表題は何のことかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、以下をお読みいただけたら、段々とその意図がお分かりいただけると思います。
ほんの少しの夫婦を除いて、大体の夫婦は相手のアラを見てしまう
「あばたもえくぼ」という言葉は、最近は余り聞かれなくなってきましたが、昔はよく使われていたようであります。
昔は両家の結婚と言われたように、家と家との結びつきを重視しましたので、家柄であるとか、財産であるとか、当然、容姿などについても親兄弟からの異論が挟まれたようでありますが、最近の結婚は、二人が決めることという風潮が強くなり、親兄弟や親戚の人がとやかく言うことは少なくなってきたようであります。
しかし、結婚する前は両者共が舞い上がってしまい、“あばた”(痘痕:天然痘が治った後の傷のことのようです)を“えくぼ”と勘違いしてというより、“あばた”が素敵などと思ってしまうようです。
“あばた”だけでなく、太っちょも、ガリガリも、服装のだささも、好きになってしまえばそれが返って魅力に映ってしまうのかも知れません。
でも結婚して一年、二年を待つまでもなく、舞い上がった気持ちも徐々に覚めてしまい、冷静な目で自分の伴侶を段々と見るようになっていくのでしょう。
自分が自分で素敵だと思っていた“あばた”も、やはり“あばた”は“あばた”だ、などと思うようになってしまい、逆にその“あばた”に目が引きつけられ、「この人の欠点はこれだな」などと思ってしまったりします。
いつの間にか、美点と思っていたものが欠点に見えるだけでなく、美点は当たり前で、欠点ばかりに目が行くようになってしまうのは、その人の育ちというか、いままでの生活環境、習慣がそうなっていたためなのかも知れません。
温かい、両親の会話の多い、いつも笑いの絶えないような家庭で育たれた方は、比較的、人の欠点を見ないで、美点を探すのが上手な方が多いようであります。が、このような家庭ははなはだ少ないのではないでしょうか?
逆に、チョット暗い、会話の少ない、当然笑いもなく、みんなで居間にいるよりは一人自分の部屋で過ごすことの多かったような人は、どうしても人さまの欠点に目が行ってしまうようであります。
これは致し方のないことで、物心ついてから、自分で修正を試みる以外、変えることは出来ないでしょう。
嫌みを言うと、嫌みが返ってくる
私の知り合いのあるご婦人が、自分のご主人の服装をいつも
「貴方のその服、ダサいわね。もっとチャンとして・・・」などと、一緒に出掛ける時などは、特に攻撃が激しくなるようでした。
ご主人は、自分ではチャンとしているつもりでしたが、何度も攻撃されると、自分はセンスがないのかなと思っていましたが、反論はしませんでした。
ところがある日、やはり一緒に出掛けるときに、「またその服装? 前も言ったでしょう、ダサいって。一緒に歩いている私が恥ずかしいんだから」と言われたそうです。
ご主人、堪忍袋の緒が切れて、こう仰ったそうです。
「ダサい、ダサいって、何度も言うなよ! そのダサい旦那を選んだ貴女は、どれだけダサいんだ!」と。
奥さんは初めて、このダサい旦那様を、自分が選んだということを突きつけられ、その現実に直面しました。直面したと言うよりは、初めて「主人を自分が選んだんだ」ということを認識しました。
そして、「嫌みを言うと、嫌みが返ってくるんだな」ということを実感しました。言った言葉は自分のものだから、自分に還ってくる、裁いたら裁かれるということは、こういうことなんだと実感されました。
伴侶を誉めると同時に、自分のことも誉めましょう
しかし、この奥様の素晴らしいところは、逆もまた真なりと思われたところです。
即ち、裁いたら裁かれるということは、誉めたら誉められる、嬉しいことを言うと嬉しいことが返ってくると思われたところです。
そして更に素晴らしいところは、それを思われただけではなく、実行に移されたことです。
どのように実行に移されたか・・・
ある朝のこと、ご主人が、食事の後片付けや、洗濯物を干して下さったそうです。
最近はご主人が家事手伝いをすることが増えて、こういう旦那様も多いように思われます。
このご家庭は、随分前からご主人もこのようなことを手伝っておられたそうでありますが、食器の洗い方が雑だとか、水を出しっ放しはダメだとか、洗濯物を干す時もあゝだ、こうだと文句を言っておられたそうです。
その挙げ句が「ダサい旦那を選んだのは貴女!」と言われたものですから、今度は逆に誉めようと思われたそうです。
「パパ、素敵! 食器洗いもピッカピカ。食器も悦んでいるわ。洗濯物を干すのもプロ級。主人じゃなくて、主婦も出来るわよ。かっこいいワー。素敵だわ、有り難う」と言われたそうです。
そして最後に、「きゃー嬉しい。こんな素敵なパパを、私が選んだ。こんな素晴らしいパパを選んだ私って、もっともっと素敵!」と言われたそうです。
パパなるご主人さまは、目をパチクリされながらも、満面の笑顔でママなる奥さんの顔をしみじみと見ておられたそうです。
自分のことして受け止めない限り、心美人に近づくことは出来ない
このご夫婦の記事を読まれ、素晴らしいな、素直にこんなことが出来るんだな、でも、自分にはチョット難しいな、そんなこっぱずかしいこと、出来そうにないなと思っておられませんか?
