母の日と父の日
昔といってもどれぐらい昔なのか、母の日はあっても、父の日はありませんでした。
ざっと調べますと、まず母の日は1950年頃に、日本にもアメリカから伝わってきたそうです。が、一般に認知されるのは、1980年頃からのようで、ご多聞に漏れず、デパートなどの販売キャンペーンに乗せられて広まったようです。
でも未だに、母の日は広く認知されていても、父の日はなかなか普通には浸透していないようであります。
その原因は、感謝されるべき当人、即ち父親側にも責任の一端があるのでしょう。
母親は子供から贈り物やお祝いをされると、喜色満面で喜びを表現します。
一方父親は普段から、祝いなんかしなくても良い、などと口に出し、実際に祝いをされても、本当は嬉しいにもかかわらず、母親ほど喜びを表現することが無いようで、子供たちの祝ってあげたいという意識も段々と萎んでいってしまうのではないでしょうか?
これは日本の昔の古い風習(余り感情を表現しない)がその一因となっているかも知れませんが、段々と是正されていくのかも知れません。
また、子育てそのものが、どうしても母親の比重が大きく、父親は意識して関与したところで、時間的にも、恐らく精神的(感情的)にも、母親の及ぶところではないようであります。
一般論のように書きましたが、これは我が家の実態そのものですが、我が家の実態が世間の縮図なのではないかという気がしております。
男親として母の日、父の日に思うこと
父の日は、母の日があるのに何故無いのか、という思いから生まれて来たようです。
言うなれば、自然発生的ではなく、論理的に生まれてきました。「不公平ではないか?」というような感じで。
だから元々の由来から考えると、母の日は子供の自発的な思いから出来てきたものであるが、父の日は本来、そういう形で生まれてきたものではないということです。
この父の日、母の日の生まれ方はやはり、子供の素直な母親に対する思い、父親に対する思いを反映しているのかもしれませんね?
天上の世界での夫婦の約束、親子の約束、
話の論点が大きくずれてしまいますが、私達が天上の世界で、「この人を夫に、この人を妻に」と約束をして生まれてきますが、その約束通りに夫婦になられる方は、何と2割程度しかおられないということのようであります。
俗に言う赤い糸を見つけられない人は8割に上るということのようです。逆に言いますと、8割の方が約束をしてきた人以外の方と一緒になられるということになります。それ故に又それが、離婚の誘因といいますか、困難に出会ったとき、一緒に耐えていこうという思いに欠けることに繋がっているようでもあります。
また、子供はどうして夫婦の元に産まれるかということは、これも天上の世界で、夫婦になる予定の人のところへ、子供になって生まれたい方がお願いをされることが多いようであります。
まれには、前世でお世話になったから、今度は子供として生まれてくれたらキチンとした子育てをして恩返しをしたいというようなケースや、その逆のケースもあるようですが、どんなケースであっても、夫婦になる人と子供になる人とが必ず約束をしてそれが果たされることになるようであります。
然らば、8割にも上る約束をしていない人と夫婦になってしまった場合は、子供はどこに生まれたら良いんでしょうか? 生まれることは出来ないんでしょうか?
高橋信次先生は、まれに例外はあるが、ほとんどの場合は母親側に生まれてくるとお教え下さっています。
そしてその理由は、子育ては母親の比重が非常に大きいから、ということのようであります。
当然このブログでも何度も申し上げていますように、夫婦の調和ということが子育てには最も大きな要素ではあるのですが、そういう調和された家庭にあっても、母親が子育ての大半を担っていることは否めない事実でしょう。
逆説的に言いますと、約束した女性と一緒にならずに別の女性と結婚した男性は、約束した子供は一人も居ないで、全ての子供が約束していなかった子供ということになってしまうのであります。
ちょっと、あまりに男性側が寂しい話なので、例外も書き添えておきましょう。
例えば父親が医者になり、その子供として生まれてくる魂も父の跡を継いで医者になるという計画を立てていたような場合は、母となるべき人が他の人と結婚してしまっても、母の方につかないで、父親の子供として生まれてくるケースがあるそうです。
ヒョッとすると、不幸にして離婚したけれども、その子供を父親が引き取るというケースなども、子供が父親側に生まれてきたというケースがなのかも知れません。
更に付け加えますと、キチンとした約束はしていなくとも、縁のない人と親子になることはないようで、むしろ親子の約束をしていてもおかしくないような縁の深い人が、子供として生まれてきてくれるようであります。
