正しく思えないが故の家庭内別居・・・自己中心に見ているということ

【プロローグ】

 私は、法友と、二ヶ月に一回、勉強会を行っています。

 ある日の勉強会で、ある女性から、「今、主人との夕食は、別の部屋で摂っている」との、衝撃的な話がありました。

 詳しく聞きますと、この女性は耳の聞こえが悪く、普通の音量ではテレビの声がよく聞き取れないそうであります。

 食事時に、テレビの声を小さいまま(普通の人には普通の音量)で聞いているが、内容がよく分からないようで、そんな状態でご主人から、テレビの内容についての質問や感想が投げかけられても答えられないそうです。

 そこで、テレビの音声を大きくすると、ご主人からは大きすぎるとクレームがあったので小さくせざるをえず、そんな状態が続いた数日後に、「テレビの声が聞こえないから、別の部屋で食事をする」と言ったそうです。

 ご主人からは、「それなら声を大きくしよう」等という言葉は発せられなかったので、別の部屋で食事をすることにした、とのことでした。

【法から見ると?】

 私たちは、正法に帰依したといっても、ついつい、自分に甘くなってしまったり、止観を忘れてしまったり、止観をしても正しい基準(法)を失念したりしてしまいます。帰依したつもりの「積もり人間」になってしまいがちであります。

 天上の光の天使の方から以前に、次のように言われたことがあります。

 『この地球上に正法と言ってやっておられる方々も沢山いますが、ままごとにも及びません。ただただそれを知っている、やっていると本人たちが思っているだけのことで、赤子のようにゴロゴロ転げ回って、おもちゃにしているだけのようにしか見えません。
 しかしあなた方は本当の正法というものに今、目を向け、やろうとしているのですから、中途半端な心でそれらを掴もうとするのであるならば、もう少し自分自身の心をしっかり見据えていかなければ、自分自身が正法に飲み込まれ、返って苦しいことにもなります』

 まさしくこの通りでありましょう。

 この方は、中途半端な気持ちで正法に対していたとは言いませんが、結果として正道から外れてしまい、こころ苦しい思いでいることでありましょう。この告白をしたこと自体が、自分の心にわだかまりが在ったということの証でしょう。正に、正法に飲み込まれてしまっているのかも知れません。

 原因は何でしょう?

 根本原因は別にして、第二原因は、キチンとした反省をしていなかったからでありましょう。中道を失したからでありましょう。自己中心に物事を見てしまったからでありましょう。

 私は咄嗟に、「それは駄目でしょう?」と言っていました。「一番大事なのは夫婦の調和。テレビの声が聞こえないぐらい何ですか? そんなモノ、聞こえたって聞こえなくたって、どうでも良いことでしょう。大事なのは調和、これしかありません」

 私たち正法を学ぶ者は、自分が極端に振れていないか、中道を歩んでいるか、止観・反省によって、正すことが出来ます。しかし、それには条件があります。『正しい』という基準を、心に学び取っていることが必要であります。

 正しいという基準を学び取る方法は、高橋信次先生のご著書を拝読して、自分の心に落とし込むしかないようであります。

 丸山弘先生は、正法に帰依して最低一年はご著書を拝読して、正しさという基準を理解してからでないと、反省をしなさいとは仰いませんでした。神の正しさと常識的な正しさとは、全く基準が違うということでありましょう。

 普通の人は、少し反省をしても、正しい基準が分からないものだから、「これくらいは良いだろう」とか、「これは相手の問題」「原因は向こう」「悪いのは相手」等と、意識を自分に向けることが、なかなか出来ないでいるんです。

 逆に言うと、止観・反省をして正しく軌道修正できることこそが、正法を学んでいる人間の特権でしょう。誤った道を正道に戻すことが出来るんですから。

 話が横道に逸れましたが、もう少し色んなやり取りがあった後この女性は、「中道って難しいね」と言い、「(このことを)言わんかったら良かった」とつぶやいていました。

 このつぶやきも、自己保存、ですね。「あゝ、有り難うございます。自分が気づけなかったことを教えて貰えた」と.、その瞬間に思えるようでないと、本当に正法に飲み込まれてしまい、苦しい苦しい思いをすることになってしまうことでしょう。