私も実はそうでした。
でも、自分を変えるのは、「理解と行為」と教えていただいております。
教えられて、良いことだと気付き、そのように理解出来たのであれば、その次に来るものは行動しかありません。行動を起こさなければいくら知識を詰め込んでも、単に頭でっかちになっただけで、一つも人間性は変わりません。心美人に近づくことは出来ません。
行動を起こして初めて、その知識が血となり肉となるのです。自分のものとなるのです。肩の力を抜いて、男はこうでなければならないとか、私は不器用だからというような思いをちょっと脇に置いてみませんか?
でも、心にないものを形にすることが大事なのではありません。もし奥様を、旦那様を大事に思う心が少ないのであれば、まず心をそのように高めることが大事でありましょう。そんな状態で形にしても何の意味もありません。
逆に心がそのような思いに満たされていれば、形に表すことがさして難しいことではなく、形に表して表現することが大きな意味を持ってくることでしょう。
そして、行動を起こすには、やはり知恵を働かすことも大事です。闇雲に猪突猛進することは、結果として実効を伴うものとならないケースも多いようでありましょう。
ある日私は、孫が遊びに来たときに、「お祖母さんは素晴らしいお祖母ちゃんかな?」と孫に聞きました。当然、妻(お祖母さん)が私の横に座っているときに、です。
孫は、キョトンとして何を聞かれているのか理解できないようでしたので再度、「お祖母さんはご馳走を作ってくれたり、風呂の準備をしてくれるけど、素晴らしいお祖母ちゃんかな?」と言いますと、「うん、素晴らしいお祖母ちゃん」と答えてくれました。
「他にも素晴らしいところ、ある?」と聞きますと、やれ、買い物に連れて行ってくれるだの、お菓子を買ってくれるだの、動物園に連れて行ってくれただの、チョット考えてはこんなことをしてくれた、あんなことをしてくれたと、どんどん出てきました。
私はここぞとばかり、「素晴らしいお祖母ちゃんだね。お祖母ちゃん、ステキだねー」と言いました。孫たちが、「ウン、ウン」と頷いているときにすかさず、「その素晴らしいお祖母ちゃんを選んだのは、このお祖父ちゃん。お祖父ちゃん、偉い、素晴らしい」と言いました。
孫は、私の言っていることの趣旨がよく理解できないように、ジッと見つめていましたが、その横で娘(孫の母親)が、「そんな言い方やったら、この子らには通じへんよ」と言いましたので、私は「そうか」とだけ答えました。
私の目的は、孫に理解して欲しいと思ってのことではありません。
ただ一つ、妻にこの言葉を聞かせたい、私が思っていることを表現したいということだけでした。
面と向かってはこっぱずかしいので、孫には申し訳ないことかも知れませんが、この言葉を出すためのダシに使わせて貰ったのです。
妻からは何も言葉が出てきませんでした。
でもきっと、心に温かいものを感じているはずだと、一人ほくそ笑んでいます。