袖すりあうも他生の縁というぐらいですから、約束をしていなくとも、親子になるにはそれなりの深い深い縁が、元々あるということになるのでしょう。
我が母のこと
私の母は、昔のことながら、何と10人の子供を産まれました。
今、このように書いて初めて気がつきました。
高橋信次先生も10人兄弟で、高橋信次先生が若い頃に病気になられたとき、そのお父様が、『十指の一本が傷ついても痛いものだ。十人の子は皆可愛い。一人でも欠けては悲しいものである』と、常に仰っておられたことが書籍に書かれていたことを思い出しました。
私の家族は悲しいことに、10人の兄弟の内、3人(長男、4・5男:双子)が亡くなっております。みんな、生まれて間もなくのことであったと聞いております。
自分の子供が生まれて間もなくあの世に旅立ってしまう、親にとって、どれ程の悲しみ、苦しみ、嘆きでありましょう。
私が生まれて物心ついた頃、母がしみじみと言った言葉を鮮明に覚えています。双子の兄が亡くなった後に母は、『あと二人、どうしても産まないといけないと思った』と。
この亡くなった双子の兄の後に、もう一人の兄と私が生まれ、そしてオマケのように三人目の弟も生まれました。
正しい理解か否かは別としまして、母は、亡くなった双子の兄の生まれ変わりを産まなければならないと思ったようであります。母の心には、助けてあげられなかった、というような思いが強かったのかも知れません。
しかし考えようによっては、この母の強い信念があったからこそ、私はこの世に生を受けることが出来たのかも知れません。
これ以外にも母は、人生の大海原の嵐の中を、小さな舟で乗り越えてきたような出来事が何度かあったようであります。このような辛い、厳しい人生を生き抜いてきた母はしかし、弱音を吐かない、強い強い母のように、思えてなりませんでした。
昔ながらの嫁姑の問題、気難しい夫、10人以上の家族を支えなければならい夫が病に倒れたときの気苦労、子供との死別以外にも数えればいくらでも出てくる複雑な家庭環境にも、いつも感情に押し流されない母であったように見受けました。
しかし実際には、そうではなかったようです。
いまから十年以上前に他界した母に付き添った日々を思い返してみると、晩年にこぼした愚痴が思い出されます。この強い母が愚痴をこぼすのか、と思ったものでありました。
余りに厳しい人生であったからこそ、弱音を吐くことが出来ない、いつもいつも自分を鼓舞しなければ自分が崩れ落ちてしまう、家族が崩壊してしまう、そんな人生を生きてきたように思えてなりません。
何と厳しい人生を選んできたのかと、母の魂の偉大さに襟を正したいと思います。
もう一人の兄のこと
10人兄弟の内、三人が亡くなっておりますが、亡くなったのは第一子と、第六、七子であります(第二子と第四子のみが女で姉になります)。
私は第九子になります。
第五子(亡くなった双子の上)も兄になります。
この兄も病弱というか、幼いときに大きな病に罹ったそうであります。
医者に罹っても治る見込みがない。母は、お百度を踏んだそうであります。
どこの神社仏閣かは聞いておりませんが、実家の近くの小さな神社に、お百度石があったので、そこではなかっただろうかと思っております。
どれだけの期間、お百度を踏んだ結果か、母は、兄の病気が治らないと、嘆いたそうであります。
お百度も効き目がないのか、医者にも見放され、神にも見放されるのかと嘆いたそうであります。
その時、母は、思いを変えたそうであります。
「治らない、治して貰えないと思っているけれど、この子は死んでいない。今も生かされている。医者にも見放されたのに、今も生かしていただいている」と。
それから後、どれだけの期間、お百度を踏んだのか・・・。
冬の寒い時期であったが、裸足でなければ効き目がない、と聞いた記憶があります。
この兄は、今も健在でいます。
母の、子に対する愛の深さに頭が下がります。
こんな事実を聞かされて知っている子供、こんな事実があるにもかかわらず聞かされずに知らないでいる子供、こんな事実があるなしにかかわらず危急の時、母は身を挺して我が子をかばうものでしょう。
子が、母の日を大切に思う気持ちは、当然の姿なのだろうと、納得せざるを得ません。
今年も母の日が近づいてきました。
世の中の子供の皆さん、年を召された子供もいらっしゃることでしょうが、母親が健在でいらっしゃるなら、精々、心を込めて、感謝の思いを表現して上げて下さい。
自分の命の根源なんですから、その根源に感謝の思いがなくて、自分の人生を祝福している、祝福されるとは言えませんものね?