推し量ることは、もっと難しいのかもしれません。あんなことをされただとか、こうして貰えなかっただとか、自分の親であるが故に、甘えの構造というか、全く公平には見られないようです。
冒頭に書きましたが、私たちは両親に、子供として生まれさせて欲しいとお願いするそうです。私たちはこの世に誕生して、こんなことをしたい、あんなことをしたいと目的を持って生まれてきます。そのスタートが、両親を縁として生まれてくるということです。自分の目的に合致した人生を送ることが出来るであろう両親を、自分で選んで、頼み込んで生まれてくるのです。
もしこの事実が受け入れられるなら、「子として誕生させて下さった」ことだけで、私たちは感謝の筈であります。五体満足に(不満足でも)生まれさせていただいたことだけでも感謝で一杯でなければならないはずです。にもかかわらず私たちは、心の中に、不平不満、愚痴、怒りなどを押し殺し、ある時はぶちまけて両親と過ごしてきました。
もし生前の記憶があったなら、両親は物心ついたあなたに、「さあ、あなたの望み通り、あなたを生み、ここまで育ててきましたよ。これからはあなたが親孝行をして返してくれる番だよ」と言われるかもしれません。
でも私たちの両親は、どんなに苦しい人生であっても、どんなに辛い人生であっても、そんなことはおくびにも出さず、只ただ、私たちを愛し、育てて下さいました。恐らく自分のことよりも、子供のことを第一にして・・・。
両親の表現は全て愛の表現
両親の愛の表現は、何が正しいことかを知らないが故に、神理(正法)を知らないが故に、その表現の仕方を知らないが故に、きつい言葉や行動として表れたかもしれません。むしろ、そういう人ばかりと言うことが出来るのかもしれません。
でも、その底流に流れているものは両親の愛だと、私たちのためを思つての行為だと、心の道を歩もうとしている私たちなら、分かるのではありませんか?
私たちはこの地上に、決して、怒り、愚痴、不平不満、そのようなものを表現するために生まれてきたのではありません。足ることを知らぬ欲望の充足、お金や地位や名誉、人の上に立って号令をかける、そのようなことをするために生まれてきたのではありません。
人々の間に、全ての存在の間に、調和を生み出すことを目的にこの世に生まれて来るとお教えいただいています。自分の心の歪みを修正し、調和を根底として、神の子としての愛を、光を表現するためにこの世に生まれて来るとお教えいただいています。その表現の最小単位の場が家庭ということになります。
そしてその根源、スタートが、両親を縁としての、この世への誕生です。
この誕生を自分で祝福できなくて、どうしてその後の人生を祝福することが出来るでしょう! 肉体人生の窓口、機縁となって下さった両親への感謝がなくて、どうして肉体人生を全うすることが出来るでしょう!
今の自分は、過去からの集約なんです。今の思い、考え方、思想のあり方、それらは全て両親から受け継がれてきているものです。その両親を否定していて、自分を変えることは不可能です。
自分自身がこの世に出生するときに、自分の両親を選び、自分の伴侶や兄弟を選び、そして大体の大筋を書いて私たちは生まれてきました。両親を否定する、感謝が出来ないということは、その自分自身の決めてきたことを否定することと同じことになります。自分の存在を否定することにも繋がっていきます。
片手で自分の人生のスタートを否定し、もう片手で自分の幸せを求めて、幸せが得られるはずが無いのではありませんか? でも、そうしているのが、現代の多くの人たちではないのでしょうか?