 時間が来たので、この会話を最後にこの日の勉強会は終わりました。

 きっとこの女性は、家に帰ってから、このことについて反省をしたことでありましょう。

【家族全てに平等の愛を注いでいるか?】

 私たちは、同じ家族であっても、他の家族や子供に対してであれば許せることでも、ご主人や奥様に対しては、なかなか同じ思いを持てないようであります。

 だからこそ、日々、自分の思いや行いを反省の俎上に上げて、中道の道を歩んでいるか、極端に走っていないか、愛に満ちているかを振り返ることが大切であり、それが出来るのが、正法を教えていただいた人間の悦びでありましょう。

 結婚して30年、40年経って、このような出来事、ある意味での家庭内別居というような出来事が起きてきたということは、それが起こるべく積み上げてきた30年、40年があったということをお教えいただいております。突然、ここ数日で、数ヶ月で、数年で、このようなことが起こったのではありません。

 子供に対して抱いている愛を、ご主人や奥様に抱けない原因はどこにあるのか、その積み重ねてきてしまった30年、40年の歳月の在り方を、見直し、反省しないといけないのでしょう。

 妻だから、夫だからと自分と同等に見てしまう、これぐらい当たり前と思ってしまうことが多いとお教えいただいていますが、つぶさに、自分たち夫婦の過ごしてきた過去の一齣一齣に、自分の発した思い・行いを振り返り、どこに原因があったのかを見つめなければならないのでしょう。

 子供から同じことをされた(テレビの音量が小さくて自分には聞こえない)としても、例えば、「○○ちゃんと一緒にご飯が食べれるんやから、それで充分」と思えることが、どうしてご主人には思えないのでしょう? どうして奥様には思えないのでしょう?

 自分のほんの身近な奥様やご主人、家族に対してそんな思いが抱けないとしたら、赤の他人に対して、愛の思いを抱けるはずがありませんよね。

 もし、赤の他人であれば出来ると思っている人は、その行為が一ヶ月に一回であったり、極端に少ないから、我慢をしているに過ぎないことでしょう。

 その我慢を、愛の思いや行いと勘違いしているだけでしょう。それが毎日続いたとしたら、100%の確率で、放り投げていることでしょう。『何でこの人にそこまでせんとあかんの?』と。

 毎日過ごしている、そして支え合っている家族に対して出来ないことが、ただの知り合いに、他人に出来るはずがないではありませんか? 毎日接している家族に愛の思い・行いが出来てこそ、初めて外の人に愛を分かつことが出来るのでしょう。

 だからこそ、愛の修行のこの人生において、反省ということが何にも増して大事な要件となってくるのでありましょう。そしてその根本は、家庭を築き合っている家族に対する愛、調和ということになりましょう。

【反省からの実践について】

 ただ、止観し、反省し、これはいけないと思っても、長年の積み重ねてきた不調和の重みは想像を絶するものがあります。「分かった。法から外れていた。じゃあ、私の思い・行いを変えましょう」と言って、簡単に変えられるものではありません。

 いくら決心して実行に移そうとしても、同じ事象が起これば、直ぐさま怒りや非難の思いが込み上げてきます。この場合のテレビの音量であれば、一日三回も、「さあ、どうだ!」と試されることになります。

 「怒ってはいけない」とその時は我慢し、食事後に止観を思い出し、「これではいけない」と反省しても、繰り返し繰り返し、同じ思いが込み上げてきます。

 こんな精進、いくらやっても解決しないんじゃないかと思えてきたりします。決心した筈なのに何故?と思えてきたりします。

 高橋信次先生は、『人間の心は、そんなに安易には出来ていない』とお教え下さっています。『人の心がそうした安易なことで一変するとしたら、その人の心はまことにお粗末にできている、としかいいようがないように思います』

 ではどうすればいいのか?

 高橋信次先生は、こうもお教え下さっています。
 『信だけでは人間の業(カルマ)を変えることはできないのです。人間の心を変えるものは、「理解と行為」なのです』と。

 「分かった! じゃあ、やるぞ!」と決心(信)しても、それだけで簡単に変えられる心ではないということです。

 何故こんなことになったのか、その原因を追究し、何故その心を変えるのか、どのようにしてその心を変えるのかを、心から理解することがまず第一歩です。

 自我が、「そんなこと言ったって悪いのは相手でしょう?」等と反論するようでは、その理解は本当の理解ではありません。「相手が声を大きくしてくれたら終わりやん」などと言ってこないような、一分の隙もない、自我も心から同調するような理解でないといけません。

 第一歩の理解がキチンと出来たその次は、この心を変えると決心することです。何が起ころうと、何度同じ思いが湧き上がろうと、「やる!」と決心することです。

 理解が完全であれば、自我は抵抗を示しません。やり遂げるか否かは、私自身、あなた自身、本人の意志にかかっています。カルマが強ければ強いほど、決心も強くなければいけません。

 高橋信次先生は、こうも言っておられます。
 『正法は自力であり、善なる正しい心で生活してゆこうとするものですから、強い意志が必要になってきます。本来は、そのような強い意志は必要ないのですが、これまで旧来の習慣や思想の中で生活してきたのですから、いわば、その軌道修正のための、強い意志が必要になってくるのです』

 従って、その決心を実行に移し、何度も何度も試行錯誤をし、何度も何度も実践を積み重ね、その行為、愛の行為が当たり前のように出来て初めて、業を超えることが出来た、今までの悪しき思いの心癖を乗り越えることが出来たと言えるのでしょう。

 一度乗り越えたと思っても、それでも暫くするとまた、同じ思いが噴出してきたりします。自分がその心癖を積み上げてきた、30年、40年の重みがあります。ここにも自我が納得しているか否かによって、何度でも再チャレンジが出来るか、挫折するかが決まってきます。

 つまずきが起こる度に、自我が色んなことを囁きかけます。「ここまで頑張ったんだから、もう良いんじゃない? 最大限の努力をしたんだから」「もう仕方がないんじゃない? だって、悪いのは向こうでしょう?」などと。

 自我が心底納得していれば、真我が、「こんなことでは駄目だ、駄目だ。もう一度やり直そう!」と心に思った時、自我も、「よし、そうしよう!」と同調してくれ、前に進むことができます。

 この例で言えば、ご主人がテレビのニュースを聞いていて、「この解説はチョットおかしいよね」などと言われたら、「あら、そう? ご免なさいね。余りよく聞き取れていなかったの? どんなことを言っていたの?」と、笑顔で問い返せるようになるまで、実践を積み重ねていかないといけないのでしょう。

 何度、試行錯誤や行きつ戻りつの事象が現れようと、『理解と行為』、キチンと心から理解したのであれば、そして不退転の決意があるのであれば、いつも反発している自我・表面意識も納得せざるを得ません。

 何度同じ非難の思いが湧き上がってきたとしても、揺るぎない決心が実践を支えてくれます。

 その結果、この一大難事業と思われていたことが、小さな山を何度か越え、大きな山を越えれば、何でこんなことに思い悩んでいたんだろうと、自ずと思えてくるようになることでしょう。

 そして上記のように、「あら、そう?・・・」と、笑顔でご主人に接していたら、いつの間にかご主人がテレビをつける時に、音量を大きくしてくれているかも知れませんね? 貴方との会話をもっと楽しいものにするために。

 でも、大きくしてくれなくても良いのです。奥さんの心が、旦那さんの心が大きく変わった、それだけで充分すぎるのです。

 決して簡単なことではありませんし、法を理解していない人にとっては、至難の業でしょう。ここにも、法に帰依した人間の有り難さがあるのでありましょう。解決の道が示されているのですから。

【二ヶ月後の勉強会で】

 この話があってから二ヶ月後、次の勉強会がありました。

 この方はどんな話をされるのだろうと、こちらからは質問はしないでおきました。

 するとその方は唐突に、「補聴器って高いね。○万円もする」と発言されました。

 この方は反省もされたのかもしれませんが、緊急避難策として、補聴器を買って、テレビの音が聞きやすいようにされ、ご主人との家庭内別居を解消されたようです。

 このやり方がいけないということではありません。胃がキリキリと痛むような時に、その原因を突き止める反省をしなさいと言って、簡単にできることではありません。先ずはその痛みを止める痛み止めの注射などをして貰って、それから本丸の反省に向かうことも大事なことでありましょう。