ご両親を心の底から愛しいと感じるようになるまで、自分の中にあるわだかまり、心の中にある悪しき思いの反省を為しきっていきましょう。私たちを今生、この地球上に送り出してくれた私たちの根源をどうぞ、愛しいと思えるようになるまで、心の中の、両親に対するわだかまりをしっかりと反省し切って行きましょう。
当たり前など一つもありません。全て全て感謝です。
生んで下さったことも、おっぱいを飲ませて下さったことも、おしめを替えて下さったことも、風呂に入れて下さったことも、あやし寝かせて下さったことも、手を引いて下さったことも、優しい言葉をかけて下さったことも、寝顔を見ながら「大きくなれ」と声をかけて下さったことも、何かあると自分のことのように心配して下さったことも、理不尽に殴られたことも、寒い夜に家の外に放り出されたことも、きつい言葉で叱られたことも、大きくなってからもやはり何かにつけて心配して下さったことも、全て全て感謝です。どうぞその頃の私たちを思い出しましょう。その時のご両親の心に思いを馳せてみましょう。
もし、「生んでくれと言った覚えはない」だとか、「感謝に値する親ではない」だとか、何らかの反発する思いが出てきたら、その思いを見つめてみましょう。そして、自分の心、自分の中の神に通じる善なる心に、「本当にそうなの?」と聞いてみましょう。
ある存在の方が仰いました。「あなたの親が、手で殴っただとか、足で蹴っただとか、きつい言葉で心に傷を付けただとか、そんなことが何だというのですか! あなたがここにいる、あなたが生まれたいと願ってここにいる、それだけで感謝ではないですか!」と。
両親への感謝は、出来ればご両親がご存命の間に為しきりましょう
両親への感謝、このドアをそっと開けましょう。比較的簡単に開けられる方もいらっしゃることでしょう。でも、重く重く感じられる方もいらっしゃることでしょう。この文章だけでは重い腰が上がらない方もいらっしゃることでしょう。でも忘れないでいましょう。このドアを開けない限り、私たちは正法の周囲を歩き回っているだけで、一歩も足を踏み入れていないのだということを! 本当の心の道を歩み始めてはいないのだということを!
そして、このドアを開けることができた私たちは、私たちの生きている世界が一変することを実感されることでしょう。心の道、心を磨くということはこんなにも素晴らしい世界であったのか、ということを実感されることでしょう。正法へのドアであると同時に、安らぎへのドアであり、私たちの心のドアが開かれた瞬間でもあります。
そして、ご両親への感謝の扉を開く鍵は、相手、即ち両親の言葉や行動にあったのではなく、私たちの心の中にあったことを実感されることでしょう。
もし今、ご両親がご存命なら、是非是非、今の内に反省を為しきりましょう。恐らく過去世でも為してきた親不孝のカルマを、今生で精算することが出来ることでしょう。思いっきり、これでもかというほど、ご両親に恩返しをしましょう。親孝行をしましょう。今生で親孝行の卒業をしておきましょう。
お金や物でないことは、もちろんお分かりですよね。
もしご両親が既にあの世にお帰りの方も、私たちの生命が生きている内に感謝いっぱいの思いに切り替えていきましょう。
この世で親不孝をしたり、感謝が出来なかった人は、あの世に帰ってから、自分の善なる心に反省を強いられるそうであります。
もし万一、地獄に堕ちてしまったら、同類の悪霊が邪魔をするために、反省もままならないそうであります。
あの世で反省をしなければならないのであれば、今生、生きている間に実践する方がずっと易しいそうであります。邪魔をする者がいないからだそうです。
でも残念ながら、ご両親が亡くなられてからの反省感謝では、卒業とはならないそうであります。この世に於ける実地試験にパスしていないそうであります。だから恐らく来世でも、両親に感謝というテーマをクリアーするような課題を抱えて生まれてくることになるようです。
従いまして、もし両親がご健在であれば、生きておられる間に、感謝一杯の親孝行をされ、来世はそんな課題を抱えて生まれないで、より明るい、調和の取れた親子関係を結べるようなストーリーを描いて生まれてくるようにしたいものです。
私は残念ながら、親不孝の限りを尽くし、両親が亡くなってからの感謝になってしまいましたので、来世でもう一度、親に感謝という実地試験を受けなければならないようです。
来世に生まれてきたとしても、法にたどり着かない、法を教えていただけない状況で、両親への感謝が如何に大切であるかを理解するのは、今生と同じように、なかなかに難しいものがあると思っています。イヤ、むしろ、その理解に辿り着けないのではないかと危惧しています。
従いまして、来世は今世以上に、如何に早く法にたどり着くか、如何に早く法に帰依するか、そのことを最大のテーマに生まれてこないと、両親への感謝の実地試験に通ることは容易ではないのではないかという気がしています。
そういうことからして、私には来世も厳しい厳しい人生が待っていることが予想されます。もう一度、心の道への入口の門を、この世の実地試験でくぐらなければならないのですから・・・。
ご両親が健在の方は、ご両親への感謝を実践する願ってもないチャンスです。来世を待つことなく、今生で、卒業試験を受けることが出来るのですから。
存命中に親孝行が出来なかった、感謝一杯になれなかったということは、自分が蒔いた種とはいえ、そのチャンスを今生与えられている皆さんは、私にとってはうらやましい限りです。
大いなる勇気と、愛と感謝の心がいつもあなたの友でありますように。