 しかしこの方は、ちょっと残念なことに、この緊急処置でご主人と一緒の食卓に着かれたということで、ほぼ問題の解決がなされた、即ち家庭内別居を解消したというように思われたのかもしれません。どうも、その後のお話を聞いていても、ご主人の反省に関する話は一切出てくることはありませんでした。

 もし、家庭内別居を始める前に補聴器を購入して、別居を避けたということであれば、これは立派な問題解決策であって、法に適った、愛、調和に向けた思い・行いであるということが出来るでしょう。

 肉体的な問題が発生したとき、その原因を自分の思いと行いに求めるということは、法の原点であり、大変大事なことと言うことが出来ますし、この反省を為さなければ、正法を行じているということは出来ないことになってしまうでしょう。

 しかしながら、肉体的に老齢化(この方は70歳前後)してきますと、肉体的不都合が、自分の思いに起因することか、老齢による肉体的衰えかという区分は非常に難しくなってきます。当然我々、心の窓が開かれていない人間には尚更であります。

 このような場合は、自分が法の道を歩んでいるか、甘えはないか、第三者的に見ているか、何かに固執していないか、中道の道を歩んでいるか、まず、反省することが大事でしょう。

 何か心に引っかかるものがあれば、このことを縁にその是正に動き出すべきでありましょうが、もし引っかかりがないのであれば、老化ということも含めて、受け入れることも大事なのかもしれません。補聴器のように物理的に補うことも、一つの方法でしょう。

 しかし今回の場合この方は、肉体的不調を縁として、第一の思いと行いに於いて、家庭内別居のような道を選択してしまいました。

 このことは、誰が何と言おうと、不調和であります。道から外れております。

 この不調和を、補聴器をつけたことによって形だけを繕う、家庭内別居を元の形に戻す、これは、外面を繕っただけで、家庭内別居を選択してしまった愚かな思い、心はそのままであります。

 この思いを反省をして、自分の心が抱えている根本問題の解決に向かわなければなりません。もし、正法に帰依しているという人であるならば。

 当然、私も偉そうなことが言える立場でも状態でもありません。しかし私の場合は結果として有り難いことに、もっともっとひどい状態でありました。家庭内別居ではなく、本当の別居でありました(宜しければ、『我が正法への道(お導きを頂いて)』をご参照下さい)。

 私の場合は、補聴器のような外的な物で補うことなど、及びもつかない状況でありました。だからこそ、自分の心を見つめる、自分の思いが如何にねじ曲がっており、それが今の状況を引き起こしたのであると、真っ正面から向き合わざるをえない状態でありました。

 病気でも、初期の胃がん程度であれば、手術ですぐに治ってしまいます。しかし末期癌であれば、手術しても治る見込みはない、そんな時に人は、真っ正面に自分の思いと行いを見つめ、反省するものでありましょう。そして回復する人もいらっしゃることでしょう。

 重い重い病が、厳しい厳しい環境が、結果として、その人を救う重要な要素であることも多いのでありましょう。

 この方は、補聴器で補うことが出来る程度の問題と片付けてしまったことが、「今、反省しなさいよ!」という心の内面からの声を聞き逃してしまわれたのかもしれません。

 更に厳しい環境が来る前に、心からの反省をされますよう、お祈りいたしますと共に、今回の勉強会ではチャンスがありませんでしたが、また機会があれば、進言させていただきたいと思わせて頂いております。


 子どもたちに対しては許せることでも、奥さんに対して許せないと思っていることはないか?
 独立して暮らしている、同居しているということとは関係なく、同じような愛を、家族としての愛を平等に注いでいるか?
 自分自身の日々を振り返ってみる機会をお与え下さいましたことを、感謝申し上げます。

 有り難うございます。有り難うございます。

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